狭野神社(さのじんじゃ)は、宮崎県西諸県郡高原町にある神社である。旧社格は県社で、後に官幣大社宮崎神宮の別宮となった。現在は再び独立の神社となり、神社本庁の別表神社になっている。霧島六所権現の一社である。
祭神
歴史
明治6年に県社に列格したが、大正4年に官幣大社宮崎神宮の別宮に指定された。1898年からは、高木兼寛が宮崎神宮の大造営と同時に、神武天皇ゆかりの狭野神社の社殿の改修も行った。第二次大戦後に再び独立の神社となり、昭和51年(1976年)に神社本庁の別表神社に列格した。
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当社は高原町の南西部に位置し霧島連峰の麓に鎮座する為幾多の火山噴火の災禍に見舞われている。御生誕より数えて第五十代、桓武天皇(延暦七年・七八八年)七月の、高千穂霧島嶽噴火以後幾度も難に遭いつつ、文暦元年(一二三四年)十二月二十八日の噴火においては霧島山烈火の如く鳴動し熱石を降らし社殿等を悉く焼亡に至らしめ高原町西麓の地に仮殿を設け遷奉がなされた。
狭野神社 [地図表示]
社伝によれば、人皇第五代・孝昭天皇の御代に神武天皇御降誕の地に御創建されたのが当社の創祀という。当社より西方一キロの霊跡に末社皇子原神社が鎮座し産場石と呼称される神石が奉齋されている。ご祭神御生誕の際に産湯を御取りになられたと伝承され今猶安き出産を齎して戴けると伝えられる。
また霊峰高千穂の峰麓周辺に皇子川原、祓川、血捨ノ木、宮ノ宇都、鳥居原等の神武生誕にまつわる地名が残っており御祭神のご生業を物語っている。神武天皇は御齢壱拾五才を迎える迄、此の地で天下広く統治すべく天壌無窮の御心を培われ御東征後、彼の橿原の宮居にて初代の天皇としてご即位なされた。
当社は高原町の南西部に位置し霧島連峰の麓に鎮座する為幾多の火山噴火の災禍に見舞われている。御生誕より数えて第五十代、桓武天皇(延暦七年・七八八年)七月の、高千穂霧島嶽噴火以後幾度も難に遭いつつ、文暦元年(一二三四年)十二月二十八日の噴火においては霧島山烈火の如く鳴動し熱石を降らし社殿等を悉く焼亡に至らしめ高原町西麓の地に仮殿を設け遷奉がなされた。
霧島山の噴火も治まった慶長十五年(一六一〇年)には、新たに社殿を造営し狭野の旧跡に還御した。記憶に新しい処では、平成二十三年一月二十六日、霧島連峰新燃岳が再三に亙り噴火し、小林市霧島岑神社に暫し遷御する。旧社領地は東西二千間・南北一千間に迄及ぶとされ、歴代の薩摩藩主島津当家より尊崇篤く社殿の寄進等も度々行われた。
文禄年間、豊臣秀吉の朝鮮の役では、薩摩藩主島津義弘公出陣に際し戦勝祈願がなされ凱旋の後、慶長五年(一六〇〇年)祈願奉賽として重臣新納武蔵守忠元を遣わし、境内全般に杉を植栽した。大正十三年には狭野の杉並木として国の天然記念物に指定され、現今境内に鬱蒼として聳えるのはその老杉である。
明治六年県社に列し、大正四年には官幣大社宮崎神宮の別宮に指定される。また第三十代敏達天皇の御代より別当寺を創立し、金剛仏作寺神生院の勅号を賜る。後に霧島仏華林寺神徳院と称するようになり、霧島修験道の大寺として信仰される。
慶応二年廃仏毀釈により廃寺となるが、歴代の住職を中興の祖と仰ぎ神徳院墓地を創設し祀っている。高千穂峰近在に鎮座する霧島六所権現(当社・霧島神宮・霧島岑神社・霧島東神社・東霧島神社・夷守神社)の一社としても数えられている。
( ご東遷ゆかりの地 / 紀元二千六百年記念祭顕彰聖蹟 )
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郵便番号 | 889-4414 |
住所 | 宮崎県西諸県郡高原町蒲牟田117 |
御祭神 | 神武天皇 (ご幼名 狭野尊) |
社殿 | 本殿(流造)15坪 拝殿(入母屋造)21坪 外拝殿(流造)21坪 |
創立年月日 | 第五代孝昭天皇の御代 |
駐車場 | 有り |
最寄ICからのアクセス | 高原ICより霧島・御池方面に約4km |
最寄駅からのアクセス | JR高原駅よりタクシーで約5分 |
神武天皇は幼名を狭野尊(サノノミコト)といいましたが、これは尊が降誕されたこのあたりの地名からとったものと言われています。 社伝によると狭野神社の創建は非常に古く、第五代孝昭天皇の時代で二千数百年も昔。古墳時代よりも千年も前のことですので創建当時の歴史資料は残っていませんが、その後第30代敏達天皇の時代には別当寺として神生院(のちに神徳院)が建立され、さらに第62代村上天皇の時代には性空上人によって霧島六社権現が創始されるなどの記録があることから、日本という国が成立した頃には、すでに神域として相当の伝統をもっていたことがうかがえます。 狭野神社は霧島の麓にあることから、霧島山噴火の被害をたびたび受け、中でも延暦7年(788)や文暦元年(1134)、さらに享保3年(1718)と過去三度も、社殿が焼失するほどの大噴火に見舞われています。それでも歴史の皇室、藩主の崇敬が厚かったことから、そのたびごとに復興し、神武天皇にまつわる伝説とともに、その歴史を現代に伝えています。 | ||
狭野杉と仏法僧 神武天皇は幼名を狭野尊(サノノミコト)といいましたが、これは尊が降誕されたこのあたりの地名からとったものと言われています。 社伝によると狭野神社の創建は非常に古く、第五代孝昭天皇の時代で二千数百年も昔。古墳時代よりも千年も前のことですので創建当時の歴史資料は残っていませんが、その後第30代敏達天皇の時代には別当寺として神生院(のちに神徳院)が建立され、さらに第62代村上天皇の時代には性空上人によって霧島六社権現が創始されるなどの記録があることから、日本という国が成立した頃には、すでに神域として相当の伝統をもっていたことがうかがえます。 狭野神社は霧島の麓にあることから、霧島山噴火の被害をたびたび受け、中でも延暦7年(788)や文暦元年(1134)、さらに享保3年(1718)と過去三度も、社殿が焼失するほどの大噴火に見舞われています。それでも歴史の皇室、藩主の崇敬が厚かったことから、そのたびごとに復興し、神武天皇にまつわる伝説とともに、その歴史を現代に伝えています。 |
神々のふるさとを訪ねて 神武の里
高千穂峰の麓に広がる高原町は、日本の始まりを伝え、歴史の息吹を感じる神々のふるさと。
今も残る史跡や神社を訪ねれば、数々の神話や伝説、伝承行事などが残されています。
今も残る史跡や神社を訪ねれば、数々の神話や伝説、伝承行事などが残されています。
歴史の散歩道マップ
高原町の歴史を訪ねて
1. 神話
高原は、後ろに高千穂峰がそびえている事もあって、以前から天孫降臨の地として認識されていたようである。江戸時代末期に薩摩藩により編纂された『三国名勝図會』では、
土俗傳へ云、當邑を高原と號するは高天原の略称なりと、凡日向国内此辺は、神代の 皇都に係り、今に都島都島は今の都城、高城などといへる地名殘るも此が為にて、此地、都島と接し、(後略)、とある。
そしてその伝承に沿うかのように山頂には「天の逆鉾」が立てられている。立てられたのは江戸時代辺りと推定されるが、詳細は不明である。
土俗傳へ云、當邑を高原と號するは高天原の略称なりと、凡日向国内此辺は、神代の 皇都に係り、今に都島都島は今の都城、高城などといへる地名殘るも此が為にて、此地、都島と接し、(後略)、とある。
そしてその伝承に沿うかのように山頂には「天の逆鉾」が立てられている。立てられたのは江戸時代辺りと推定されるが、詳細は不明である。
又、高原は、神武天皇御降誕の地としても名高い場所である。『日本書紀』にある神武天皇の幼名「狭野尊」が当町の狭野地区を指しているというのが主な根拠であるが、江戸時代半ばから末期にかけての神社関連の古文書の中に複数の地形を挙げて神武天皇の『聖蹟』としている。ただ、具体的な説明はなく、現在説明されている神武天皇関連の説明の大筋は『三国名勝図會』に依っている。伝承では、いわゆる東征までこの地で暮らしたとされている。
2. 古墳時代以前
まず、高原町では、旧石器時代の遺跡は確認されていない。現在のところ確認できた最も古い遺跡は縄文時代前期である。後川内地区の川除遺跡からは曽畑式及び轟B式土器が数点確認された。又、大谷遺跡では、表採資料の中に曽畑式が数点確認された。現在のところ、この2遺跡のみである。
縄文時代中期になると、徐々に遺跡が増加する。昭和43年に発掘調査された高原畜産高校遺跡や椨粉山遺跡などで阿高式土器が出土した。
縄文時代中期末から後期に入り、遺跡の数が増大する。主な遺跡としては、大谷・佐土・椨粉山遺跡などがある。それらの遺物には、南九州の在地文化から中~北部九州・瀬戸内・四国など、幅広い文化圏の影響が見られる。
縄文時代中期になると、徐々に遺跡が増加する。昭和43年に発掘調査された高原畜産高校遺跡や椨粉山遺跡などで阿高式土器が出土した。
縄文時代中期末から後期に入り、遺跡の数が増大する。主な遺跡としては、大谷・佐土・椨粉山遺跡などがある。それらの遺物には、南九州の在地文化から中~北部九州・瀬戸内・四国など、幅広い文化圏の影響が見られる。
その後、遺跡数が急激に減少し、弥生時代の遺跡は殆ど見られない。これは調査数の少なさによる。弥生時代から古墳時代にかけての集落遺跡が調査されたのは、麓地区の立山・荒迫遺跡のみである。このうち立山遺跡では、弥生時代後期から古墳時代初頭の住居跡が30基近く検出され、さらに軽石製の炉や埋甕などが検出された。
高原町における古墳時代の遺跡は、集落遺跡よりも地下式横穴墓の方が著名である。高原町では、これまでに4群107基が検出されている。出土地は、湯之崎・旭台・日守・立切で、後川内に多い。墓内の家屋表現や彩色がよく見られる。西都原古墳群のような高塚古墳は見られないが、山間部には墳丘と思われるマウントが多く見られる。
3. 古代
地下式横穴墓の下限である6世紀前半から歴史的に全くの空白となる。照葉樹林や草原を形成していた事が土壌分析により判明している。
9世紀に入ると、同時多発的に開墾が行われている。荒迫・川除・大谷・椨粉山遺跡で畝状遺構が検出された。栽培作物については若干のイネの痕跡が見られる程度で、大方は根菜類の可能性が高い。
この畠が使用されなくなった後は、再び山林化し、鎌倉時代から中世にかけては、荒迫・大鹿倉・椨粉山・宇津木遺跡などで狩猟用と見られる陥し穴が数多く検出されている。
なお、この辺りから霧島山に関する記述が見られるようになる。承和4年(837)には官社に列せられて従五位上の位が与えられ(『続日本後紀』)、続く天安2年(858)には従四位下に昇格した(『日本三代実録』)。この時は「霧島岑神」と称されている。又、『延喜式』には、諸縣郡一座として霧嶋神社の名が挙がっている。
承平5年(935)頃に成立したとされる『倭名類聚抄』には、「諸縣(牟良加多)郡」の中に8郷見られ、この内、当地方を指しているのは春野郷という説が有力である。
9世紀に入ると、同時多発的に開墾が行われている。荒迫・川除・大谷・椨粉山遺跡で畝状遺構が検出された。栽培作物については若干のイネの痕跡が見られる程度で、大方は根菜類の可能性が高い。
この畠が使用されなくなった後は、再び山林化し、鎌倉時代から中世にかけては、荒迫・大鹿倉・椨粉山・宇津木遺跡などで狩猟用と見られる陥し穴が数多く検出されている。
なお、この辺りから霧島山に関する記述が見られるようになる。承和4年(837)には官社に列せられて従五位上の位が与えられ(『続日本後紀』)、続く天安2年(858)には従四位下に昇格した(『日本三代実録』)。この時は「霧島岑神」と称されている。又、『延喜式』には、諸縣郡一座として霧嶋神社の名が挙がっている。
承平5年(935)頃に成立したとされる『倭名類聚抄』には、「諸縣(牟良加多)郡」の中に8郷見られ、この内、当地方を指しているのは春野郷という説が有力である。
歴史年表
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