さてさて、今日も子供たちに伝えたい歴史、インドネシア編第二弾です☆
■1.カリバタ国立英雄墓地に祀られた日本人■ ジャカルタ郊外のカリバタ国立英雄墓地は、日本軍降伏後、 4年5ヶ月におよんだイギリス、オランダとの独立戦争で、 特別な功労を立てて戦死した人々が祀られています。 この中に11名の日本人が一緒に手厚く葬られています。 1945年8月15日の日本軍降伏後も現地に残留して、 インドネシア 独立義勇軍に身を投じた人々は、 1~2千人程度と推定されています。 400名程度が戦死され、そのうちの32名が各地区の英雄墓地に祀られているのです。 また独立50周年となった平成7年、残留日本兵69名に対し、 渡辺インドネシア大使から感謝状が贈られ、スハルト大統領(当時)は官邸に招いて、 お礼を述べられました。 これらの人は、何を思って、異国の地に留まったのでしょうか・・・。 ■2.独立への願い■ インドネシアがオランダの植民地となったのは、 1605年、それ以来、3世紀半にわたって、人口わずか0.5%のオランダ人が 全生産額の65%を独占するという収奪が続きます。 『1905年に、日本がロシアを破ったことは、アジア人もまた 西洋をうち負かすことができるほど強くなれるという信念を 強化させた。それ以降、インドネシア人は、大国として発展 する日本にいっそうの注目をそそぎはじめた。』 独立を願う民衆の間には、いつしか、 「いつか北から同じ人種がやってきて、とうもろこしが芽を出して実をつけるまでに (約3ヶ月半)インドネシア人を救ってくれる」という予言が生ました。 ■3.独立を戦いとれる実力を■ その予言は、1942年3月1日に現実のものとなったのです。 今村均中将率いる第16軍は、総兵力5万5千をもって、ジャワ上陸を敢行しました。 攻略は上陸後3ヶ月を要するだろうと予想されていたのですが、 わずか10日後には、オランダ軍司令官は全面降伏しました。 予言を信じた現地人が、オランダ軍が築いたバリケードなどの邪魔物を取り除くなど、 積極的に日本軍の進撃を助けたからなんです。 独立運動の指導者スカルノ、ハッタの情熱に感銘を受けた 今村中将は、次のように言って、彼らを支援しました。 「独立というものは、与えられるものではなく、つねに戦い取るべ きものだ。かれらが戦い取ることのできる実力を養ってやるのが、 われわれの仕事だ、、、」 それから、独立国への準備が始まります。 300近い言語をインドネシア語に統一する、州の長官、副長官などに現地人を登用し、 州や市の参議会を作って、行政や議会運営を習得させる、 さらにインドネシア義勇軍を編成し、3万5千もの将校、兵士を育成しました。 これらの人々が後の独立戦争の主役となっていくのです。 ■4.植民地復活を狙うイギリス、オランダ■ 日本軍が降伏した1945年8月15日の二日後、スカルノとハッタは すかさず独立宣言を行います。 18日には、インドネシア共和国憲法を採択し、それぞれ大統領、副大統領に就任しました。 しかしイギリスとオランダは、植民地の復活を狙い、 「日本軍は連合軍が進駐し、交代を命ずるまで、現状を維持し、 治安を確保すべし。そのために必要なる武器は保持してもよろしいから、 暴動は必ず鎮圧すべし」 と命令したのです。さらに 「原住民の集会禁止、武器の 携帯、民族旗の掲揚を取り締まるべし。 これがためには、兵器の使用も可である。」 との命令が来ます。降伏した日本軍を使って、独立運動を阻止しようというのです。 一方で、インドネシア側は、来るべき独立戦争に備えるためにも、 何としても日本軍が保有している武器が必要でした。 今まで日本軍に協力してきた幹部達は、必死に日本軍に支援を訴えたのです。 独立運動で暴徒化したインドネシア群衆が、武器を要求して、 日本軍の施設を襲う事件も起きます。 しかし、日本軍は断じて 「撃つな、指導者と話し合え」 と厳命を下しました。暴徒に銃殺された日本人のなかには、 「インドネシアの独立に栄光あれ」 と自らの血糊で壁に書き残した人もおり、 現地人に多大の感銘を与えて、今も記念として残されているといいます。 ■5.独立戦争への支援■ 日本軍には、オランダ軍の目を盗んで、インドネシア側に協力する人々が現れました。 中部ジャワ地区の馬淵逸雄少将は、廃兵器処理の許可を得るや、それを拡大解釈して、 トラック何台分もの武器をチレボン河の河原に捨てました。 対岸で待機していたインドネシア側がこれをごっそり手に入れるということもありました。 こうしてインドネシア側に、小銃3万5千挺、戦車、装甲車、自動車など200台、 中小口径砲など多数と、ジャワの日本陸軍の装備の半分以上が手渡されました。 自ら、軍籍を離脱して、インドネシア軍に身を投じた人々も多くいました。 その一人古閑正義中尉は、熊本県出身、明治大学で柔道とラグビーの名選手でした。 スマトラのアチエ州で、地元の青年達を「何が何でも独立を勝ち取れ」と教育します。 昭和天皇の終戦の詔勅の中の 「東亜解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ、遺憾ノ意ヲ表セザルヲ得ズ」 という言葉から、インドネシア人を見捨てて、日本に帰る気持ちにはなれず、 同じ部隊の少尉4名とともに、独立軍に参加したのです。 戦闘に慣れないインドネシア人を率いて、常に先頭に立って、指揮をしました。 オランダとの独立戦争は1949年12月までの4年5ヶ月も続きました。 兵員こそ200万人もいましたが、武器は日本軍から手渡された数万挺の小銃が中心です。 オランダ軍は都市への無差別爆撃なども行い、80万人もの犠牲者、 1千万人を超える負傷者が出たと言われています。 インドを始めとするアジア諸国がオランダを非難し、 国連安保理事会や米国議会も撤兵勧告を行い、 全世界の世論に押されてオランダは再植民地化を諦めたのです。 ■6.命を捧げてくれた日本青年を偲ぶ■ 平成7年5月29日、戦後50年を記念して、 「アジア共生の祭典」が開かれました。 ちょうど、独立50周年を迎えたインドネシアからは、 スハルト大統領特使として、陸軍大学長、駐日大使などを 歴任したサイデマン外務省上級大使が参列されました。 サイデマン大使は、約1万人の参列者に対して、次のような挨拶 をされました。 「第2次大戦中、あるいはその直後、植民地の独立のために、 外国の人々が力を貸してくれるということが見られました。 私の国インドネシアの場合、多くの日本の青年たちがインド ネシアを自由にするために独立の闘士たちと肩を並べて戦っ てくれました。そして多くの日本の青年がそのために命を捧 げてくれました。今日このアジア共生の祭典において、私た ちの独立のために命を捧げてくれたこれらすべての若者たち を偲びたいと思います。」 「かれらが(独立を)戦い取ることのできる実力を養ってやるの が、われわれの仕事だ」という今村均中将の言葉は、現実となったのであります。
もっと詳しく勉強したい方は以下の本を参考にするとよいと思います☆
[参考]
・アジアに生きる大東亜戦争、ASEANセンター編、展転社、S63
・アジア独立への道、田中正明、展転社、H3
[参考]
・アジアに生きる大東亜戦争、ASEANセンター編、展転社、S63
・アジア独立への道、田中正明、展転社、H3