こそがでっちあげ。
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この論文のトリックを解説することで以降の、「虐殺あった論」の問題点が浮かび上がってきます。冒頭ということもあり、否定論、肯定論とはどういうものなのか、という解説をしながら進んでいきます。
論点(1) 南京事件と南京大虐殺の区別
『「東京裁判によるでっち上げ」説こそがでっちあげ』。というこの記事は藤原彰教授の論文で、『否定論13のウソ』の冒頭第一章に掲載されています。この論文の問題点は「南京で発生した事件」と、「南京大屠殺30万」の区別を(おそらく意図的に)区別しないで論じている部分です。このトリックは「否定論13のウソ」全体で使用されています。
まず最初に理解しておく事は、中国側が今現在も主張しているような「南京大屠殺30万」は、現在の日本では学術的に否定されているということです。日本の虐殺派の研究者でも30万を主張する方は見当たりません。虐殺派筆頭の笠原教授でも、中国側主張の南京大屠殺の範囲、中国が30万を主張している範囲では、10数万という推定しているにすぎません。(軍人8万、民間人5万~6万程度で10数万=笠原説。ただし範囲を数十倍に広げ、時間を延長すれば20万以上もありえるとしている。この説については別ページで検証)。
中国側当局の見解では「笠原説の10数万は南京大虐殺30万を否定する見解」と受け取っているようです。その辺りの事情を虐殺派筆頭・笠原教授の著作から引用してみます。
『南京事件と日本人』 柏書房 笠原十九司著作 実際中国で体験したことであるが、中国の研究者の論文集に私が書いた論文で、南京事件の犠牲者10数万以上という記述したところ、中国の出版当局によってその数字の箇所が削られてしまったことがある。 中国側の公式見解では30万虐殺説であるから、それを認めない事は南京大虐殺を認めていないことであるという短絡した考え方がある。 (同書P223) |
『南京事件と日本人』 柏書房 笠原十九司著作 中国側の公的な30万虐殺説を絶対的なものとして、日本人も30万虐殺を信じるべきだと言われたとすれば、それは受け入れられないことになる。 中国側が南京大虐殺30万を絶対的なものとして権威化させて固執すれば、日本の南京大虐殺否定派がそれを利用して「南京大虐殺とは中国側の主張する30万人虐殺のことである、だからそれはなかった」と否定論に悪用されてしまうことになる。 (同書P223 改行は筆者) |
ですから、「南京で発生した事件」と「南京大虐殺」は分けて考えなければいけません。わかり易く言うと「南京大虐殺は虚構であり、悪質なプロパガンダである」と認めたうえで、南京でどのような事件が発生したのかを論じる必要があるという事です。
ここがポイントなんですが、南京大虐殺否定論というのは、中国の主張するような数十万市民を大量に殺戮したという事件は発生しなかった、という論なのです。
言い換えると、虐殺否定論というのは、南京で日本軍兵士の犯罪が一件もなかったとか、中国兵の処刑が一件もなかったという主張ではなく、中国側主張の”軍事行動とは無関係に数十万市民を殺害した”という事件の存在を否定しているのです。
市民を無差別にかなりの規模(数万単位)で殺害したというのが事実であれば、数の問題はさほど重要ではないのかもしれません。中国側の主張に含まれる民間人殺害は20数万以上ですが、これが10万でも5万でも軍事行動とは無関係に殺害したのが事実であれば、凶悪な事件であることにはかわりはありません。しかし、そういった「軍事行動とは無関係に数万市民の殺害が行なわれたということもありえない」というのが虐殺否定論です。
また、悪用かどうかは主観の問題なのですが、「南京大虐殺30万はなかった、だから南京大虐殺は虚構である」という主張が、論の立て方として間違っていない(虐殺論に対する反論として有効)ということは笠原教授も認めているようです。つまり「学術的には30万虐殺は否定された」と理解して問題ないでしょう。南京で日本軍の犯罪があったことや、中国兵に対する処刑が行われたことについては事実ですから、否定派(まぼろし派~中間派・4-5万説)でこれらをまったくなかった、と否定している研究者はいません。東京裁判での弁護側の主張も、犯罪がまったく無かったという主張ではなく、中国側の主張は過大であり、大部分の事件は中国側の敗残兵が行なったものではないか? という主張をしています。
否定派の中でも、まぼろし派と中間派の間で議論がありますが、それは「大規模な市民殺害はなかった」という前提で、ゲリラ狩りをした際の処刑手続きの問題や、捕虜殺害に関する国際法の解釈によるものです。大規模な市民の殺害はなかったが、中国兵の処刑はあった。それが「虐殺か、合法か」という議論が中心です。大規模(5万規模)な市民殺戮がなかったと言う点では、中間派4-5万説(秦教授など)も南京大虐殺否定派のほうに分類されるでしょう。
いわゆる、南京大虐殺否定論の「東京裁判でっちあげ説」というのは、東京裁判において初めて「30万虐殺が主張された」(でっち上げられた)という意味の主張です。
30万人に含まれる、『市民だけで20数万人以上が虐殺された』というのは東京裁判で作られた虚構であるというのが否定論の主張です。
これに反論する為には、東京裁判よりも前に20数万市民が虐殺されたという報道を藤原教授は引用する必要があります。または、東京裁判よりも前に総数で30万虐殺が報道されたと言う資料を引用しなければならないでしょう。
■いよいよ浮上する肯定派のトリック
藤原教授の論文を引用してみます。
すでにどの部分がトリックであるのかはお解かりの事と思います。
「日本軍の暴虐非道=南京大虐殺」ではないのですね。戦時において犯罪が発生するのは避けれないことで、第二次世界大戦当時、比較的行儀が良かった米軍でも占領下における日本においては(すでに戦闘行為は終了していたにも係わらず)多数の犯罪を行なったことが報告されています。また、平和な世の中でも凶悪な犯罪が発生するということは説明するまでもないでしょう。「犯罪の発生=数十万市民虐殺」ではないことは当然のことです。
藤原教授の論文を引用してみます。
さて、30万大虐殺の報道はされたのでしょうか?
結論はNOです。スティールもダーディンも数十万市民が殺害されたという報道はしていません。こういう報道が無かったという引用をする為には、当時の報道を全部を引用しなければならないので(なかったという証明は大変なのだ)、詳細な報道をもとにしたという『戦争とは何か――中国における日本軍の暴虐』ティンパリー編著を見てみましょう。これは、「日中戦争史資料8 南京Ⅱ」に収録されています(通称、英文関係資料集。増補改訂版は「南京大残虐事件資料集」)。公立図書館なら割りと容易に見つけられると思います。
『戦争とは何か~』を編著したティンパリーは、戦争当時、中国国民党宣伝部と関連があったことが台湾で発掘された資料により判明しました。また中国の人名辞典には国民党顧問として名前が載っているそうです(詳細は下記参照)。「戦争とは何か~」は国民党の資金援助を得て製作された、政治宣伝の道具であったことが近年判明しています。それでも貴重な一次資料が掲載されており、なかでも、当時南京の安全区で難民保護に当たった国際委員会が日本側に要望を伝えた、通称「国際委員会公文書」などは資料価値が高いと思われます。(同文書の日本側の控えは焼失したので現存せず)
ここでは『戦争とは何か~』から、当時の外国人の手紙を引用してみます。
これは、南京陥落から3ヶ月が経過した1938年3月末から行なわれた、スマイス博士の戦争被害調査の記述とほぼ同じです。日本側・外国側の記録によれば、埋葬作業自体は3月いっぱいで概ね終了していたので、この記述は埋葬作業を行なった紅卍字会情報を元に記述されたと考えられます。(『戦争とは何か~』が出版されたのは1938年6月)
数字の解説をすると、3万体程度が武装解除された中国兵の死体であり、12000人程度が民間人だったという意味になります。軍民の区別はどうやってしたのかは明確ではないのですが、埋葬時すでに遺体の腐乱が進行していたので、おそらく服装で分けたのではないかと推測されます。この場合、私服の死体が概ね12000体存在したという意味になるでしょう。
(注 私服で偽装した軍人「便衣兵、ゲリラ」として処刑された中国兵が数千人~1万人程度はいると考えられる(日本側戦闘詳報など)ので、12000人が全て純粋な民間人とはいえないようです。戦争被害調査では埋葬記録からの推計として、民間人らしき埋葬12000人という数字があげられていますが、生存住民にたいする聞き取り統計調査では、殺害された市民2400人、連行されて帰らない市民4200人(殺害と推定)合計で6600人が殺害されたという結果が出ています。)
南京が陥落したのは1937年12月13日です。戦争被害調査は翌年の1938年4月末頃にはほぼ終了しました。つまり当時南京にいた外国人は、中国側が主張しているような三十万虐殺を記録に残してはいませんから、そういう報道がされるわけがないのです。
南京大虐殺30万、婦女子市民を20数万人以上を殺害したという残虐なる虚構が生まれたのは、史料を分析する限りは、東京裁判で初めて主張された、でっち上げであると考えてよいでしょう。
上記のように、当時南京にいた外国人らの認識は30万虐殺どころか、戦死などを含めた死体数が約4万体というものであり、ゲリラ狩りなどを含む市民の殺害数は6600~12000人というものであったことが、藤原教授が指定した史料により明らかになりました。「南京大虐殺否定論13のウソ」が手元にある方は、ここで引用した資料に裏づけされた事実を念頭において同書を読んでもらうと、藤原トリックの全容が理解できると思います。
藤原論文では他にも幾つか史料が提示されているので、一応簡単に解説してみます。
ここで30万が出てきました。ざっと読むと、当時から30万虐殺が報道されていたように思
えます。ここでの主題は「上海で押収したティンパリーの電報」です。まずティンパリー編著
の「戦争とは何か」から30万という数字の根拠をさぐってみましょう。
藤原教授は「南京その他」という表現を使用して範囲を曖昧にしましたが、ティンパリーがいう
30万の範囲は、上海から揚子江岸にいたる直線距離でみても三百キロ程の広い範囲での
話です。中国側が30万を主張している範囲は南京城とその周辺数キロの範囲です。南京城
の面積は計算上概ね6.5キロ四方程度ですから、揚子江デルタ地帯の面積とは比べ物にな
りません。
もちろん、ティンパリーがいう30万というのも、明確な根拠のある数字ではありません。広田
外相はあまりに荒唐無稽な報道をされるは困るという意味で、電文を押収しその内容を大使館
に伝えたのであって、数百キロの範囲で30万の犠牲が出たという数字が正しいという認識か
らではなかったようです。
中国国民党宣伝部と関係が深いテインパリーに、見事にしてやられた、といったところでしょうか。
実際に差し押さえられた電文(社説)が、中国の新聞である大公報で扱われ、さらに日本語に訳され南京事件資料集に掲載されているので、それを確認してみます。(中略されているので、30万の関係部分は確認できず)
以上のように、南京市での被害については「一万人を越えた」としています。この一万人の殺害というのも、中国軍が大挙し、私服で偽装した状態で安全区に逃げ込んだ者のを摘発処刑した行為が主であり、無辜の平和的市民を追いまわして殺害したものではないようです。強姦八千~二万というのも全く根拠が不明です。ちなみに国際委員会が報告した日軍犯罪の統計では、調査されていない事件(真偽不明だが国際委員会に報告された)も含めて強姦は370件程度です。
すでに明らかになったように、中国側の主張するような南京大虐殺30万が当時から報道されていたというのは、事実ではありません。当時報道されていたのは、安全区に潜伏した偽装中国兵の摘発処刑が一万人以上というものでしょう。
テインパリーと国民党宣伝部の関係
ここがポイントなんですが、南京大虐殺否定論というのは、中国の主張するような数十万市民を大量に殺戮したという事件は発生しなかった、という論なのです。
言い換えると、虐殺否定論というのは、南京で日本軍兵士の犯罪が一件もなかったとか、中国兵の処刑が一件もなかったという主張ではなく、中国側主張の”軍事行動とは無関係に数十万市民を殺害した”という事件の存在を否定しているのです。
市民を無差別にかなりの規模(数万単位)で殺害したというのが事実であれば、数の問題はさほど重要ではないのかもしれません。中国側の主張に含まれる民間人殺害は20数万以上ですが、これが10万でも5万でも軍事行動とは無関係に殺害したのが事実であれば、凶悪な事件であることにはかわりはありません。しかし、そういった「軍事行動とは無関係に数万市民の殺害が行なわれたということもありえない」というのが虐殺否定論です。
また、悪用かどうかは主観の問題なのですが、「南京大虐殺30万はなかった、だから南京大虐殺は虚構である」という主張が、論の立て方として間違っていない(虐殺論に対する反論として有効)ということは笠原教授も認めているようです。つまり「学術的には30万虐殺は否定された」と理解して問題ないでしょう。南京で日本軍の犯罪があったことや、中国兵に対する処刑が行われたことについては事実ですから、否定派(まぼろし派~中間派・4-5万説)でこれらをまったくなかった、と否定している研究者はいません。東京裁判での弁護側の主張も、犯罪がまったく無かったという主張ではなく、中国側の主張は過大であり、大部分の事件は中国側の敗残兵が行なったものではないか? という主張をしています。
否定派の中でも、まぼろし派と中間派の間で議論がありますが、それは「大規模な市民殺害はなかった」という前提で、ゲリラ狩りをした際の処刑手続きの問題や、捕虜殺害に関する国際法の解釈によるものです。大規模な市民の殺害はなかったが、中国兵の処刑はあった。それが「虐殺か、合法か」という議論が中心です。大規模(5万規模)な市民殺戮がなかったと言う点では、中間派4-5万説(秦教授など)も南京大虐殺否定派のほうに分類されるでしょう。
いわゆる、南京大虐殺否定論の「東京裁判でっちあげ説」というのは、東京裁判において初めて「30万虐殺が主張された」(でっち上げられた)という意味の主張です。
30万人に含まれる、『市民だけで20数万人以上が虐殺された』というのは東京裁判で作られた虚構であるというのが否定論の主張です。
これに反論する為には、東京裁判よりも前に20数万市民が虐殺されたという報道を藤原教授は引用する必要があります。または、東京裁判よりも前に総数で30万虐殺が報道されたと言う資料を引用しなければならないでしょう。
■いよいよ浮上する肯定派のトリック
「南京大虐殺否定論13のウソ」P15 藤原論文 だがこの「東京裁判によるでっちあげ」説こそがウソの固まりであり、でっちあげなのだ。南京大虐殺は東京裁判で突然持ち出された事件ではなく、事件の進行とともにリアルタイムで世界にも、日本にも伝えられていた。「南京アトロシティーズ」(南京の残虐行為)、「ザ・レイプ・オブ・南京」(南京の暴行)と言う言葉は、当時から日本軍の暴虐非道を非難して使われていたのである。 |
「日本軍の暴虐非道=南京大虐殺」ではないのですね。戦時において犯罪が発生するのは避けれないことで、第二次世界大戦当時、比較的行儀が良かった米軍でも占領下における日本においては(すでに戦闘行為は終了していたにも係わらず)多数の犯罪を行なったことが報告されています。また、平和な世の中でも凶悪な犯罪が発生するということは説明するまでもないでしょう。「犯罪の発生=数十万市民虐殺」ではないことは当然のことです。
「南京大虐殺否定論13のウソ」P16 藤原論文 事件が進行しつつあった12月15日以降から、「シカゴ・デイリーニューズ」の南京特派員A・T・スティール、「ニューヨーク・タイムズ」の上海特派員H・アベンドと南京特派員F・T・ダーディンらが南京や上海から打った電報が、日本軍の残虐行為を世界に知らせた。とくに「マンチェスター・ガーディアン」の中国特派員H・J・ティンパリーは、詳細な報道とともに、それをもとにした編著『戦争とは何か――中国における日本軍の暴虐』(What war means:the Japanese terror in China)を、1938年にロンドンとニューヨークで発行し、同年中に日本語訳と中国語訳が中国で刊行された。 |
さて、30万大虐殺の報道はされたのでしょうか?
結論はNOです。スティールもダーディンも数十万市民が殺害されたという報道はしていません。こういう報道が無かったという引用をする為には、当時の報道を全部を引用しなければならないので(なかったという証明は大変なのだ)、詳細な報道をもとにしたという『戦争とは何か――中国における日本軍の暴虐』ティンパリー編著を見てみましょう。これは、「日中戦争史資料8 南京Ⅱ」に収録されています(通称、英文関係資料集。増補改訂版は「南京大残虐事件資料集」)。公立図書館なら割りと容易に見つけられると思います。
『戦争とは何か~』を編著したティンパリーは、戦争当時、中国国民党宣伝部と関連があったことが台湾で発掘された資料により判明しました。また中国の人名辞典には国民党顧問として名前が載っているそうです(詳細は下記参照)。「戦争とは何か~」は国民党の資金援助を得て製作された、政治宣伝の道具であったことが近年判明しています。それでも貴重な一次資料が掲載されており、なかでも、当時南京の安全区で難民保護に当たった国際委員会が日本側に要望を伝えた、通称「国際委員会公文書」などは資料価値が高いと思われます。(同文書の日本側の控えは焼失したので現存せず)
埋葬による証拠の示すところでは、4万人近くの非武装の人間が南京城内または城門の付近で殺され、その内約30パーセントはかつて兵隊になったことのない人々である。 日中戦争史資料・英文関係資料編P47 |
数字の解説をすると、3万体程度が武装解除された中国兵の死体であり、12000人程度が民間人だったという意味になります。軍民の区別はどうやってしたのかは明確ではないのですが、埋葬時すでに遺体の腐乱が進行していたので、おそらく服装で分けたのではないかと推測されます。この場合、私服の死体が概ね12000体存在したという意味になるでしょう。
(注 私服で偽装した軍人「便衣兵、ゲリラ」として処刑された中国兵が数千人~1万人程度はいると考えられる(日本側戦闘詳報など)ので、12000人が全て純粋な民間人とはいえないようです。戦争被害調査では埋葬記録からの推計として、民間人らしき埋葬12000人という数字があげられていますが、生存住民にたいする聞き取り統計調査では、殺害された市民2400人、連行されて帰らない市民4200人(殺害と推定)合計で6600人が殺害されたという結果が出ています。)
南京が陥落したのは1937年12月13日です。戦争被害調査は翌年の1938年4月末頃にはほぼ終了しました。つまり当時南京にいた外国人は、中国側が主張しているような三十万虐殺を記録に残してはいませんから、そういう報道がされるわけがないのです。
南京大虐殺30万、婦女子市民を20数万人以上を殺害したという残虐なる虚構が生まれたのは、史料を分析する限りは、東京裁判で初めて主張された、でっち上げであると考えてよいでしょう。
史料解説
上記のように、当時南京にいた外国人らの認識は30万虐殺どころか、戦死などを含めた死体数が約4万体というものであり、ゲリラ狩りなどを含む市民の殺害数は6600~12000人というものであったことが、藤原教授が指定した史料により明らかになりました。「南京大虐殺否定論13のウソ」が手元にある方は、ここで引用した資料に裏づけされた事実を念頭において同書を読んでもらうと、藤原トリックの全容が理解できると思います。
藤原論文では他にも幾つか史料が提示されているので、一応簡単に解説してみます。
藤原教授の論文を引用してみます。
「南京大虐殺否定論13のウソ」P16 藤原論文 1938年1月17日付けで、広田弘毅外相がワシントンの日本大使館宛に打った電報が、アメリカ側に解読されていた。そこで広田は、上海で押収したティンパリーの電報が、南京その他で30万人を下らない中国民間人殺されたと述べていることを、情報として伝えている。外務省は当時から外国の報道を知っていたのだ。 |
ここで30万が出てきました。ざっと読むと、当時から30万虐殺が報道されていたように思
えます。ここでの主題は「上海で押収したティンパリーの電報」です。まずティンパリー編著
の「戦争とは何か」から30万という数字の根拠をさぐってみましょう。
『戦争とは何か――中国における日本軍の暴虐』(抜粋) 日本軍の占領前後に何度かこの地域を訪れたことのある外国人目撃者のひかえめな見積もりによっても、揚子江デルタ地帯における中日両国軍の戦闘の結果、少なくとも30万の一般中国市民が命を失った。これらの人々のかなりの部分が残酷に虐殺されたのであった。 日中戦争史資料・英文関係資料編P61 |
30万の範囲は、上海から揚子江岸にいたる直線距離でみても三百キロ程の広い範囲での
話です。中国側が30万を主張している範囲は南京城とその周辺数キロの範囲です。南京城
の面積は計算上概ね6.5キロ四方程度ですから、揚子江デルタ地帯の面積とは比べ物にな
りません。
もちろん、ティンパリーがいう30万というのも、明確な根拠のある数字ではありません。広田
外相はあまりに荒唐無稽な報道をされるは困るという意味で、電文を押収しその内容を大使館
に伝えたのであって、数百キロの範囲で30万の犠牲が出たという数字が正しいという認識か
らではなかったようです。
中国国民党宣伝部と関係が深いテインパリーに、見事にしてやられた、といったところでしょうか。
実際に差し押さえられた電文(社説)が、中国の新聞である大公報で扱われ、さらに日本語に訳され南京事件資料集に掲載されているので、それを確認してみます。(中略されているので、30万の関係部分は確認できず)
「ノースチャイナ・デイリーニューズ 社説」(大公報に転載された記事) 民国二十七年(1938年)一月二十二日 【香港二十一日午後九時発専電】上海通信 ノースチャイナ・デイリーニューズは二十一日の社説で、南京の日本軍の軍規が弛緩し、ほしいままに市民を虐殺していることを非難した。最近まで難にあったものはすでに一万人を越え、十一歳の幼女より五十三歳の老婦人まで全て汚され、強姦された者はおよそ八千から二万人であり、掠奪事件は枚挙にたえない。 南京事件資料集・中国関係資料編P31 |
すでに明らかになったように、中国側の主張するような南京大虐殺30万が当時から報道されていたというのは、事実ではありません。当時報道されていたのは、安全区に潜伏した偽装中国兵の摘発処刑が一万人以上というものでしょう。
『近代来華外国人名辞典』 (中国社会科学出版社、1981年12月出版) 新「南京大虐殺」のまぼろし 鈴木明著作 P290より 「(訳文)ティンパレー、ハロルド・ジョン・ティンパレー、1898年生まれ。オーストラリア人、第一次大戦後中国に来る。ロイター通信の北京記者となる。その後マンチェスター・ガーディアンとAPの北京駐在記者を兼ねる。1937年盧溝橋事件後、国民党政府は彼を英米に向け派遣し、宣伝工作に当たらせ、次いで国民党中央宣伝部の顧問に任命した。編著に『中国に於ける日本人の恐怖』(1938年)一書がある」 |
ティンパリーは国民党宣伝部との関係上、ある意図をもって報道を行なっていたということは間違いないようです。『中国に於ける日本人の恐怖』というのは、『戦争とは何か』の中国語版の名称です。
藤原教授の論文を引用してみます。
これもですね、結論から言うと30万虐殺という規模ではなく、上記の外国報道や国際医委員会が日本側に抗議した文書を元にした認識であると考えられます。ちなみに国際委員会が日本側に抗議した犯罪を表にまとめると以下のようになります。
南京暴行報告分類表(国際委員会の報告)
これらの報告は、全てが調査されたものではなく、単に国際委員会に報告されただけのものもかなり含まれますから、真偽不明のものもかなり含まれています。(当時外交官補だった福田氏によれば、事件発生の報を受けて強姦や掠奪の現場に到着したところ、何も無い、住んでいるものもいないということが幾度かあったそうです)。
いずれにしても、国際委員会から日本大使館に報告された以上、これらの内容は外務省ルートで日本にも報告されるのですから、外務省官僚や軍部が知っていても不思議ではありません。しかしその内容は、殺人49件+αといったもので30万虐殺という情報ではありえないわけです。
結 論
南京大虐殺30万という大事件は東京裁判で初めて主張された。現在の日本では30万という規模は学術的に否定されている。つまり、南京大虐殺30万は、
東京裁判でデッチアゲられたとする見解のほうが正確である。
「南京大虐殺否定論13のウソ」P16 藤原論文 当時の外務省東亜局長の石井猪太郎が敗戦後の1950年に読売新聞社から刊行した回顧禄『外交官の一生』は、とくに「南京アトロシティーズ」の一項を設けて、軍とともに南京に入った福井総領事代理や、岡本上海総領事からの報告で、日本軍の略奪、強姦、放火、虐殺の情報を知って概嘆したこと、石井が三省局長会議(外務省東亜局長と陸海の軍務局長)でたびたび陸軍側に警告したこと、広田外相からも杉山陸相に軍紀の粛清を要望したことを述べている。 |
期間 | 殺人 | 傷害 | 連行 | 掠奪その他 | |
12月12~12月18日 | 26件 | 9件 | 30件 | ||
12月19日~1月10日 | 6件 | 11件 | 30件 | ||
1月11日~2月7日 | 17件 | 24件 | 119件 | ||
合計 | 49件 | 44件 | 390件(複数3件) | 361件(複数9件) | 179件 |
「本当はこうだった南京事件」P55の表を参考にしました。分類の仕方により若干誤差が出る可能性はあります。委員会の犯罪報告は№1~№444まであるようですが、一部欠落があるので正味405報告の集計になります。一つの報告で多数(あるいは数名)が被害にあったという報告については「複数報告」と計上しました。
これらの報告は、全てが調査されたものではなく、単に国際委員会に報告されただけのものもかなり含まれますから、真偽不明のものもかなり含まれています。(当時外交官補だった福田氏によれば、事件発生の報を受けて強姦や掠奪の現場に到着したところ、何も無い、住んでいるものもいないということが幾度かあったそうです)。
いずれにしても、国際委員会から日本大使館に報告された以上、これらの内容は外務省ルートで日本にも報告されるのですから、外務省官僚や軍部が知っていても不思議ではありません。しかしその内容は、殺人49件+αといったもので30万虐殺という情報ではありえないわけです。
結 論
南京大虐殺30万という大事件は東京裁判で初めて主張された。現在の日本では30万という規模は学術的に否定されている。つまり、南京大虐殺30万は、
東京裁判でデッチアゲられたとする見解のほうが正確である。