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朝鮮は中国の「属国」だから、中国に圧力をかけて譲歩を引き出すことができた国が、朝鮮での特別待遇を得られる。
この状況では、イギリスと日本の「利害」は完全に一致していたといえる。
1894年7月16日、日英両国は、イギリスが5年後に治外法権を放棄することを取り決めた青木・キンバリー条約に調印し、8月1日、日本は朝鮮の「独立」を勝ち取るためと称して中国に宣戦布告をした。
日本の見地から見れば、この戦争は完勝である。
西洋列強は喝采し、日本に於ける彼らの「特権」を相次いで放棄した。
そして、日本を対等の主権国家として承認した。
日本は朝鮮皇帝を中国皇帝、日本国皇帝と同列に扱った。
中国からは賠償金(出所は、西洋の合弁会社が中国に『高利』で貸した金。日本はそれを基に金本位制についた)と、台湾と澎湖諸島を割譲し、遼東半島で大きな租借地を得た。(三国干渉の原因)
三国干渉を契機に、欧米列強の中国分割が加速していく。
満州と沿海州にロシア、山東省にドイツ、華北、揚子江流域、香港(阿片戦争に因る)にイギリス、雲南省にフランスというように、いくつかの「勢力圏」に分割された。
外国勢力の進出で、中国は混乱状態に陥る。
義和団事件(1899)が起き、欧米列強と日本の連合軍が鎮圧。
いまや独立国となった日本は、英の完全なるパートナーとして、西洋文明のために非文明の中国と戦い「立派な役割」を果した。
多くの国が中国割譲に殺到した事実は、極東に介入した超大国がイギリスとロシアだったことを不透明にしているが、両国が当時の超大国であったことには変わりない。
中国本土の英と満州の露は、それぞれ鉄道建設、鉱山開発、工場建設などの大事業を着々と進め、経済権益を追求していた。
朝鮮の日本は小さい存在だったが、ライバルとしての力を蓄えつつあった。
日本は競争相手の大国のどこかに助けてもらわなければ、自分たちの権益を確保できなかった。
日本にとって幸運だったのは、ロシアを押し返すという点では、英と利害が一致していたことである。
日清戦争後に締結された日英同盟は、将来の日露戦を想定し、日本強化の為に締結された。
1904年、日露戦争勃発。
日本は再度「朝鮮の独立」の為に闘うことになった。
日本が西洋に認められるうえで、日露戦争は有益だった。
文明世界は奇妙な小男たちの勇気と闘争心に仰天し興奮した。
彼らは民族衣装の着物を着ながら、たちまちのうちに近代戦の技術を習得していたのだ。
1904年10月4日付のロンドン・タイムスの記事が、当時の英人の反応を物語っているが、それは殆どの米人が感じたことでもあった。
極東のこの戦争を取り巻く状況には注目すべきことが多い。
中でもとりわけ目立つのが、ミカドの軍隊の勇気と戦いぶりである。
我々は、不本意ながら、日本の全ての人間の全ての行動を支配し動かす精神力の存在を認めざるをえない。
この力はいったい何なのか。
その存在を感じると、妬ましく、落ち着かず、腹立たしくさえある。
勇気とは西洋にとっても珍しいことではない。
が、これは単なる勇気ではない。
その背後にもっと違う何かがある。
もし西洋の軍隊がそれをもっていたら、西洋の全ての国の軍旗は絶対に汚されることはなかったろう。
そういう何かである。
P252
『アメリカの鏡・日本』ヘレン・ミアーズ著(1948年)
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日清戦争に至るまでの背景と経緯を年表とともに。
1875年江華島事件~1895年下関条約
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/4822874.html
「義和団の乱」(義和団事件、北清事変)
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/5241956.html
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http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/5242128.html
日露戦争に至るまでの背景と経緯を年表とともに。
地中海の不凍港を求めて失敗したロシアは、次に極東の不凍港を求めて満州と朝鮮に南下して来た!
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/4908723.html
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朝鮮は中国の「属国」だから、中国に圧力をかけて譲歩を引き出すことができた国が、朝鮮での特別待遇を得られる。
この状況では、イギリスと日本の「利害」は完全に一致していたといえる。
1894年7月16日、日英両国は、イギリスが5年後に治外法権を放棄することを取り決めた青木・キンバリー条約に調印し、8月1日、日本は朝鮮の「独立」を勝ち取るためと称して中国に宣戦布告をした。
日本の見地から見れば、この戦争は完勝である。
西洋列強は喝采し、日本に於ける彼らの「特権」を相次いで放棄した。
そして、日本を対等の主権国家として承認した。
日本は朝鮮皇帝を中国皇帝、日本国皇帝と同列に扱った。
中国からは賠償金(出所は、西洋の合弁会社が中国に『高利』で貸した金。日本はそれを基に金本位制についた)と、台湾と澎湖諸島を割譲し、遼東半島で大きな租借地を得た。(三国干渉の原因)
三国干渉を契機に、欧米列強の中国分割が加速していく。
満州と沿海州にロシア、山東省にドイツ、華北、揚子江流域、香港(阿片戦争に因る)にイギリス、雲南省にフランスというように、いくつかの「勢力圏」に分割された。
外国勢力の進出で、中国は混乱状態に陥る。
義和団事件(1899)が起き、欧米列強と日本の連合軍が鎮圧。
いまや独立国となった日本は、英の完全なるパートナーとして、西洋文明のために非文明の中国と戦い「立派な役割」を果した。
多くの国が中国割譲に殺到した事実は、極東に介入した超大国がイギリスとロシアだったことを不透明にしているが、両国が当時の超大国であったことには変わりない。
中国本土の英と満州の露は、それぞれ鉄道建設、鉱山開発、工場建設などの大事業を着々と進め、経済権益を追求していた。
朝鮮の日本は小さい存在だったが、ライバルとしての力を蓄えつつあった。
日本は競争相手の大国のどこかに助けてもらわなければ、自分たちの権益を確保できなかった。
日本にとって幸運だったのは、ロシアを押し返すという点では、英と利害が一致していたことである。
日清戦争後に締結された日英同盟は、将来の日露戦を想定し、日本強化の為に締結された。
1904年、日露戦争勃発。
日本は再度「朝鮮の独立」の為に闘うことになった。
日本が西洋に認められるうえで、日露戦争は有益だった。
文明世界は奇妙な小男たちの勇気と闘争心に仰天し興奮した。
彼らは民族衣装の着物を着ながら、たちまちのうちに近代戦の技術を習得していたのだ。
1904年10月4日付のロンドン・タイムスの記事が、当時の英人の反応を物語っているが、それは殆どの米人が感じたことでもあった。
極東のこの戦争を取り巻く状況には注目すべきことが多い。
中でもとりわけ目立つのが、ミカドの軍隊の勇気と戦いぶりである。
我々は、不本意ながら、日本の全ての人間の全ての行動を支配し動かす精神力の存在を認めざるをえない。
この力はいったい何なのか。
その存在を感じると、妬ましく、落ち着かず、腹立たしくさえある。
勇気とは西洋にとっても珍しいことではない。
が、これは単なる勇気ではない。
その背後にもっと違う何かがある。
もし西洋の軍隊がそれをもっていたら、西洋の全ての国の軍旗は絶対に汚されることはなかったろう。
そういう何かである。
P252
『アメリカの鏡・日本』ヘレン・ミアーズ著(1948年)
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