今切川
今切川河口堰より撮影(板野郡北島町) | |
一級水系吉野川 | |
一級河川 | |
11,65 km | |
-- m | |
-- m³/s | |
33.4 km² | |
旧吉野川より分流 | |
紀伊水道 | |
徳島市、松茂町、北島町 |
地理・歴史
昔から川舟の重要な交通路で、榎瀬江湖川や鍋川と結んで徳島〜撫養間の水路として利用され、明治25年から昭和35年の間は阿波巡航船の定期航路となった。河口の長原港からも徳島市両国橋まで、大正10年〜昭和33年の間定期船が出ていた。
環境
(VTR)
昭和30年代前半、今切川の流域には東亜合成や日清紡績などの大企業が相次いで進出。
昭和39年に新産業としに指定された後も大塚製薬などが進出し今切川流域は化学工業地帯として発展と遂げました。
しかし、工場から今切川に垂れ流される排水は次第に川を汚染していきます。
そして昭和40年代に入ると地元の漁協には、妙な臭いにする魚が次々と水揚げされるようになります。異臭魚です。
その後、昭和46年、地元の漁協からの依頼で県は工業廃水を調査。
その結果、翌47年には
「異臭魚の主な原因は東亜合成徳島工場の工場排水だった」と発表しました。
工場の製造工程に副産物としてできる「有機塩素化合物」が原因でした。
さらに県では、日清紡績や日本理化などの工場排水も異臭魚に関連しているとして排水対策を指示しました。
しかし、今切川の汚染は異臭魚だけでは終わりませんでした。
昭和47年にはPCB、翌48年には水銀が
東亜合成の排水口付近のヘドロから検出されたのです。
両方とも人体に悪影響を及ぼす物質で、特に水銀は、水俣病の原因でした。
このPCB、水銀汚染の波紋はたちまち広がり、県全域の漁業関係者を巻き込む問題に発展します。
「魚はどれも安心して食べられない」今切川の魚だけでなく汚染されていない他の近海魚までが売れなくなったのです。
中央卸売市場では、連日魚の大暴落が続きました。
東亜合成はその後、過去11年間にわたり約0.9tもの水銀を今切川に流していたと発表。
一週間の操業停止に追い込まれました。
しかし、その後の再調査では、魚介類から規制値を上回る水銀は検出されず、県は安全宣言を出しました。
もつれた漁業補償問題も会社側が3億5千万円を漁業関係者に支払うことで妥結、汚染魚問題は一応の決着をみました。
しかし今切川流域ではこうした水質汚染だけでなく同時に大気汚染も問題となります。
周辺住民の中に、工場の煙が原因とされる気管支炎やぜん息患者がいることが発覚したのです。
この問題で行政側は、改めて企業に対する管理の甘さを指摘されることとなりました。
その結果、県では今切川流域の工場と次々に「公害防止協定」を締結。
徳島でも公害を未然に防ぐ時代が始まりました。
(スタジオ)
池田先生に質問
当時公害が続々と発生した理由は?
・新産業都市の指定を受け、何よりも経済優先という時代背景
・行政も企業寄りだった
川の汚染は今切川だけではありませんでした。
徳島市の中心部を流れる新町川でも悪臭が問題となりました。
(VTR)
「水の都」呼ばれた徳島市のシンボル新町川が悪臭を放つようになったのは昭和40年頃からです。
上流の工場から垂れ流される排水や急増した住民の生活排水が原因でした。
5ppm以上ないと魚が住めないと言われているDO(溶存酸素)もゼロとなりチヌやセイゴは川から姿を消しました。
「魚も住めなくなった死の川」新町川の川底には厚さ1mものヘドロがたまり水銀やカドミウムまで検出されました。
これは、昭和43年8月のニュースフィルムです。
船の上から新町川に投げ込んでいるのはなんと、脱臭剤です。
阿波踊りの観光シーズンにあわせて短期間でも臭いをましにしようというわけです。
当時はこうまでしないと、橋の上まで異臭が立ちこめました。
その後は市民の関心の高まりとともに産業排水の規制や汚泥のしゅんせつが次々と行われました。
そして昭和55年には吉野川から水を送り込むポンプ場が建設され新町川の水質は飛躍的に向上しました。
この年には、ゼロだったDOも4.3ppmまで向上し、川には魚が戻ってきました。
その後も市民活動を中心に新町川を守る活動が続けられ現在の水準にまで至っています。
http://www.jrt.co.jp/tv/ohayo/20c/35pollution/
昭和30年代前半、今切川の流域には東亜合成や日清紡績などの大企業が相次いで進出。
昭和39年に新産業としに指定された後も大塚製薬などが進出し今切川流域は化学工業地帯として発展と遂げました。
しかし、工場から今切川に垂れ流される排水は次第に川を汚染していきます。
そして昭和40年代に入ると地元の漁協には、妙な臭いにする魚が次々と水揚げされるようになります。異臭魚です。
その後、昭和46年、地元の漁協からの依頼で県は工業廃水を調査。
その結果、翌47年には
「異臭魚の主な原因は東亜合成徳島工場の工場排水だった」と発表しました。
工場の製造工程に副産物としてできる「有機塩素化合物」が原因でした。
さらに県では、日清紡績や日本理化などの工場排水も異臭魚に関連しているとして排水対策を指示しました。
しかし、今切川の汚染は異臭魚だけでは終わりませんでした。
昭和47年にはPCB、翌48年には水銀が
東亜合成の排水口付近のヘドロから検出されたのです。
両方とも人体に悪影響を及ぼす物質で、特に水銀は、水俣病の原因でした。
このPCB、水銀汚染の波紋はたちまち広がり、県全域の漁業関係者を巻き込む問題に発展します。
「魚はどれも安心して食べられない」今切川の魚だけでなく汚染されていない他の近海魚までが売れなくなったのです。
中央卸売市場では、連日魚の大暴落が続きました。
東亜合成はその後、過去11年間にわたり約0.9tもの水銀を今切川に流していたと発表。
一週間の操業停止に追い込まれました。
しかし、その後の再調査では、魚介類から規制値を上回る水銀は検出されず、県は安全宣言を出しました。
もつれた漁業補償問題も会社側が3億5千万円を漁業関係者に支払うことで妥結、汚染魚問題は一応の決着をみました。
しかし今切川流域ではこうした水質汚染だけでなく同時に大気汚染も問題となります。
周辺住民の中に、工場の煙が原因とされる気管支炎やぜん息患者がいることが発覚したのです。
この問題で行政側は、改めて企業に対する管理の甘さを指摘されることとなりました。
その結果、県では今切川流域の工場と次々に「公害防止協定」を締結。
徳島でも公害を未然に防ぐ時代が始まりました。
(スタジオ)
池田先生に質問
当時公害が続々と発生した理由は?
・新産業都市の指定を受け、何よりも経済優先という時代背景
・行政も企業寄りだった
川の汚染は今切川だけではありませんでした。
徳島市の中心部を流れる新町川でも悪臭が問題となりました。
(VTR)
「水の都」呼ばれた徳島市のシンボル新町川が悪臭を放つようになったのは昭和40年頃からです。
上流の工場から垂れ流される排水や急増した住民の生活排水が原因でした。
5ppm以上ないと魚が住めないと言われているDO(溶存酸素)もゼロとなりチヌやセイゴは川から姿を消しました。
「魚も住めなくなった死の川」新町川の川底には厚さ1mものヘドロがたまり水銀やカドミウムまで検出されました。
これは、昭和43年8月のニュースフィルムです。
船の上から新町川に投げ込んでいるのはなんと、脱臭剤です。
阿波踊りの観光シーズンにあわせて短期間でも臭いをましにしようというわけです。
当時はこうまでしないと、橋の上まで異臭が立ちこめました。
その後は市民の関心の高まりとともに産業排水の規制や汚泥のしゅんせつが次々と行われました。
そして昭和55年には吉野川から水を送り込むポンプ場が建設され新町川の水質は飛躍的に向上しました。
この年には、ゼロだったDOも4.3ppmまで向上し、川には魚が戻ってきました。
その後も市民活動を中心に新町川を守る活動が続けられ現在の水準にまで至っています。
http://www.jrt.co.jp/tv/ohayo/20c/35pollution/