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大坂冬の陣では、北方の備前島だけで大筒100門、カルバリン砲、イギリスより購入したカルバリン砲4門、セーカー砲1門、オランダ製4・5貫目の大砲12門(半カノン砲に比例)も

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大坂冬の陣

豊臣方の準備

 慶長19年(1614年)10月2日、豊臣家では旧恩ある大名や浪人に檄を飛ばし戦争準備に着手した。同日に兵糧の買い入れを行うとともに、大坂にあった徳川家をはじめ諸大名の蔵屋敷から蔵米を接収した。秀吉の遺した莫大な金銀を用いて浪人衆を全国から集めて召抱えたが、諸大名には大坂城に馳せ参じる者はなく、ただ福島正則が蔵屋敷の兵糧を接収するのを黙認するにとどまった[注釈 8]。また籠城のための武器の買い入れ、総構の修理・の建築なども行った。


幕府軍の出陣

10月11日、家康は軍勢を率いて駿府を出発した。この開戦が決まると、家康はいつになく若やいだと本多正純は記している。 翌12日には豊臣方の真木島昭光の幕府代官を交替させようと堺に向けて出陣している。



 1614年10月16日から全軍より一斉砲撃が始められる[23]方の備前島だけで大筒100門と石火矢が本丸北側の奥御殿に、南方の天王寺口からはこれまでの総構から本丸南方の表御殿千畳敷に目標を変更した砲撃が和議締結まで打ち込まれ続けた。
  この砲撃では国友製3貫目の大砲が用いられ、また芝辻理石衛門が作った大砲が使われた。この後者は世界的にも珍しい鍛造で作られた鉄製の大砲である。この大砲の実物は現在、靖国神社の遊就館に奉納されている。 その他、6月頃にイギリスより購入したカルバリン砲4門、セーカー砲1門や7日前に兵庫に到着したオランダ製4・5貫目の大砲12門(半カノン砲に比例)[24]も含まれていると思われる。この砲声は京にも届き、その音が途切れることはなかった。
これに対し豊臣方は近接する徳川方に激しく銃撃し、竹束のみの時は一手に付き300から500人の死傷者が出たが、相手が築山・土塁を築くと鉄砲の効果は激減する[25]。また砲撃に対抗してこちらも砲撃したり、塙直之が蜂須賀至鎮に夜襲をしかけ戦果をあげたが(17日)、劣勢であることは否めず和議に応ずることとなる。





カルバリン砲と半カノン砲

カルバリン砲


   
フランスのカルバリン砲
カルバリン砲(カルバリンほう、culverin)は近世に用いられた弾丸重量18ポンドクラスの中口径前装式大砲。また、半カルバリン砲(Demi-culverin)という9ポンドの弾丸を発射するものもある。カルバリンという名称はラテン語のcolubrinus(「ヘビのような」)という言葉に由来し、その砲身の長さを表している。砲身は青銅鋳造されていたが、後に鉄製の鋳造砲も製造される様になる。
16世紀から17世紀に用いられ、騎乗兵歩兵に危害を加えた。また一方で艦載砲としても搭載され、カノン砲よりも威力は低いが長射程を有すためアルマダの海戦で活躍した。
日本においては江戸時代初期、大坂の陣に備え徳川家康イギリスから4門購入した。


セーカー砲   

セーカー砲(セーカーほう、英語: Saker)は近世に用いられた弾丸重量5ポンドクラスの小口径前装式大砲。
17世紀のスペインのセーカー砲
小型船にも搭載できる様に小型化された砲でカルバリン砲よりも弾丸重量が小さいが、その代わり装薬量を増やし砲身長を長くする事で長射程を可能とした。
日本の記録に登場するのは、大坂の役直前に徳川家康イギリスより輸入したものが最初である。大坂の役で使用されたか否かは記録が存在しない。


カノン砲   

独ソ戦時、ソ連赤軍が主力カノン砲として運用したA-19 122mmカノン砲
カノン砲(カノンほう、加農砲)およびカノン加農)は、火砲(大砲)の一種。定義は同口径榴弾砲に比べて砲口直径(口径)に対する砲身長(口径長)が長く、高初速・長射程であるが重量とサイズは大きく、やや低仰角の射撃を主用する(#定義)。しかしながら、概ね冷戦後の現代は火砲の進化(榴弾砲の長砲身化)による砲種の統廃合(榴弾砲の統一)により、榴弾砲とカノン砲の区別は無くなっている(#歴史)。




定義

17世紀当時のドイツヴァルトブルク城)のカノン砲

 カノン砲(gun)は16世紀から17世紀の間は砲弾弾丸)重量42ポンド以上の大口径の滑腔砲の呼称として用いられた。また、「半カノン砲(Demi-cannon)」という砲は弾丸重量は32ポンドであった。その後、榴弾が発明され三十年戦争を機に野戦においても火砲が多用されるようになると(野戦砲)、榴弾を主に曲射弾道で射撃し(曲射砲)、野戦に便利なように砲身をある程度短くするなどした火砲は「榴弾砲」、これまでのように砲丸散弾榴散弾による直射(平射砲)を主に行う火砲は「カノン砲」と区別して運用されるようになった。

 しかし、駐退復座機が開発され火砲が飛躍的な進化を遂げた19世紀末以降、カノン砲でも比較的仰角をとった曲射の間接射撃を行うようになり、火砲の全盛期であった20世紀中半・第二次世界大戦頃までは「榴弾砲は30口径前後まで、カノン砲はそれ以上」と口径長[1](砲身長)で両砲を大まかに区別するようになった。
右・八九式十五糎加農(口径149.1mm・口径長40・砲身長5.96m・初速734.5m/s・最大射程18,100m・戦闘重量10,422kg)
左・九六式十五糎榴弾砲(口径149.1mm・口径長23.5・砲身長3.53m・初速540m/s・最大射程11,900m・戦闘重量4,140kg)

 カノン砲は(同口径の)榴弾砲と比較して、砲弾に緩焼性の比較的高い多量の装薬を用い長砲身のため射程や低伸性に優れるが、射撃時の高い腔圧や大きな反動に耐えるために砲自体の重量は重く仕上がり、サイズも大きく機構も複雑となり生産性や運用性に劣る。カノン砲が主用する砲弾もあくまで榴弾・破甲榴弾尖鋭弾(遠距離射撃用の榴弾)などであるため、近現代においては使用砲弾の差異によって榴弾砲とカノン砲とが区別される訳ではない。

 主に幕末以降、欧州の軍隊に範を取り火砲など多くの装備を輸入していた日本では、名称はそのままに本砲を「カノン」と呼称。フランス語発音の「キャノー」を漢字に当て字し「加農(かのん) 」と表記した。建軍以降フランス陸軍ドイツ陸軍に倣い、その後も長きにわたり欧州の影響を受けていた日本陸軍(日本軍)では、この「加農」の名称を受け継ぐとともにまた終始一貫して「加農」の名称を制式かつ正式の表記として使用している(兵器の制式名称・試製名称も「○○式○○加農」「試製○○糎加農」と表記する[4][5])。
 「加農砲」の表記はあくまで俗称であるが、その語呂の良さから当時から陸軍内外でも並行して使用されており[6]、また日本陸軍の事実上の後身である陸上自衛隊では、155mm加農砲M2といったように「加農砲」を制式かつ正式の表記として使用することになっているため、現在では「加農砲」および「カノン砲」の表記が一般的となっている。

 各言語での名称は英語: gun(ガン)、ドイツ語: kanoneフランス語: canonロシア語: пушкаなど。なお、英語におけるcannonは「火砲」(「砲」)全体を意味し、カノン砲をcanonと称するフランスでは榴弾砲は区別してobusierと称する。



トレビュシェット   

トレビュシェットは、固定式の攻城用兵器の一種。
南フランス・プロバンス地方、レ・ボー城塞のトレビュシェット

 平衡錘投石機とも訳される。巨大なおもりの位置エネルギーを利用して石を投げる。攻城用の投擲兵器としては後発にあたる。大型で威力と安全性に信頼の置ける火砲が出現するまで利用された。
アルキメデスが発明したという伝説も伝わる。シラクサに侵攻した古代ローマ軍をアルキメデスの発明した新兵器が撃退したという逸話、アルキメデスがてこの原理を発見していることが根拠とされるが、その後の歴史を見るに信憑性はない。最古の記録は1165年東ローマによるものである。また、東ローマによる1097年のニケーア包囲戦で使用された投擲機が最初のトレビュシェットである可能性がある

 動物の腱などの弾力を利用するバリスタなどの他の投擲兵器と違い、岩石などを詰めた箱の重量を利用するので、大きく造ればそれだけ威力が増した。また、詰め物の重量を変えることで射撃距離を自由に調整でき、精度も高かった。この投石器は最大のものは140キログラムの石を最大300メートルも飛ばすことができた。シーソーの原理で、片方におもりをつけて、反対側を振り上げて飛ばす。

 石のほか、伝染病が当該地域に蔓延することを狙って、人や牛の死骸を目標に投下することもあった。また、小型の物や原型となったマンゴネルはおもりではなく人力で投擲し、その際は竿にかけた何本かの紐を複数の人間が同時に引くことで投擲した。この兵器で攻撃されると城壁に釘付けにされる。おとなしく身を潜めていないと、空から石や死体が降ってきて直撃してしまう。

 良く似た兵器としてカタパルトがある。こちらは威力や射程はトレビュシェットには劣ってはいたが移動できたので、トレビュシェットの登場後も併用して用いられた。

 中国においては、三国時代霹靂車と呼ばれた投石機が発明されていたが、マンゴネル同様に人力によるものであった。軍による南宋の都市襄陽の包囲攻撃(襄陽・樊城の戦い)の際にトレビュシェットが導入された。ペルシアから来た回教徒の技術者により導入され使用されたので、襄陽砲もしくは回回砲と呼ばれる。霹靂車の石弾の投射能力が48kgが限界だったのに対し、襄陽砲は89kgの石弾の投射能力があった。

回回砲   

回回炮(かいかいほう)、もしくは西域炮巨石炮襄陽炮とは、投石機の一種である。


明清午門、元軍は回回炮を用いて襄陽でこうした城門に建てられた高望楼を破壊した。
西アジアの投石機であるトレビュシェットが、元軍によって中国に導入された時の名称である。回回とは西アジアの事であり、襄陽は地名であり、後述の通り襄陽・樊城の戦いにおいて実戦投入された事に由来する。
モンゴル人ペルシアに遠征した時、この地に火砲があることを発見した。[1]その砲身は木で造られ、用いる弾石は150斤、射程は400mほどあり[2]、落ちた時も7尺もめり込み[3]、威力は甚大だった。
至元八年(1271年)、世祖フビライはペルシアのイルハン朝王のアバカ(阿八哈)に使者を派遣し、砲匠の阿老瓦丁Ala al-Din、アラーウッディーン)と亦思馬因Ismail、イスマイル)が徴発された。至元九年(1272年)十一月、阿老瓦丁は回回炮を制作し、大都午門(正門)での試射が成功した。咸淳九年(1273年)、フビライは回回炮の砲匠を樊城襄陽に派遣し、炮の制作と攻城をさせた。『集史』によれば、攻城に参加する回回炮手には、亦思馬因と阿老瓦丁以外にも二人のダマスカス人がいたという。元軍が長江を渡って南下してから、江南戦場で、『元史·阿老瓦丁伝』によれば、回回炮は「毎戦これを用い、全てで効果があった(毎戦用之,皆有功)」という。[4]

 と元の襄陽・樊城の戦い中、元軍が使用した回回炮が襄陽の譙楼に命中し、「その音は雷のようであり、城中を震わせた。城中は騒がしくなり、多くの武将が城を逃げて降伏し(声如雷霆,震城中。城中汹汹,諸将多踰城降者。)」、宋将の呂文煥は敵わないと知り、降伏した[5]

 至元十一年(1274年)、元朝は回回炮手総管府を置き、阿老瓦丁をその管軍総管と宣武将軍にした。至元二十二年(1285年)に回回炮手軍匠上万戸府と改名した。南宋も回回炮を模造しようと試み、『宋史·兵誌十一』によれば、「咸淳九年(1273年)、沿辺州郡因降式、制回回炮。有触類巧思,別置炮遠出其上」という。

 宋人の鄭思肖は『鐵函心史』で「この回回炮法は、元々回回国から出た物だが、普通の砲より威力がある。(其回回炮法、本出回回国、甚猛于常炮)」とし、「この『回回砲』は、普通の砲より威力がある。これを用いて城に打ちいれば、寺院や道観や楼閣は、ことごとく砕ける。(其‘回回炮’甚猛于常炮,用之打入城,寺観楼閣、尽為之碎)。」と記載する。この「普通の砲」とは三国時代に発案されたと伝わる霹靂車の事で、西欧におけるマンゴネルに相当する人力式の投石機である。
 宋人の徐霆は回回炮に対し、「回回の様々な職人の技術は精緻であるが、攻城の道具は最も精緻である(回回百工技芸極精,攻城之具尤精)」と評価したが、この「攻城之具」とはつまり回回炮である。[4]


芝辻砲

芝辻砲

口径9.5cm 砲身313cm 砲弾1100匁 鉄鋼製 前装式
 1609年、徳川家康が堺の鉄砲鍛冶・芝辻理右衛門助延に命じて製造させたもので、大阪冬
の陣で使用されたそうです。当時の大筒には、前方から弾を込める前装式と、砲尾から弾をこめる
後装式の二種類のタイプがありました。当時としては前者の前装式が最新型だったそうです。芝辻
砲もこのタイプであり、後装式でガス噴出事故が多く飛距離も伸びないフランキ砲よりも優れていた。




大砲   


 大砲(たいほう)は、火薬の燃焼力を用いて大型の弾丸砲弾)を高速で発射し、弾丸の運動量または弾丸自体の化学的な爆発によって敵および構造物を破壊・殺傷する兵器武器)の総称。火砲(かほう)、とも称す。

概要

 これに分類される火器重火器であり、よりも口径が大きい物とされる。ただし、この銃と砲との境界となる口径のサイズはや時代によって異なる。数える際の単位は挺ではなくである。一般的には「銃よりも威力(殺傷力や破壊力)の大きく、個人では扱えない大きな火器」と認識される。大砲の弾を砲弾といい、大砲を専門に扱う兵を砲兵、特に発射する人を砲手という。

 大砲の役割は敵を容赦なく攻撃し、防御の壁を打ち砕くことにある。こういった大砲の威力を決定づける要素とは、『射程』『精度』『発射速度』『機動性』の4つである。

 なお、火器および漢字漢語が発祥した中国の原義では、「砲」とは投石器の類も含む大質量弾の投射兵器全般を指すものである。これに対し「銃」は金属筒に弾火薬を充填する機械構造を指すものであり、元来、銃と砲は単にサイズで区別される同列の概念ではない。従って大砲=大型の銃であり「大銃」という概念が成立しうる。実際に佐賀藩が大砲製造のため設置した部署は「大製造方」といい、幕末頃まで大銃という語が存在した。また日本では古来より鉄砲というように、大きければ砲という認識が確固としてあったわけでもない。
 銃は手段、砲は目的を指すものともいえる。似たような事が自走砲戦車にも言え、戦車とは戦術目的上の概念であり、その手段として自走砲の形態をとっている。初期の戦車は大砲を備えていないものもあった。

歴史

前史

 カタパルトトレビュシェットバリスタのように、機械的な力によって弾丸を放出する兵器は古代から存在した。それらは射程を伸ばすために「捻れ」や「回転」といった物理の法則原理を応用していた。「捻れ」によって得たエネルギーをロープに伝えることが重要だったのだ。初期の大型兵器は石などを遠くに飛ばす為この力を利用した。アームの部分を引くとロープが捻れて力が加わりエネルギーを蓄えられ、あとは金具を外すだけでその瞬間に力が解放される。2m近い巨大な矢、そして石の塊が、遠く離れた敵を容赦なく襲った。その為バリスタやカタパルトが戦場に姿を現すと、敵は恐れおののき、震え上がったという。

中世

 中国では1259年南宋寿春府中国語版で開発された実火槍と呼ばれる木製火砲が最も早い時期の物とみられる、また1332年には大元統治下で、青銅鋳造の砲身長35.3cm口径10.5cmの火砲が製造され、元末に起きた農民蜂起でも多数使用された。中央アジア西アジアでもティムール軍がイランイラク地域の征服、オスマン帝国バヤズィト1世ジョチ・ウルスのトクタミシュとの戦役において攻城用の重砲と野戦用の小口径火砲を用いている。
西洋最古の大砲の記録図, De nobilitatibus sapientii et prudentiis regum, Walter de Milemete, 1326
16世紀描かれている大砲

 西欧世界で現存する最古の火砲的な物の記録図は、14世紀(1326年)[1]イギリススコラ学en:Walter de Milemeteの手稿にあるスケッチには、細長い矢のような物を打ち出す砲のようなものが描かれている。ただし、これは実際に作られたかどうかも、実戦で使われたかどうかも不明である。その後西欧では一世紀以上を経て東方の技術が伝わり、現在のような形へ改良される。
 つまり、矢状の投射物ではなく球形の砲丸を発射するための、太さが均一な管の形をした大砲は、西欧では15世紀の初頭ごろから見られるようになったという事だ。この時代の大砲は射石砲またはボンバード砲と呼ばれ、

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