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フォークランド諸島領有権めぐりデモ

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フォークランド諸島領有権めぐりデモ

TBS系(JNN) 1月21日(土)19時55分配信
 アルゼンチンの首都・ブエノスアイレスで20日、南大西洋のフォークランド諸島の領有権をめぐって対立するイギリスへの抗議デモが行われ、イギリス国旗が燃やされるなどしました。

 デモはアルゼンチンの首都・ブエノスアイレスにあるイギリス大使館前で行われました。デモの参加者は左派系政治団体の市民らで、イギリス領・フォークランド諸島の領有権を主張していますが、イギリスのキャメロン首相が議会で行ったアルゼンチンについてのこの発言にも反発しました。

 「アルゼンチン人の領有権の主張は、植民地主義以上のものだ」(イギリス・キャメロン首相)

 この発言を受けてデモの参加者は、「イギリスとは外交関係を断絶すべき」と政府に要求、アルゼンチンの副大統領も「南米の国に対して植民地主義という言葉を使うとは恥知らず」などと非難しています。

 フォークランド諸島の領有権をめぐっては、1982年に双方が交戦する「フォークランド紛争」が勃発し、今年はそれから30年の節目の年であるほか、諸島の近くでは油田も開発されています。イギリスは現在フォークランド諸島にいるおよそ1000人の兵士を3000人に増やし、ウィリアム王子を空軍のパイロットとして2月から配属する予定で、今後、双方の間で緊張が高まるおそれがあります。(21日16:07)
 
 
 

フォークランド紛争

 
フォークランド(マルビナス)紛争 交戦勢力 指揮官 戦力 損害
Falkland Islands topographic map-en.svg
戦争フォークランド紛争(マルビナス戦争)
年月日1982年3月19日から1982年6月14日
場所:フォークランド(マルビナス)諸島
結果:イギリスの勝利。ガルティエリの失脚。
アルゼンチンの旗 アルゼンチンイギリスの旗 イギリス
レオポルド・ガルティエリ
エルネスト・オラシオ・クレスポ
マリオ・メネンデス
マーガレット・サッチャー
ジョン・フィールドハウス
サンディー・ウッドワード
ジェレミー・ムーア
陸軍 10,001
海軍 3,119
空軍 1,069
艦艇 38隻
航空機 216機
陸軍 10,700
海軍 13,000
空軍 6,000
艦艇 111隻
航空機 117機
死者 645
負傷者 1048
捕虜 11313

被撃沈 軽巡洋艦1隻
潜水艦1隻(擱座)
哨戒艇2隻
航空機100機
死者 256
負傷者 777
捕虜 115

被撃沈 駆逐艦2隻
フリゲート2隻
揚陸艦1隻
コンテナ船1隻
航空機34機
 フォークランド諸島の領有を巡り、イギリスアルゼンチン間で3ヶ月にわたって行われた紛争である。スペイン語やポルトガル語では「マルビナス戦争」と表記されることが多い。
 
概要
フォークランド諸島の位置。アルゼンチン沖、南米大陸南端から500km沖に位置する
 
 ォークランド紛争は、近代化された西側諸国の軍隊同士による初めての紛争であり、その後の軍事技術に様々な影響を及ぼした。両軍で使用された兵器のほとんどは実戦を経験していなかったが、この紛争で定量的に評価されることになった。
 また、アルゼンチンはイギリスから兵器を一部輸入していた上、両軍ともアメリカやフランス、ベルギーなどの西側第三国で設計開発された兵器体系を多数使用しており、同一の兵器を使用した軍隊同士の戦闘という特徴があった。
 アルゼンチン軍の攻撃によりイギリス軍は多数の艦船と乗組員を失い、戦争中のイギリス軍の艦艇の損失はアルゼンチン軍のそれを大きく上回ったが、揚陸作戦を成功させ、経験の豊富な地上軍による陸戦や長距離爆撃機による空爆、同盟国であるアメリカ軍の援助を得た情報戦を有利に進めた結果、最終的に勝利を収めた。
 
 アルゼンチン軍は果敢な航空攻撃によりイギリス海軍艦艇に大きな損害を与えたが、イギリス軍の逆上陸を阻止できず、また一部で頑強な抵抗を示したものの経験豊富なイギリス地上部隊に対抗できず、降伏に至った。

背景

フォークランド諸島は、東西の主要2島と多数の小島からなる
 
 「独裁王」フアン・マヌエル・デ・ロサス統領の時代に入ると、1829年にアルゼンチン政府に海域の通行料を払わなかったアメリカの捕鯨船三隻が拿捕されたのをきっかけに、ブエノスアイレスのアメリカ領事は「島の主権がイギリスにある」と訴えて、アンドリュー・ジャクソン大統領が派遣したアメリカ海兵隊が上陸し諸島の中立を宣言した。
 1833年にはアメリカ軍に代わりイギリス軍が再占領し、領有権をめぐって再び対立した。アルゼンチン政府は島の返還を求めていたが、ウルグアイにおける大戦争のため、諸島を奪還することが出来なかった。
 カセーロスの戦いによるロサス追放後、自由主義者の政権はイギリスと友好関係を持つ傍ら、イギリスを牛肉などの輸出市場としていたため領有権を持ち出すことをしないまま150年近い時間が経ち、紛争に至った。
 既に1930年代のアルゼンチンにおけるロサス再評価と共にマルビナス奪還はアルゼンチン国粋主義者の悲願となっていたが、歴史が動き出したのは1981年に、双方で政権が交代したことに端を発する。

アルゼンチン情勢

 アルゼンチンは最初直接交渉で、第二次世界大戦後は国際連合を通じた交渉で穏健策をとり、1960年代以降にはイギリスの維持能力を超えていたこの諸島に様々な行政、医療サービスを行いながら、イギリスに対してフォークランド諸島の返還を求め続けていた。これに対してイギリスも条件付ながら返還を認めるとしてきたが、1982年からアルゼンチンはあくまで無条件返還を求めたため交渉は平行線をたどり難航していた。
レオポルド・ガルチェリ大統領(左)
 
 アルゼンチンは1950年代までは畜産物と穀物輸出から得られる外貨と、その外貨を国民に分配した左翼民族主義者の大統領フアン・ペロンポプリスモ政策によって先進国並みの生活水準を誇っていたものの、保守派と結託した軍のクーデターでペロンが追放されると、ペロン派と軍部による20年以上にも及ぶ政治の混乱が天文学的なインフレと失業を招き、牛肉など食料品の値上げにより国民生活を深刻な状況に陥れていた。
 
 軍事政権は、当初よりしばしばフォークランド諸島に対する軍事行動をちらつかせてはいたものの、実際に行動を起こすまでには至らなかった。だが、かかる状況下で軍事政権を引き継いだレオポルド・ガルチェリは、民衆の不満をそらすために必然的ともいえる選択肢を選んだ。既にアルゼンチンの活動家が上陸して主権を宣言するなどの事件も起きており、フォークランド諸島問題を煽ることで、国内の反体制的な不満の矛先を逸らせようとしたのである。

イギリス情勢

 第二次世界大戦においてイギリスは国力を消耗し、長引く不況や硬直した政治、社会制度による深刻な財政難に悩まされていた。
 ほとんどの植民地海外領土を手放さざるを得なかったこともあり、「陽の落ちることが無い」とまで言われたかつての大英帝国はこの頃には跡形も無く、イギリス本国は英国病から抜け出せずにイギリス連邦がその役割を引き継いでいた。
 
 
 大戦後に手放さずに済んだ海外領土の一つであるフォークランド諸島は、イギリス本国への羊毛の輸出でどうにか成り立っており、フォークランド諸島民は二等市民として扱われて、本土との定期航空便もないなど本国からあまり面倒を見られずに、アルゼンチンからの医療などにおける様々な援助のおかげでどうにか維持されていたような状態だった。
 このように島自体の経済的価値は相対的に低かったものの、フォークランド諸島は冷戦下において南大西洋における戦略的拠点として非常に重要な位置を占めていた。パナマ運河閉鎖に備えてホーン岬周りの航路を維持するのに補給基地として必要であった上、南極における資源開発の可能性が指摘され始めてから前哨基地としても価値がにわかに高まっていた。
 
 保守党エドワード・ヒースが政権を握っていた頃、1961年にフォークランド諸島と南米各国との空路と海路を開く通信交通協定の締結に成功したが、それ以上の実質的な進展はアルゼンチン側が主権問題を取り上げて拒んだ。
 当時の国務大臣であるニック・ヒドリーによって提案された「引き続いてイギリスが統治するものの主権はアルゼンチンに移譲する」というリースバック案があったものの、すでにイギリス人入植者が多数を占めていたフォークランド諸島の住民の意向に沿ったものではなかったため下院で不採用が決議された。
 
 こういった経緯を含め、国際連合憲章第1条第2項に則った人民の自決の原則を理由に、1979年にイギリス首相へ就任したマーガレット・サッチャーはあくまでフォークランド諸島住民の帰属選択を絶対条件にしていた。

両国の衝突

 その後1982年に、民衆の不満をそらすためにガルチェリ政権が問題をクローズアップさせたことで、アルゼンチンではフォークランド諸島問題が過熱ぎみになり、民衆の間では政府がやらないなら義勇軍を組織してフォークランド諸島を奪還しようという動きにまで発展した。
 
 
 この様な動きに対して、アルゼンチン政府は形だけの沈静化へのコメントを出すものの、3月には海軍艦艇がフォークランド諸島の南東約1300kmにある同じくイギリス領となっていたサウス・ジョージア島に2度にわたって寄航し、イギリスに無断で民間人を上陸させるなどして武力行使への動きを見せ、イギリスのサッチャー首相はサウス・ジョージア島からのアルゼンチン民間人の強制退去命令を出すとともに3月28日にアメリカ国務長官であるアレクサンダー・ヘイグに圧力をかけるよう依頼し、フォークランド諸島へ原子力潜水艦の派遣を決定した。
 
 当初はガルチェリの思惑通り事は進み、大統領官邸前には大統領の決定を支持する民衆で埋め尽くされた。3月31日、アルゼンチンが正規軍を動かし始めたとの報せを受けて、4月1日にイギリス首相のサッチャーはアメリカ大統領のロナルド・レーガンに事態収拾への仲介を要請し、閣議を招集して機動部隊の編成が命じられた。
 しかし、翌2日にはアルゼンチンの陸軍約4000名がフォークランド諸島に上陸、同島を制圧したことで武力紛争化した。
 
 4月2日に下院で機動部隊派遣の承諾を受け、5日には早くも航空母艦2隻を中核とする第一陣が出撃した。到着までの間、アメリカ国務長官や外相フランシス・ピムのシャトル外交により事態の打開が模索されていたが、イギリス側は同諸島の統治が島民の意思を尊重することであったのに対し、アルゼンチン側は同諸島での現地統治とその参政権をアルゼンチン島民にも与えることであった。
 また、排他海域の設定やフォークランドへ向かっているイギリスの機動部隊を停止するなど撤退に関することも協定案としてやり取りがあったものの、24日にアルゼンチンの協定案ではイギリスの軍事力がフォークランドへ及ばないようにした文章が含まれていたことから、イギリス側はアルゼンチンの撤退が絶望的であることや外交を時間稼ぎに使われているのではないかという懸念を持った。
 25日にはフォークランド諸島に続いて占領されていたサウス・ジョージア島にイギリス軍の特殊部隊が逆上陸、同島におけるアルゼンチン陸軍の軍備が手薄だったこともあり即日奪還した。その後も国連で和平案の議論が行われたが、態度を硬化させたアルゼンチンにサッチャーは、「我々は武力解決の道を選択する」と決断した。
 
 アルゼンチン軍は、巧みな航空攻撃により幾度となくイギリス海軍の艦船を撃沈するなど、地の利を生かして当初は有利に戦いを進めたものの、イギリス軍は地力に勝る陸軍、空軍力と、アメリカやEC及びNATO諸国の支援を受けた情報力をもってアルゼンチンの戦力を徐々に削っていき、6月7日にはフォークランド諸島に地上部隊を上陸させた。同諸島最大の都市である東フォークランド島のポート・スタンレーを包囲し、14日にはアルゼンチン軍が正式に降伏。戦闘は終結した。

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