抗蒙の最後の激戦地、缸坡頭里(ハンパドゥリ)
- 高麗・元宗14年(1273)、麗蒙連合軍に対抗して戦った三別抄は江華島と珍島で 相次いで敗れ、最後の激戦地となった済州島に渡り、プルグンオルムに二重土城 を築いたが、これが現在の済州・缸坡頭里(ハンパドゥリ)だ。全長6kmにわたる 土城(高さ5m、幅3.4m)であり、石で築いた内城800m及び宮址、役所、各種防 御施設を取り揃えた要塞であった。
- しかし1273年4月、缸坡頭里は遂に陷落し、 三別抄は最後の1人まで抗争しながら玉砕の道を選んだ。三別抄の流した血が オルムの土を赤く染め、その時からこのオルムは「プルグン(赤い)オルム」と呼ば れるようになったと伝えられている。
- 現在は昔の名残を見つけることができる土 城が部分的に残っている。その他にも蝶番、瓦、池跡などの様多くの遺跡が発見 されており、缸坡頭里内の展示館に展示され、歴史教育の場として活用されてい る。また、入口にある抗蒙殉義碑は三別抄の愛国精神を称えている。
風はるか-ぐるっと韓国歴史紀行<31>三別抄の義、済州抗蒙遺蹟地 |
ミカン畑を見ながら坂道をのぼった。済州島は韓国で唯一ミカン栽培の盛んな所だ。本土と隔絶した気候風土のためだが、これから訪ねる所は本土の、特に江華島と深いつながりをもつ。缸波頭里の抗蒙遺蹟地‐。三別抄の反乱軍が拠った要塞跡である。 江華島の高麗宮址を訪ねた時からいつかはここを訪ねたいと思っていた。1232年、高麗は都を開京から江華島に遷して蒙古に抵抗を続け、40年ほどそこに籠城した。だが抗しきれず、蒙古が出した和睦の条件である開京への還都を呑むが、これに反対した勢力が徹底抗戦を唱えて三別抄の乱を起こす。 三別抄は12世紀末に誕生した武人政権下に編成された軍組織で、初めは私兵集団だったが、やがて国軍のように力をつけていった。彼らが抗蒙を掲げて結集したのである。 三別抄は仲孫を将軍にたてて江華島を脱出、全羅南道の珍島に籠城するが、1271年に陥落、将軍も戦死する。その後は残存勢力を金通精が率いて済州島に逃れ、缸波頭里に城塞を築いて抗戦を続けた。しばしば本土の南岸地域を奇襲し、時には内陸部まで深く攻めて、軍糧米や武器を奪った。かなり積極的な抵抗勢力だったのである。だが1273年に蒙古・高麗の連合軍によって征討され、奮戦むなしく全滅した。 坂をのぼりきった丘の上に抗蒙遺蹟地があった。門をくぐって境内に入ると、がらんとした発掘現場がひろがっている。その奥に、抗蒙殉義碑と刻されたモニュメントがあった。左手には展示館もある。三別抄の乱を説明したパネルが並び、愛国人士の義挙への讃辞が連ねられている。 門を出て周辺を歩いた。缸波頭里の要塞には、中心となる施設のあった内城を守って、ぐるりと外側を囲む外城が存在した。土を盛り上げて築いた土城(土塁)だが、近年の調査を経てかなりの部分が整備されている。高さ3㍍近く、幅1・5㍍ほどの土手が続く。距離は全体で4㌔ほどになるという。 土城の上を歩いた。土を板枠に入れて突き固めた、版築という技法によって造られている。徹底抗戦の意志が強固な城壁を完成させたのだ。当時は土城の上に木の灰が撒き敷かれ、いざという時には馬の尻尾に火をつけたほうきを吊るして走らせ、煙幕を生じさせたとも伝えられる。 木立が切れ視界が開けると、南側に海が望まれた。1273年4月、この海に総勢1万の兵を乗せた蒙古・高麗連合軍の軍船160隻が現れた。三別抄はよく戦ったが、押し寄せる大軍を前に敗退、ことごとくが討ち取られ、最後に残った金通精も漢拏山の山中で自決した。 1274年、蒙古は済州島を直轄支配するようになる。島の人々は、日本攻め(元寇)の軍船の製造や兵士の提供など、苦役を強いられた。済州島が蒙古のくびきを脱するのは100年後、高麗末の恭愍王の御世のことだが、中央集権的な支配体制は定着し、独立性の強い耽羅の気風に戻ることはなかった。 海はところどころ白波を立てながら、茫洋と広がりうねっている。殉節の義を思い、済州島の運命を思い、なかなかその場を離れられなかった。 抗蒙の丘(オルム)―三別抄耽羅戦記 [単行本] |