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[転載]1.日韓国交断絶国民大行進in浅草・朝日新聞「日本と韓国、歴史認識で向き合い信頼きずけ」・嫌だ!

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日韓国交断絶国民大行進 in浅草20130428
韓国に媚びて何か良い事ありますか?
日韓断交こそ真の主権回復への第一歩!【日韓国交断絶国民大行進in浅草】

平成25年4月28日、浅草ビューホテル前

http://www.asahi.com/paper/editorial.html
2013年 4月 28 日(日)付
朝日新聞
社説

日本と韓国―向き合い、信頼きずけ

 大岩を頂に担ぎ上げたと思えば、そのたびに歴史認識問題で一気に転げ落ちる。日本と韓国の関係はギリシャの「シジフォスの神話」を思いおこさせる。

 昨年春、中国で開かれた日韓外相会談で、韓国側はこの神話をたとえに取りあげ、「日本が歴史を直視しなければ、根本的な問題の解決は難しい」と語りかけた。

 それから1年。韓国の尹炳世(ユンビョンセ)外交相は、26日に予定していた日本訪問を直前に取りやめた。

 韓国側が事前に再考を促したにもかかわらず、麻生副総理・財務相らが靖国神社へ参拝したための判断だという。

 日韓でともに新政権ができ、初めてむかえる外相会談だっただけに極めて残念だ。

 今回の会談には、とりわけ大きな意味があった。

 挑発的な言動をやめない北朝鮮問題の協議にくわえ、冷えこんだ両国関係を改善する契機にしたいとの期待が、双方に出ていたからだ。

 日本と韓国は、民主主義や市場経済という価値観を共有する隣国として、ともに歩みを進めてきた。

 2年後に、1965年の国交正常化から半世紀を迎える。大きな節目に向け、何ができて何ができないのか。それを話し始める時期がきている。

 そういう外相会談を目前に控えるとき、麻生氏らに続き、168人の国会議員が大挙して靖国神社に参拝した。

 韓国側の反発は当然予想された。戦略性や外交感覚に欠けた行動と言わざるを得ない。

 韓国にも注文したい。

 日韓の国交は、いまの朴槿恵(パククネ)大統領の父、故朴正熙(パクチョンヒ)大統領が、国内の強い反対の声を押し切って実現させた。

 朴正熙氏は「売国奴」のレッテルを貼られることもあり、朴槿恵氏は対日外交を慎重に進める方針だといわれる。

 だが朴槿恵氏が外交や南北関係の中心に据えるのは「信頼」だ。核・ミサイル開発を進める北朝鮮にもこれまで「戦争中でも対話は必要」と、向かい合うことの大切さを語ってきた。

 尹外相は今回、日本を訪れて直接、歴史認識問題をふくむ両国関係の重要性を説く選択もあったのではないか。

 日韓間には、北朝鮮への対応にも大きく関係する軍事情報の秘密保護協定(GSOMIA)の締結や、経済連携協定(EPA)の交渉再開など、懸案が積み残しになったままだ。

 むなしい神話を終わらせるためにも、日韓は信頼の再構築を急がねばならない。


>昨年春、中国で開かれた日韓外相会談で、韓国側はこの神話をたとえに取りあげ、「日本が歴史を直視しなければ、根本的な問題の解決は難しい」と語りかけた。


歴史を直視すると、朝鮮は新羅の時代から歴代支那帝国の属藩だった。

朝鮮は、663年の「白村江の戦い」で唐の力によって日本の勢力圏から外れた時点から、1895年の日清戦争後の下関条約が締結されるまで、1200年以上に亘り歴代支那大陸帝国(唐や元や明や清)の属藩だった。


明の属国朝鮮 朝貢属国!1602 日本海(Sea of Japan)「坤輿萬國全図」、制作Matteo Ricci、北京。
朝鮮が明の属国だった証拠!
「朝鮮」…「朝貢属国」

1602 日本海(Sea of Japan)
「坤輿萬國全図」、制作Matteo Ricci、北京。




大清国属 高麗国旗
朝鮮が清の属国だった証拠!
大清国属高麗国旗

(大清国に属する高麗の国旗)




土下座碑 ホンタイジに土下座する仁祖(銅版)
「土下座碑」
ホンタイジに土下座する仁祖(銅版)




迎恩門 清皇帝から受けた恩に、感謝して迎えるために作った門。ここで朝鮮王は、9回頭を地面に叩きつけて、ひれ伏し、清の使者を迎えた。
「迎恩門」
清皇帝から受けた恩に、感謝して迎えるために作った門
ここで朝鮮王は、9回頭を地面に叩きつけて、ひれ伏し、清の使者を迎えた。




日清戦争後に清から独立したために建てられた「独立門」。その前に「迎恩門」の石柱が残っている。
「独立門」
日清戦争後に清から独立したために大韓帝国が建てた。
その前に「迎恩門」の石柱が残っている。




以上のとおり、1200年以上に亘り、朝鮮は支那の属藩・属領だった。
しかし、当時、日本は、朝鮮がこのまま沈みかけている清朝の属領のままでは日本にとっても危険だと考えたために清朝の支配から切り離そうとした。
だから、日朝修好条規で、日本は朝鮮の自主独立を承認し、清朝の宗主権を否認した。

ところが、清朝はそんなことはお構いなしにいつまで経っても朝鮮を属領・属藩にし続けた。
日本がせっかく朝鮮を「独立国」として認めたのに、清と朝鮮の関係に変化はなかった。

1894年6月6日、清国公使、陸奥宗光外相に、朝鮮国王の要請に応じ属邦保護のため出兵する旨を通告
陸奥外相、朝鮮を清国の属邦とみとめずと抗議

日清戦争

朝鮮の内部にも、儒者などを中心に「小中華」を自負し、「独立なんてとんでもない、いつまでも小中華として支那の属領・属藩であり続けるべき」という連中が大勢いた。

だから、日清戦争後の下関条約では、「獨立自主ノ國タルコトヲ確認」という文言になったのだ。

―――――
下関条約
1、清國ハ朝鮮國ノ完全無缺ナル獨立自主ノ國タルコトヲ確認ス
(清朝の朝鮮に対する「宗主権」放棄=朝鮮独立の承認)
―――――



以上のように、朝鮮は、日本のお陰で、支那(大清帝国)から独立できた。

また、朝鮮内部においても、一部の権力者が暴力の支配によって朝鮮民衆に塗炭の苦しみを与えていた。


併合前の朝鮮は地獄だった日韓併合前の朝鮮人の豚犬的生活
併合前のソウル

併合前の朝鮮は地獄だったといってよい。
玄永燮

両班たちが国を潰した。
賎民は両班たちに鞭打たれて、殺される。
殺されても、殴られても、不平は言えない。
少しでも値打ちがあるものを持っていれば、両班が奪っていく。
妻が美しくて両班に奪われても、文句をいうのは禁物だ。
両班の前では、全く無力な賎民は、自分の財産、妻だけでなく、生命すらその気ままに委ねられている。
口一つ間違えればぶったたかれるか、遠い島へ流される。
両班の刃にかけられて、生命すら保つことができない。
『血の涙』李人稙(1862-1916)

 
 

多くの朝鮮民衆は、地獄から救われることを願い、また、世界の一等国民になりたくて、日韓合邦を要望した。
「合邦」を望む、朝鮮半島からの熱意あふれる電報の数々。
「合邦」を望む、朝鮮半島からの熱意あふれる電報の数々

大韓帝国で最大の政治団体だった「一進会」は1909年12月4日、「韓日合邦を要求する声明書」を作成し、上奏文と請願書をそれぞれ李完用総理、皇帝純宗、曾禰荒助統監に提出した。

しかし、日本側の併合反対派であった曾禰荒助統監は、この合邦案を時期尚早との理由で却下すると共に、新聞社、通信社に働きかけ、反対の論調をとらせた。

それでも、韓国側の併合推進派である一進会は上奏書を却下されてもまた提出し、これを繰り返すこと4回目に桂首相の指示により遂に受け取られた。


1910年8月16日、李完用首相は日本の水害見舞いと称し、趙農相を伴い、寺内の居る統監邸を訪れた。

ここで山県副統監を交えた会談3時間に及び、若干の修正にて日韓併合は合意に達した。

この結果にもとづき李完用首相は8月18日に閣議を開いたがまとまらず、8月21日李完用が皇帝に内奏し、皇帝の了承を取り付けた。

これにより1910年8月22日の韓国の御前会議で韓国は正式に日韓併合を決定した。

(上)日本統治前、(下)日本統治中
(上)日本統治前、(下)日本統治中

日韓併合により、日本は、階級による身分差別を撤廃し、両班による搾取・虐待から農民を救い、移住の自由を認めさせ、残酷な拷問や刑罰や一族の罪人連座法などを廃止し、女性再婚の自由を保障し、人権尊重などの法治国家の基礎をつくり、学校教育制度を導入し、読み書きを教え、ハングル文字を復活・普及させ、台湾では運動が起きても1~2%にしか許可しなかった改姓名だが、85%の朝鮮人には創氏改名を許可し、鉄道網、道路網を整備し、港の開設工事をし、水力発電所を建設し、重化学工業を興し、緑化政策によって山野を甦らせ、不毛の地を開拓し、河川大事業で洪水を減少させ、水田を倍増させ、世界中から世界一不潔と言われた町々を清潔にし、近代医療制度を導入し、平均寿命を24歳から45歳にのばし、人口を2倍にし、内地(日本)への渡航規制を犯して来る密航者にも寛容に対処した。

併合後のソウル
併合後のソウル



 
>そういう外相会談を目前に控えるとき、麻生氏らに続き、168人の国会議員が大挙して靖国神社に参拝した。
>韓国側の反発は当然予想された。戦略性や外交感覚に欠けた行動と言わざるを得ない。



朝日新聞が良く言うよ!

昭和60年(1985年)頃まで、日本の首相は年に3~4回ずつ靖国神社を参拝していたが、支那も韓国も全く問題視しなかった。

支那や韓国に「日本の首相が靖国神社を参拝したら、反発しなさい!怒りなさい!神経を逆なでされたと感じなさい!」と持ちかけたのは、朝日新聞だった。


いわゆる「A級戦犯」とされてしまった方々が合祀されたのは1978年だが、マスコミはその翌年に合祀のことを報道していた。

その合祀以降も、大平正芳首相や鈴木善幸首相などが靖国神社を参拝したが、支那も韓国も文句など言わなかった。

それどころか、彼らが支那を訪問すると、支那は熱烈歓迎していたほどだ!

━━━━━━━━━━
1959年
靖国神社が「公務死」と認定された「戦犯」を初めて合祀

1978年10月
天皇陛下にA級戦犯合祀が上奏され、秋季例大祭前日の霊璽奉安祭で合祀

1979年
大平正芳首相が春と秋の例大祭に靖国を参拝し、国内メディアは合祀と首相の靖国参拝について執拗に報道。



大平正芳首相
1979(昭和54)年から1980(昭和55)年にかけて靖国神社を3回参拝。
(1979年4月21日・同年10月18日・1980年4月21日)


1979年12月
大平正芳首相は夫人を伴って支那を訪問、支那は大平正芳首相を熱烈大歓迎。
「中日友好医院」建設、対支円借款などを約束



鈴木善幸首相
1980(昭和55)年から1982(昭和57)年にかけて9回参拝。
(1980年8月15日・同年10月18日・同年11月21日・1981年4月21日・同年8月15日・同年10月17日・1982年4月21日・同年8月15日・同年10月18日)


1982年9月
鈴木善幸首相が支那を訪問、(北京政協礼堂で)日支国交正常化10周年記念講演



中曽根康弘
1983(昭和58)年から1985(昭和60)年にかけて10回参拝。
(1983年4月21日・同年8月15日・同年10月18日・1984年1月5日・同年4月21日・同年8月15日・同年10月18日・1985年1月21日・同年4月22日・同年8月15日


1984年3月
中曽根康弘首相が支那を訪問、「日中友好21世紀委員会」発足、4700億円の円借款供与で合意
━━━━━━━━━━


上記のように1978年に、いわゆる「A級戦犯」合祀後も、日本の首相はマスコミが報道する中で靖国神社を参拝していたが、支那も韓国も嫌がっていなかったから何の異議申し立ても行なわなかった。

支那や韓国が日本の首相の靖国参拝に文句をつけ始めたのは、朝日新聞が支那をそそのかした後の1985年以降だ。

『朝日』加藤千洋記者
①『朝日』加藤千洋記者
↓「中国『日本的愛国心を問題視』」ほか
↓1985年(昭和60年)8月7日

②社会党 田辺誠書記長ら訪支
↓1985年(昭和60年)8月26日

③支那の姚依林副首相が初めて政府要人として中曽根康博首相の靖國神社参拝を」批判
 1985年(昭和60年)8月27日
 これ以前、歴代首相は、いわゆる「A級戦犯」合祀後も20回も靖国神社を参拝している(合祀前も含めると58回)。

支那工作員朝日新聞→報道ステーション加藤千洋記者
支那工作員 朝日新聞→報道ステーション 加藤千洋

■YouTube 動画
『靖国問題に火を付けたのは報ステの加藤千洋だった!』
http://www.youtube.com/watch?v=KT-Dj8agc4Y

 


(つづく)

転載元: 正しい歴史認識、国益重視の外交、核武装の実現


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