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南西諸島近海地震は、南西諸島、琉球海溝、沖縄トラフおよびその近海を震源とする地震

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南西諸島近海地震

   
南西諸島近海地震(なんせいしょとうきんかいじしん)では、南西諸島琉球海溝沖縄トラフおよびその近海を震源とする地震について述べる。

プレート境界、発震機構および地殻変動

南西諸島琉球海溝沖縄トラフに挟まれた弧状の列島であり、南西諸島海溝の北端は、南海トラフと繋がっている。
地震調査研究推進本部地震調査委員会は、西南日本および南西諸島近海から、日本海東シナ海を経て中国大陸ユーラシア大陸)に至る広大な領域は、一つないし複数の大陸プレートから形成されているとし、このプレートの下に太平洋側から沈み込むフィリピン海プレートと対比する意味で、西南日本および南西諸島が載っているプレートを「陸のプレート」と呼んでいる[1]。この地殻変動は陸上の観測点の移動として観測されており、「陸のプレート」上にある南西諸島では南東ないし南向きの地殻変動が見られ、フィリピン海プレート上にある南大東島および北大東島は北東方向に変動している[2]
南西諸島周辺の地震は、フィリピン海プレートと南西諸島が載っている「陸のプレート」との境界面で発生するプレート間地震、沈み込むフィリピン海プレートの内部で発生するプレート内地震、および陸のプレートの内部で発生する地震(沖縄トラフで発生する地震を含む)に分類される[1]。また、トカラ列島近海と西表島付近に、火山活動との関連が指摘される群発地震がある[3]
一方、プレートを細分化した見方によれば、南西諸島が載っている沖縄プレート九州南端から台湾北端にかけて位置し、東及び南は琉球海溝を挟んでフィリピン海プレート、西は沖縄トラフを挟んで揚子江プレート、北は九州を含む西日本が載るアムールプレートと接している[4]。南西諸島海溝は沈み込み帯及びプレート同士が衝突する収束型境界、沖縄トラフはプレート同士が遠ざかる発散型境界及びプレートが横にずれていくトランスフォーム型境界が卓越している。
(左)琉球海溝赤線)及び沖縄トラフピンク色の部分)の位置 (右)沖縄プレートおよびその周辺のプレート

地震の発生確率

地震調査研究推進本部地震調査委員会は、2004年(平成16年)、与那国島周辺で他に比べて地震活動度が有意に大きいとし、M 7.8程度の地震が30年以内に起こる確率を30%程度としている[5]
この時、地震調査委員会は他のタイプの地震(南西諸島周辺の浅発地震、九州から南西諸島周辺のやや深発地震、八重山地震タイプの地震、1998年(平成10年)5月4日の地震に類似する地震、海岸段丘から推定される南西諸島周辺の地震)についても検討したが、いずれも知見が少ないとし、その発生可能性の評価をしなかった[6]。なお、2012年現在、地震発生確率は不明としながらも、宮古島断層帯中部でM 7.2、同西部でM 6.9程度の地震が予測されている[7]
また、地震調査研究推進本部2009年、『全国地震動予測地図』をまとめている[8]
より小規模な地震活動の再現周期については、宮古島近海の固有地震活動の研究が報告されている[9]

南西諸島の耐震基準の地域別地震係数

建築基準法の規定により、一定規模を超える建築物構造計算により安全性を確かめる必要があるが、その耐震基準の中で、建築物の耐用年数内に想定される地震力(水平力)の大きさの地域差を考慮した係数として地域別地震係数(Z)がある[10]南西諸島においては、鹿児島県奄美地方についてはZ=1.0、沖縄県全域については国内唯一、全国で最低のZ=0.7となっている。この値は構造計算法として一般的な許容応力度等計算にもより複雑な計算法である限界耐力計算にも適用される。沖縄県の地域別地震係数(Z)については過少評価ではないかという見方が存在している[11][12]
地震の規模と発生確率が詳細に検討されるようになった中、地域別地震係数の妥当な値を求めようとする研究もなされている[13]

年表

古文書によって確認できない古い地震歴については、津波石(津波によって打ち上げられた珊瑚礁隗)や海底タービダイト、陸上の遺跡の考古学発掘などにより地震(津波)の発生履歴調査が行われている。八重山列島の津波石などによる調査では、過去3000年間に5回(約200年前、約500年前、約1000年前、約2200年前、約2600年前)の津波歴が見出されている。
一方、1748年に書かれた宮古島旧記においても、宮古列島の各地の村が大波で消滅したとする伝承が記録されており、これらの伝承が13世紀から15世紀に作られたと考えられていることから、この時期に宮古諸島を大津波が襲った可能性がある[14]
以下の表に、南西諸島近海を震央とする地震のうち、被害地震、M 7.0以上の地震および最大震度5(弱)以上の地震を示す[注 1]南西諸島ではこれらの他に、遠隔地震による津波被害[注 2]台湾付近を震源とする地震による地震動の観測がある[注 3]
注記
  1. 後述にて解説してある地震については、震央地名のリンクから移動できる。
  2. 地震発生年月日の欄の月日は全てグレゴリオ暦(新暦)で記した。震央地名の欄は、1923年(大正12年)以降は気象庁が用いる震央地名で統一した[15]。1922年(大正11年)以前は推定震源域のほか主な被災地域を表記したものがある。


主な地震

ここでは、主に、死者を出した地震、震度5強以上または旧震度階で震度6以上の地震、最大震度5(弱)以上が複数回観測された一連の地震、地震調査研究推進本部が大地震の再現周期を検討するに当たって取り上げたM 7.5 以上の地震について記す。
なお、右図では同心円の中心によって震央位置を示した。

1771(明和8)年八重山地震

南西諸島近海地震の位置(南西諸島内)
南西諸島近海地震
1771年(明和8年)4月24日午前8時頃[21]、八重山列島近海、北緯24度、東経124.3度を震央とするM 7.4[18]、津波マグニチュードMt 8.5の地震が発生した。最大高さ30m弱と推定される津波が八重山列島及び宮古列島を襲い壊滅的な被害を生じた。八重山列島では9,400名余、宮古列島で2,463名が溺死した。家屋の流出などにより全壊した家屋は、八重山列島で約2,200棟、宮古列島では少なくとも800棟に上り、石垣島では完全に消滅した村もあった。八重山列島と宮古列島以外に被害記録は無く、きわめて指向性の強い津波であった。地震動は小さく、石垣島では震度4程度と推定される[20]
八重山地震及び八重山地震津波の名で知られる。古くは乾隆大津波又は八重山大津波と呼ばれ、1968年(昭和43年)に牧野清が著した『八重山の明和大津波』以降、明和の大津波とも呼ばれるようになった[31]石垣島における津波の最大遡上高は、『大波之時各村之形行書』の記録によれば宮良村で85.4mに達し[32]、日本最高の遡上記録とされるが、実際の遡上高は25m~30mと考えられている[20][33]。また、『諸色覚日記』には房総半島まで津波が来た可能性を示す記述がある[34]
地震のメカニズムとしては、定説が見いだせていない。地震調査研究推進本部地震調査委員会は、地震に伴う震度が小さいこと、フィリピン海プレートの沈み込みに伴う歪みの蓄積が認められないこと、および巨大地震の発生が歴史記録上ほかに知られていないことから、プレート間の巨大地震と見なすことは難しいとした。また、同地震津波は、通常の地震性海底地殻変動モデルで説明することはできないと推測されていることを取り上げた。海底地形調査によれば、石垣・西表島南方約40kmに位置する黒島海丘南側斜面で、海底地滑りの痕跡が認められているが、このことについても、その最も新しい現象が八重山地震津波の波源であるとは断定できない、としている。

1901(明治34)年奄美大島近海地震

1901年(明治34年)6月24日16時2分[21]、奄美大島近海、北緯28度、東経130度を震央とするM 7.5 の地震が発生した。震域は広いが、被害は少なく、名瀬市内で石垣の崩壊等の小被害があった。宮崎県細島で高潮を観測し、最大21~24cmに達した[22]

1909(明治42)年沖縄本島近海地震

1909年(明治42年)8月29日19時27分[21]、沖縄本島近海、北緯26度、東経128度を震央とする、M 6.2 の地震が発生した。那覇・首里で家屋全半潰6棟、死者1名、その他で全半潰10棟、死者1名の被害が発生した[18]

1911(明治44)年奄美大島近海地震 (喜界島地震)

南西諸島近海地震の位置(南西諸島内)
南西諸島近海地震
1911年(明治44年)6月15日23時26分[21]、奄美大島近海、北緯28度、東経130度、深さを140kmを震源とする、M 8.0 の地震が発生した[23]。マグニチュードが推定されている南西諸島近海の地震としては最大規模の地震である[18]名瀬測候所で震度6に相当する揺れ(烈)を観測したほか、那覇測候所などでも震度5相当(強)の揺れがあった[35]喜界島地震の名で知られ、明治奄美大島近海地震とも呼ばれる。
人的被害は死者12名、負傷者26名である。喜界島では、全島の家屋2,500棟の内401棟が全壊し、1名が死亡した。奄美大島では11棟の家屋が全壊した。徳之島では崖崩れに伴い5名が死亡した。震源から300kmほど隔たった沖縄島南部でも、598箇所に上る石垣が崩壊、死者1名、負傷者11名を伴った。近畿地方でも震度2~3の揺れがあったとされている[23]
地震のメカニズムとしては、有感範囲が広いこと、震源が140kmと推定されることから、沈み込んだプレート内のやや深い地震とする考え方が有力である[23]
この付近を震源とする地震の再来周期や活動歴は不明である。しかし、珊瑚礁に残された海岸段丘の痕跡から、過去7,000年間に4回の隆起が記録されており、6,300年前に5m、4,100年前に1m、3,100年前に1m、1,400年前に2m、それぞれ隆起している[36][37]

1938(昭和13)年宮古島北西沖地震

南西諸島近海地震の位置(南西諸島内)
南西諸島近海地震
1938年(昭和13年)6月10日18時53分、宮古島北西沖、北緯 25度33.4分、東経 125度2.1分、震源深さ22kmを震源とする、M 7.2[24]ないし M 7.7[25]の地震が発生した。地震後、小津波が近くの島に到達した。宮古島平良港では地震後10分で津波がきた。波の高さ1.5mで、桟橋の流失などの被害を生じた。この地震は沖縄トラフで発生した浅い地震と考えられている[25]


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