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[転載]文永の役・蒙古に依る對馬來寇

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 本日十一月十四日は、舊暦では十月五日に當る。日本人なら決して忘れてはいけない、蒙古に依る對馬來寇の日である。

 『十月五日、蒙古が寄せ來て、對馬嶋に着く。同二十四日、大宰少弐入道覺惠代藤馬允、大宰府に於て合戰し、異賊敗北』 (『鎌倉年代記裏書』)


 文永十一年(元の至元11年、西暦1274年)十月、忻都、金方慶らに率ゐられ、蒙古人・漢人・女真人・高麗人など非戰闘員を含めると約三萬人を乘せた船が、朝鮮・月浦(現:馬山)を進發した。

 十月五日(舊暦)に先づ、對馬を襲撃した。對馬の守護代・宗助國は、一族八十餘騎を率ゐて奮戰するも、遂に及ばず戰死する、其の直前、家臣の小太郎及び兵衛次郎に命じて急を太宰府に報告せしめた。
 二人は、玄海の荒波を乘り切り博多に上陸し、其の使命を果したが、元軍は壹岐を占領し、更に鷹島を襲い、博多灣に侵入した。小太郎も博多防衛に加はつた。
 弘安四年(1281)元軍が再び来襲。鷹島襲撃の報せに、小弐景資の配下として奮戰中重傷を負ひ、自刃。遺言に「我が屍を埋めるに對馬を望むべき丘陵に於いてせよ」と残した。對馬小太郎の墓は、鷹島里免郷、清水川の南方丘上に在る。

 更に元軍は、同十月十四日には壹岐を襲撃し、次いで平戸・鷹島の松浦黨の本據を全滅せしめ、壹岐守護代・平景隆を自害に追ひ込んだ。

 鷹島東濱に上陸した元軍は、日本軍が博多灣に重點を置き、鷹島を手薄にしてゐたことから、島民の殆ど全てを虐殺した。船唐津免の開田と謂ふ處の一軒家は、人目に付き難い山中に在つたが、飼つてゐた鶏が鳴いたため、「鶏が居るのなら人も住んでゐる筈」と元軍は山中を捜索し、一軒家を發見。八人家族のうち七人が殺され、灰だめに隠れてゐた老婆一人のみが助かつたと云ふ。以來、開田では鶏を飼わぬと傳へられる。(其處に築かれた塚は「開田の悲墳塚」とも謂ふ)

 また、『新元史』に依ると、此の時民衆を殺戮し、生き殘つた者の手の平には穴を開け、其處に革紐を通して船壁に吊し、見せしめにしたと傳へられる。又、元の將軍が、此時に捕虜とした子供男女二百人を、高麗王と王妃に献上したと云ふ記録が高麗側に殘つてゐる。

転載元: 久左衞門の居館


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