日本人は今、世界一、自分の国の歴史を知らない人たちになっている。自分の国の歴史を知らない人が、何で「国民」なのか。日本人の歴史を知らない人が、何で「日本人」なのか。 (櫻井よしこ氏)
菅談話への布石 1
従軍慰安婦とは 言葉の定義と兵士の証言
■定義
日中戦争や太平洋戦争中、朝鮮や中国、南洋、日本などから動員され、兵士相手に慰安所(買売春施設)で暴力的に 性の相手をさせられた女性たちとされている。従軍慰安婦という名前は1973年に作家の千田夏光氏が書き有名になった本から
きており、現在は多くは「慰安婦」と括弧づけで呼ばれている。韓国では「挺身隊」と呼ばれる。
きており、現在は多くは「慰安婦」と括弧づけで呼ばれている。韓国では「挺身隊」と呼ばれる。
1993年政府は強制的に朝鮮などから女性を慰安婦にしたことを認め謝罪し(河野
談話)、民間基金を通じた一定の補償を行った。しかし補償が十分なのか、日本の軍隊による直接的な強制連行がどの程度あったのか、慰安婦を今どう呼ぶべきか
などについて論争がある。
などについて論争がある。
千田 夏光(せんだ かこう) Wiki
1924年8月28日-2000年12月22日 小説家。 中華人民共和国(現)の大連市生まれ。
日本大学中退後、毎日新聞社に入社。
「従軍慰安婦」という造語をはじめて使用した著書 『従軍慰安婦 正編』では「女子挺身隊に動員された女性20万人のうち、5~7万人が強制的に従軍慰安婦に従事した」と記述している。しかし調査によれば女子挺身隊 に所属した女性が従軍慰安婦になった例は確認されていない。(*ブログ主注: 女子挺身隊は、婦人で構成される勤労奉仕団体のこと。韓国では、「挺身隊」=「従軍慰安婦」として混同されている。)
また「女子挺身隊については動員された女性20万人のうち、5~7万人が朝鮮半島出身女性で、それ以外は日本本土出身の女性である。」 (当時 「朝鮮人」も日本国籍であるので本土とここでは記述する)と記述されているが、尹貞玉(従軍慰安婦活動家)は、これを「20万人の朝鮮半島出身従軍慰安婦」とさらに誤読したことが、従軍慰安婦騒動をより複雑化させた。
(*ブログ主注: つまり、千田氏は、「女子挺身隊の朝鮮人参加者5~7万人の全体が、従軍慰安婦になった」 と示し、さらに従軍慰安婦活動家の尹貞玉氏によって、さらに挺身隊全体(日本人・中国人)の20万人が「朝鮮半島出身の従軍慰安婦」として誤った解釈を発表したため、従軍慰安婦の問題がさらに大きく、誇大的になった。)
重要なのは、従軍であるか、否かです。
従軍であれば、「軍の司令のもと、軍に所属する」ということになりますが、「従軍」がとれると、
ただの「慰安婦」「慰安所」となり、一般人が経営する場所、それに従事する人、ということになります。
また、7万人、20万人という数ですが、東京大空襲で東京全土で亡くなった方が約10万人であること
を考えれば、この数の信憑性が理解できます。このことは、南京大虐殺の数も、連想させます。
以下に、終戦後に帰還されたことで有名な 小野田氏による証言をあげてみます。
元兵士の証言 小野田寛郎氏 (おのだ ひろお)
慰安所 (民間の専門業者が設置する施設)は軍の近くにあり、親に身売りさせられた女性・プロの女性が働いていたが、軍に所属するものでなく、また経営者が連れてきているので、軍が強制連行した事実はないことを、証言しています。■私が見た従軍慰安婦の正体 小野田寛郎氏 (おのだ ひろお)
「正論」一月号より 以下抜粋しています 全文は こちら
戦後六十年、大東亜戦争に出征し戦場に生きた者たちが少なくなりつつある現今、私は証言として、「慰安婦」は完全な「商行為」であったことを書き残そうと考えた。
外地に出動して駐屯する部隊にとって、治安維持と宣撫工作上最も障害になる問題は、兵士による強姦と略奪・放火である。そのためにどこの国もそれなりの対策を講じていることは周知の通りである。大東亜戦争時、戦場には「慰安婦」は確かに存在した。当時は公娼が認められている時代だったのだから至極当然である。
野戦に出征した将兵でなくとも、一般に誰でも「従軍看護婦」と言う言葉は常識として知っていたが、「従軍慰安婦」と言う言葉は聞いた者も、また、使った者もいまい。それは日本を貶める為に後日作った造語であることは確かだ。
◆漢口の「慰安所」を見学
日華区とは日本人と中国人とが混じって住んでいる地区で、そこに住む中国人は中華区に住む者と同様「良民証」を携帯しており、そうでない者は警備上難民区に住まされていた。
難民区は日本兵も出入りを禁止されていて、私たち在留邦人は届け出て許可を得なければ出入り出来なかった。それだけ危険な場所だった。 (中略)
そこには内地人も鮮人も中国人もいた(現在、鮮人は差別用語とみなされ、使われない。しかし朝鮮半島が日本統治だった当時は「日本人、朝鮮人」などと言おうものなら彼らに猛烈に反駁された。彼らも日本人なのだからと言う理由である)。
◆どこにもいなかった「性的奴隷」
彼女たちは実に明るく楽しそうだった。その姿からは今どきおおげさに騒がれている「性的奴隷」に該当する様な影はどこにも見いだせなかった。確かに、昔からの言葉に、「高利貸しと女郎屋の亭主は畳の上で往生出来ぬ」というのがあった。明治時代になって人身売買が禁止され「前借」と形は変わったが、娘にとっては売り飛ばされた」ことに変わりはなかった。
先述の「足を洗う」とは前借の完済を終えて自由の身になることを言うのだが、半島ではあくどく詐欺的な手段で女を集めた者がいると言う話はしばしば聞いた。騙された女性は本当に気の毒だが、中にはこんな話もある。「『従軍看護婦募集』と騙されて慰安婦にされた。私は高等女学校出身なのに」と兵士や下士官を涙で騙して規定の料金以外に金をせしめているしたたかな女もいた。またそれを信じ込んでいた純な兵士もいたことも事実である。日本統治で日本語が通じた故の笑えない喜劇でもある。
ところで、その「慰安所」にどれだけの金が流れたのだろうか。これが「慰安婦」が「商行為」であった確かな事実である。私の次兄が主計将校で、漢口にある軍司令部に直接関係ある野戦衣糧廠にいたので「慰安所」について次のような統計があると教えてくれた。 (中略)
一人の兵士がそれぞれ三等分して使った訳ではないだろうが、人間の三大欲は食欲、睡眠欲と性欲と言われるだけに、貯金を睡眠に置き換えると全く物差しで測った様な数字である。ちなみに当時の給料は兵は一カ月平均十三円程で、その三分の一を約四円として計算すると三十三万人で総額約百三十二万円になる。「零戦」など戦闘機一機の価格は三万円と言われたが、実に四十四機分にも相当する。
◆問題にして騒ぎ出す者たちの狙い
「慰安所」の経営者は中国人だったし、日本では当時公認の娼妓と呼ばれた女たちも中国人だった。彼らも食料やその他の生活用品が必要だ。大人数なのだから、それなりの輸送手段もいる。辺鄙な場所だから部隊に頼る以外方法がない。部隊が移動する時もそうなるだろう。 (中略)
もう六十年も昔のことである。時代が変わり、また平時と戦時の違いもある。したがって娼妓(ここでは慰安婦に相当する)に対する解釈も当然変化している。そうであるにもかかわらず、すでに証拠も不完全になっていることを幸いに、今更これを問題にして騒ぎ出す者たちの狙いは何なのか。言えることはただ一つ、不完全だからこそ喚き散らしていれぱ、何かが得られると狙っているということだ。
戦場に身を曝し、敵弾の洗礼を受けた者として最後に言っておく。このことだけは確かだ。野戦に出ている軍隊は、誰が守ってくれるのだろうか。周囲がすべて敵、または敵意を抱く住民だから警戒を怠れないのだ。自分以上に強く頼れるものが他に存在するとでも言うのならまた話は別だが、自分で自分を守るしか方法はないのだ。
軍は「慰安所」に関与したのではなく、自分たちの身を守るための行為で、それから一歩も出ていない。
「従軍慰安婦」なるものは存在せず、ただ戦場で「春を売る女性とそれを仕切る業者」が軍の弱みにつけ込んで利益率のいい仕事をしていたと言うだけのことである。こんなことで騒がれては、被害者はむしろ高い料金を払った兵士と軍の方ではないのか。
「正論」一月号より
「従軍慰安婦」とすると「従軍」した慰安婦への証明ができないことから、意見書
提起が難しくなる。それで、「従軍」をとり「慰安婦」だけの名称にして、地方で以下
のような、意見書が可決されている。
(「慰安婦」だけなら、それを生業(なりわい)としていたプロの方ともいえる。)
「地方議会 慰安婦問題は いかにして地方議会で可決されるか」
慰安婦問題について 公的謝罪、国家賠償につながる 「誠実な対応を政府に求める意見書」 が地方議会で
相次いで可決されている。
success