対馬の文化/県指定文化財/史跡
県指定文化財/史跡
対馬藩お船江(ふなえ)跡(昭44.4.21)
- 厳原港の南、久田浦に注ぐ久田川河口に構築された人工の入江に4基の突堤と、5つの船渠がある。対馬藩お船江の跡である。
寛文3年(1663年)の築造で、築堤の石積みは当時の原形を保ち、往時の壮大な規模を窺うことができる。
江戸時代、水辺の各藩はいずれも藩船を格納する施設を設けていたが、これほど原状をよく遺存している所は、他に例がない。
〈厳原町久田・長安六)
対馬円通寺宗家墓地
- 対馬東岸の良港佐賀(さか)浦は、室町時代前期を通じて島府が置かれ、島主宗氏はこの地にいて全島を支配した。
佐賀三代といわれる宗貞茂(応永)、宗貞盛(応永~享徳、宗茂職(しげもと)(享徳~応仁)を経て、宗貞国が応仁2年(1468年)府中(厳原)に移るまでの間、円通寺は宗氏の菩提寺であった。
円通寺の裏山に数基の宝篋印塔があるが、個々の墓についての所伝はない。
円通寺の寺号は、貞盛の法号である。
(峰町佐賀・円通寺)
出居塚(でいづか)古墳
- 美津島町鶏知浦の西方に「エビスガクマ」と呼ばれる峰があり、その頂上は前方後方の高塚になっていて、古くから出居塚と呼ばれていた。
本古墳は全長40m、構築時期も出土した銅鏃(どうぞく)や管玉(くだたま)等から4世紀後半から末頃と推定され、文字通り対馬で最大・最古の古墳であり、県内唯一の前方後方墳である。
内部構造は盗掘されているが、竪穴式石室と考えられる石室が残っている。
また本古墳の東岸にある根曽古墳群(5~6世紀)を含めて・大和政権下の対馬県直などの豪族を埋葬したものと考えられる。
これらは、この周辺を本拠地に対馬を支配していたものと考えられる。
(美津島町鶏知・大塔鐵男ほか)
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重要文化財
主藤(すとう)家住宅
- 建築年代について、これを証する資料はないが、19世紀中頃の建築と推定されている。平面は「台所」「本座」「納戸」からなる、いわゆる三間(ま)取りで、これに一間(けん)通りの入側が表側に付き、本座の前を「座敷」、台所に接する部分を「戸口」と呼んでいる。
土間は狭く、かまど、流し、風呂などがある。全体に木割りが大きく、特に長方形断面の柱を見付けが大きくなるように立てるのは、この地方の特徴である。小屋は和小屋で、大梁を格子状に組み化粧屋根裏天井。屋根はこの地方の農家には珍しく、本屋根・ひさし共に本瓦葺きである。対馬地方の代表的な農家の例として、貴重な遺構である。
(厳原町豆酘・主藤長太郎)
銅像如来立像
- 小粒の螺髪(らほつ)が繊細にあらわされている肉髺(にくけい)部や地髪はほどよく盛りあがり、眉には弧を描いてタガネが入れられている。うねりのある切長の眼や、はっきりと稜をつくった唇の表情など、端正な面貌(めんぼう)である。両肩を通した衣は、肌に沿う襞(ひだ)がみごとに表現されていて、体部のモデリングに緊張感をあたえている。面貌や衣褶(いしゅう)の特色から、朝鮮半島新羅統一時代の仏像であることがわかり、彼地にも稀な8世紀の秀作で、像高38.2cmの丈量は韓国小金鋼仏中では大きい。
光背と台座は失われているが、本体のなめらかな肌あいはろう型による鋳造であり、背中には鋳造時の中型と外型との支えになった部分が穴となっている。
『対州神社誌』(貞享3年)の木坂村八幡宮の条には、御神体5躰のうち2躰が金像であるといい、当像がそのうちの1躰にあたることになろう。
(峰町木坂・峰町ふるさと宝物館に保管・海神神社)
金鼓〈多久頭魂神社)
- 「豆酘の大鉦」と呼ばれてきた面径77.3cmの大型の金鼓であり、朝鮮半島で製作されたものである。金鼓は日本め鰐ロのような梵音具であるが、両面式ではなく盤状のもので、金口とか盤子ともよばれる。
側縁部に陰刻銘があり「禅源乙巳五月日 晋陽府鋳成口福寺飯子一印」と読まれ、年号が不明であるが、乙巳は高麗高宗32年(1245年)と考えられ、慶尚南道の晋州で作れたものであることがわかる。その後、本邦にもたらされ、正平12年(1357年)に大蔵経種によって奉縣されたことが追銘で知られる。面経77.3cm。
(厳原町豆酘・多久頭魂神社)
銅造如来坐像(黒瀬観音堂)
- 豊かな肉身部のふくよかなつくり、それをつつむ衣の襞(ひだ)のモデリングの見事さなど、全身すみずみまで神経のゆきとどいた造作である。
瞼は微妙なカーブをつくり、眉も溝をつけて円弧を描き、やや小づくりの鼻と唇は豊かな頬をより豊かにみせている。衣は右肩をあらわにして、両手は胸の前で説法をするときの印をつくっている。
火災にあって本体は変形し、台座は一部をのこしている。当像は、そのような損傷を補って余りある秀抜なできばえのもので、統一新羅時代の金銅仏中最も優秀な作品のひとつにかぞえられる。
(美津島町黒瀬・対馬市)
金田城(かねだじょう)跡(かなたのき)
- 浅茅湾の南辺にあり、天智天皇の6年(667年)11月に築造された対馬国金田城の跡である。標高276mの山頂は天然の絶壁で、それに石垣を配した遺構がある。これを起点に、尾根伝いに城壁をめぐらし、三つの谷をかかえる、いわゆる朝鮮式山城の形式をとっている。
この形式は、天智4年(665年)8月にできた筑前の大野城(おおのき)、肥前の椽城(きのき)と同一形式である。
金田城は、新羅の日本進攻を防ぐ目的で築かれたものと言われる。県内で最初の国指定特別史跡である。
(美津島町城山ほか)
史 跡
根曽(ねそ)古墳群
- 対馬の中央部東海岸鶏知浦に面した海岸台地にある古墳群で、前方後円墳3基・円墳2基からなる。山頂部の1号墳は全長30m,2号墳は全長36m,ともに対馬では珍しい前方後円墳であるが4号墳は旧状が明確でない。
ともに浜石積を特徴とし、石棺形の石室をもっている。
1号噴からは、柳葉形鉄鏃・鉄刀片・碧玉(へきぎょく)製管玉が出土し、2号墳からは、須恵器(すえき)・土師器(はじき)・鉄剣等が発見されている。
本古墳群の近くに全長40mの出居塚(でいづか)古墳があり、前方後方墳で4世紀後半のものとされ、これに後続するのが根曽古墳群で6世紀まで続く。
鶏知は顕宗(けんぞう)紀にある下県直(しもつあがたのあたえ)の根拠地と比定される場所であり、本古墳群は畿内勢力の枠組みの中に対馬が組みこまれていたことを示している。
(美津島町鶏知)
矢立山(やたてやま)古墳
- 厳原町の西海岸、小茂田の集落に注ぐ佐須川の右岸に3基の古墳がある。1号墳は平成13年(2001)の再調査により方墳であることが判明し、2号墳も平成14年の調査の結果方墳であることが判明した。
1号墳は板状の石材を三段に積み重ね、いずれの土台もほぼ正方形となっており、下段は約11m、中段は約7m、上段は約5m四方となっている。
床に敷石を施した長さ4.8m、幅1.8mの横穴式石室を持ち、鉄釘4本と金銅製太刀が出土した。出土した須恵器片や石室の石積み技法から、築造年代は西暦650~700年頃とみられている。
2号墳は,平面T字形の石室を1号墳同様,割石平積みして構築しており、須恵器の長頸壺・刀装具(玄室出土)や高台付銅椀が出土した。
石室構造・出土品により終末期の古墳と考えられる。
T字形石室という珍しい構造は、韓国の漢江流域にある梅竜里2・8号墳との関連が考えられる。
対馬では、弥生時代以来箱式石棺を主体とする積石塚が伝統的な墓制であるが、古墳時代終末期に突然横穴式石室墳が出現した。
3号墳は積石塚で長方形墳。南北が約7m、東西が約4.5mで底部を土と石で盛土し基礎を造り、その上は、人頭大程の石だけで積んでいる。
(厳原町下原)
塔ノ首遺跡
- 上対馬町比田勝港の北東、西泊湾をのぞむ低い旧岬上にある弥生後期の墓地で、箱式石棺4基からなる。
銅釧(くしろ)(腕輪)・各種の玉類、8000個におよぶガラス小玉・広形銅矛・方格親矩文(ほうかくきくもん)鏡(青銅鏡)・小鉄斧等、多数の遺物が棺の内外から発見された。
特に注目されるのは、第3号棺から発掘資料としては初例の広形鋼矛2点があり、しかも弥生式土器および韓国陶質土器とともに発見されたことである。
このことは、広形銅矛の年代が明確になったこと、韓国の土器と日本の土器の年代比較が可能になったことを意味し、日韓文化の交流を如実に示すものとして注目される。
(上対馬町古里)
清水山(しみずやま)城跡
- 清水山の頂上に一ノ丸、東の尾根の先端に三ノ丸、その中間の段にニノ丸と称する三段の曲輪があり、その間石垣が断続し全長約500m、中世風の山城である。
秀吉の朝鮮出兵に備え、天正19年(1591年)に築城されたもので、肥前名護屋の本営から、壱岐の勝本城、対馬の清水山城、朝鮮の釜山城と結ぶ駅城であった。
標高206mの一ノ丸は東西約50m、南北約40mの長方形角円(すみまる)で、中央に矢倉の基壇がある。
東側正面には虎口(こぐち)と桝形があり、西側搦手(からめて)にも門址があり、山道に通じている。ニノ丸は小さく矢倉がない。
三ノ丸は全形が把握し難いが、石垣の出張(でばり)、虎口(こぐち)、石段が遺っている。
(厳原町西里)
対馬藩主宗家墓所
- 清水山南麓の宗家の菩提寺である万松院(天台宗)を中心に、山腹の宗家歴代の墓地を含む広大な地域である。
万松院は第二代藩主(宗家第20代)義成が、亡父義智(宗家第19代、対馬藩初代)を弔って建立した。元和元年(1615年)に逝去した義智のために創建した松音寺の法号である万松院をもって寺号とした。
墓地は、桃山様式を残す山門のわきから、百雁木(ひゃくがんぎ)とよばれる132段の自然石の大石段を登った所にある。
樹齢数百年の大スギが茂り、上段には義智以来の14人の藩主とその正室ら、中段には積極的な朝鮮外交で有名な戦国期の貞国(宗家第10代)ほか、下段には側室などが眠る。
対馬藩は十万石の格式であったが、壮大な墓地は数十万石の大藩なみといわれている。
(厳原町西里,今屋敷・万松院)
金石(かねいし)城跡
- 清水山(206m)の南麓に位置し、前を清流金石川が流れる。
築城年は不明であるが、『宗氏家譜』に、享禄元年(1528)宗盛治の兵乱により池の館(厳原町今屋敷)が炎上し、「盛賢(もりたか)(将盛)府城を金石に移す」と記されている。
これより前,文明年間(1470年代)、金石の西北の山際に国分寺を再興していたので、その隣に築城したものとみられる。
寛文5年(1665)国分寺を移転、城郭を拡張し、大手門に櫓を建て、多門櫓を造って金石城と称したが、天守閣はなかった。家中では金石の館と称している。
廷宝6年(1676)に桟原の館が完成し、新しい府城となるが,その後も金石城は存在し、文化10年(1813)の火災で大手の櫓が焼失したときは幕府に願い出て復旧費二千両の貸与を許され、同14年にこれを再建した。
この門は大正8年(1919)まで保存されていたが、維持管理が困難となり解体された。
今も堅牢に遣る城壁の一部は、対州流の石垣の特色をよく示しており、石工技術に固有の伝統があったものとみられている。
平成2年、櫓門が記録に基づき復元され、景観が往時をしのばせている。
(厳原町今屋敷)