日清戦争
戦争:明治二十七八年戦役 | |
年月日:1894年7月25日から1895年11月30日[1] | |
場所:主に朝鮮半島・満州・黄海 | |
結果:日本の勝利、下関条約締結 | |
大日本帝国 | 清国 |
山縣有朋 伊東祐亨 | 李鴻章 丁汝昌 |
240,616 | 630,000 |
戦死 1,132 戦傷死 285 病死 11,894 戦傷病 3,758[2] | 死傷 35,000 |
日清戦争(中国語:甲午戦争、第一次中日戦争、英語:First Sino-Japanese War)は、1894年7月から1895年3月にかけて行われた主に朝鮮半島(朝鮮王朝)をめぐる大日本帝国と大清国の戦争である。
概要
近代化された日本軍は、近代軍としての体をなしていなかった清軍に対し、終始優勢に戦局を進め、遼東半島などを占領した。
なお、5月末(5月始め)から日本軍が割譲された台湾に上陸し、11月18日付けで大本営に全島平定が報告された(乙未戦争)。台湾が軍政から再び民政に移行した翌日の1896年4月1日、ようやく大本営が解散された。
帝国主義時代に行われた日清戦争は、清の威信失墜など東アジア情勢を激変させただけでなく、日清の両交戦国と戦争を誘発した朝鮮の三国にも大きな影響を与えた。
近代日本は、大規模な対外戦争をはじめて経験することで「国民国家」に脱皮し、その戦争を転機に経済が飛躍した。
また戦後、藩閥政府と民党側の一部とが提携する中、積極的な国家運営に転換(財政と公共投資が膨張)するとともに、懸案であった各種政策の多くが実行にうつされ、産業政策や金融制度や税制体系など以後の政策制度の原型がつくられることとなる。さらに、清の賠償金などを元に拡張した軍備で、日露戦争を迎えることとなる。
その後、義和団の乱で半植民地化が進み、滅亡(辛亥革命)に向かうこととなる。清の「保護」下から脱した朝鮮では、日本の影響力が強まる中で甲午改革が行われるものの、三国干渉に屈した日本の政治的・軍事的な存在感の低下や親露派のクーデター等によって改革が失速した。
戦争目的と動機
『清国ニ対スル宣戦ノ詔勅』では、朝鮮の独立と改革の推進、東洋全局の平和などが唱われた。
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前史1:日本の開国と近代国家志向
日清戦争について
1)江華島事件(外交面)を、
2)1890年代の日本初の恐慌(経済面)を、
3)帝国議会初期の政治不安(内政面)
を起点に考える立場がある。ここでは、最も過去にさかのぼる1)江華島事件の背景から記述する。
西力東漸と「日清朝」の外交政策等
大国の清では、広州一港に貿易を限っていた。しかし、アヘン戦争(1839 - 42年)とアロー戦争(1857 - 60年)の結果、多額の賠償金を支払った上に、領土の割譲、11港の開港などを認め、また不平等条約を締結した。
そのため、1860年代から漢人官僚曽国藩、李鴻章等による近代化の試みとして洋務運動が展開され、自国の伝統的な文化と制度を土台にしながら軍事を中心に西洋技術の導入を進めた(中体西用)。したがって、近代化の動きが日本と大きく異なる。たとえば外交は、近隣との宗藩関係(冊封体制)をそのままにし、その関係にない国と条約を結んだ。
清の冊封体制は、日清戦争でその体制は完全に崩壊することとなる。
朝鮮では、摂政の大院君も進めた衛正斥邪運動が高まる中、1866年にフランス人宣教師9名などが処刑された(丙寅教獄)。報復として江華島に侵攻したフランス極東艦隊(軍艦7隻、約1,300人)との交戦に勝利し、撤退させた(丙寅洋擾)。
「日朝」国交交渉の難航とその影響
「日清」間の国境問題
日清両国は、1871年に日清修好条規を調印したものの、琉球王国の帰属問題が未解決であり、国境が画定していなかった。
ただし、台湾出兵と琉球処分(清からみて属国の消滅)は、清に日本への強い警戒心と猜疑心をいだかせ、その後、日本を仮想敵国に北洋水師(海軍)の建設が始まるなど、清に海軍増強と積極的な対外政策をとらせた。
前史2:朝鮮の混乱とそれをめぐる国際情勢
朝鮮の開国と壬午事変・甲申政変
事変の発生を受け、日清両国が朝鮮に出兵した。日本は、命からがら帰国した公使の花房義質に軍艦4隻と歩兵一箇大隊などをつけて再度、朝鮮赴任を命じた。居留民の保護と暴挙の責任追及、さらに未決だった通商規則の要求を通そうとの姿勢であった。
その後、朝鮮に清国人の居留地が設けられたり、清が朝鮮の電信を管理したりした。なお同事変後、日本の「兵制は西洋にならいて……といえども、……清国の淮湘各軍に比し、はるかに劣れり」等の認識をもつ翰林院の張佩綸が「東征論」(日本討伐論)を上奏した。
1884年、ベトナムをめぐって清とフランスの間に緊張が高まったため(清仏戦争勃発)、朝鮮から駐留清軍の半数が帰還した。朝鮮政府内で劣勢に立たされていた金玉均など独立党は、日本公使竹添進一郎の支援を利用し、事大党政権を打倒するクーデターを計画した。12月4日にクーデターを決行し、翌5日に新政権を発足させた。その間、4日夜から竹添公使は、日本の警護兵百数十名を連れ、国王保護の名目で王宮に参内していた。
しかし6日、袁世凱ひきいる駐留清軍の軍事介入により、クーデターが失敗し、王宮と日本公使館などで日清両軍が衝突して双方に死者が出た。
1885年 4月18日、全権大使伊藤博文と北洋通商大臣李鴻章の間で天津条約が調印された。同条約では、4か月以内の日清両軍の撤退と、以後、朝鮮出兵の事前通告ならびに事態収拾後の即時撤兵が定められた。なお、その事前通告は自国の出兵が相手国の出兵を誘発するため、同条約には出兵の抑止効果があった。
朝鮮情勢の安定化をめぐる動き
旧来、朝鮮の対外的な安全保障政策は、宗主国の清一辺倒であった。
しかし、1882年の壬午事変前後から、清の「保護」に干渉と軍事的圧力がともなうようになると(「属国自主」の転換)、朝鮮国内で清との関係を見直す動きがでてきた。たとえば、急進的開化派(独立党)は、日本に頼ろうとして失敗した(甲申政変)。朝鮮が清の「保護」下から脱却するには、それに代わるものが必要であった。
清と朝鮮以外の関係各国には、朝鮮情勢の安定化案がいくつかあった。中立化、単独保護(、共同保護の3つである。
そして甲申政変が収束すると、ロシアを軸にした提案が出された。つまり、朝鮮半島をめぐる国際情勢は、日清朝の三国間関係から、ロシアを含めた関係に移行していた。
そうした動きに反発したのがロシアとグレート・ゲームを繰り広げ、その勢力南下を警戒するイギリスであった。
イギリスは、もともと天津条約(1885年)のような朝鮮半島の軍事的空白化に不満があり、日清どちらかによる朝鮮の単独保護ないし共同保護を期待していた。そして1885年、アフガニスタンでの紛争をきっかけに、ロシア艦隊による永興湾(元山沖)一帯の占領の機先を制するため、4月15日に巨文島を占領した。
しかしイギリスの行動により、かえって朝鮮とロシアが接近し(第一次露朝密約事件)、朝鮮情勢は緊迫することになった。