2006年5月12日 読売新聞西部本社 朝刊 【地域面】日露両司令長官のひ孫、対馬「友好の丘」で再会へ
日露両司令長官のひ孫、対馬「友好の丘」で再会へ
日本海海戦慰霊祭=長崎
◆日・東郷、露・ウエンスキー 慰霊祭で交流へ
1905年の日露戦争・日本海海戦で、旧日本海軍の連合艦隊を指揮した東郷平八郎司令長官と、旧ロシア・バルチック艦隊を率いたロジェスト・ウエンスキー司令長官のそれぞれのひ孫が27日、 戦場となった海域に近い対馬で対面し、交流を深めることになった。
保坂宗子さん(東京都文京区)と、スペチンスキーさん(ロシア・サンクトペテルブルク)。昨年5月、同海戦100周年記念事業を開いた対馬市の市民団体「対馬・歴史顕彰事業推進委員会」(武末裕雄委員長)が、 今年も海域を見渡す対馬市上対馬町殿崎 [とのさき] の「日露友好の丘」で慰霊祭を計画し、そこへ招く。
委員会によると、慰霊祭では、日本兵とロシア兵の5100人を超える戦没者名を刻んだ「日露慰霊の碑」前で、式典や保坂さんらによる記念植樹、海上での献花などを予定。平和や航海の安全などを願う。
同海戦は05年5月27、28日に対馬沖で戦われ、日本海軍の連合艦隊がバルチック艦隊を撃破。「対馬沖海戦」として知られている。
東郷司令長官は海戦後、負傷して入院したウエンスキー司令長官を佐世保市の海軍病院に見舞っており、日露友好の丘には、その場面を彫り込んだ「平和と友好の碑」がある。
2人は2004年3月、サンクトペテルブルクで開かれた日露戦争に関する国際会議で初めて対面。昨年10月には、山梨学院大(山梨県甲府市)で開かれた日露戦争に関する国際会議で会ったが、対馬での対面は初めてとなる。
武末委員長は「戦場に近い対馬で、ひ孫お二人の対面がやっとかなう。友好を深めてもらえればありがたい」と話している。
対馬の要塞化 ~道路と橋と要塞~
対馬海峡の防備や朝鮮半島の戦略防衛基地として重要視されていた対馬では、1887年(明治20年)ころから要塞の整備が始まりました。美津島町の竹敷に海軍要港部が置かれ、日露戦争間近の明治34年(1901年)、竹敷から対馬海峡東水道に水雷艇隊などを出撃させるため、万関瀬戸が開削されました。1905年には、日本の太平洋艦隊が、対馬沖を北上するロシアのバルチック艦隊を壊滅させ、日露戦争の帰趨を決することとなります。日本では日本海海戦と呼ばれるこの戦いは、世界では対馬海戦(Battle of Tsushima)と呼ばれています。
日清・日露戦争時から第2次大戦中にかけて、対馬は全島が要塞化されましたが、これらの要塞はほとんど活躍することなく終戦を迎え、戦後の武装解除による破壊を免れた要塞も、今では静かに草木に埋もれつつあります。
ちなみに、万関浦の開削工事は、大成建設の前身・大倉土木組によるものと言われていますが、軍事施設でもあり、図面などはほとんど残されていないようです。この時代を感じさせてくれる遺物としては、万関瀬戸や要塞遺跡以外にも、対馬の道路があげられます。対馬の道路は集落を経由しない場合が多く、これは要塞間を最短距離で結ぶためのようです。
また、上対馬町殿崎・茂木・琴等の住民は、日本海海戦で傷ついて海岸へと漂着した多くのロシア兵を救助し、宿と食料を与えました。日本とロシアの海上での攻防に一喜一憂し、日本の勝利に喝采する一方で、戦争に敗れた敵国の兵隊の命を助けたのは、島人の素朴な人間性の発露だったのでしょうか。
日清・日露戦争時から第2次大戦中にかけて、対馬は全島が要塞化されましたが、これらの要塞はほとんど活躍することなく終戦を迎え、戦後の武装解除による破壊を免れた要塞も、今では静かに草木に埋もれつつあります。
ちなみに、万関浦の開削工事は、大成建設の前身・大倉土木組によるものと言われていますが、軍事施設でもあり、図面などはほとんど残されていないようです。この時代を感じさせてくれる遺物としては、万関瀬戸や要塞遺跡以外にも、対馬の道路があげられます。対馬の道路は集落を経由しない場合が多く、これは要塞間を最短距離で結ぶためのようです。
また、上対馬町殿崎・茂木・琴等の住民は、日本海海戦で傷ついて海岸へと漂着した多くのロシア兵を救助し、宿と食料を与えました。日本とロシアの海上での攻防に一喜一憂し、日本の勝利に喝采する一方で、戦争に敗れた敵国の兵隊の命を助けたのは、島人の素朴な人間性の発露だったのでしょうか。