左座家 (ぞうざけ) 熊本県八代市泉町 | ||||
この辺、旧泉村のあたり、本当にびっくりするほど山が深い。車で入り込んだら出れない感じ。ものすごく空気も綺麗で木々も美しいけど、都市部に住んでいる人がやってきたら、ちょっと異国情緒を感じるほどだ。
そんな山の奥だから、平家の落人伝説が残っているが、この左座家は、さらに昔、左遷された菅原道真の子が隠れ住むためにやってきたのが起源といわれている。道真を左遷させた藤原一族は、道真の死後その子が立派に成長し一族に仇をなしてはまずいと、追っ手を放った。それを聞きつけるといち早く逃げ、ここに隠れ住み、それが左座家になったといわれている。素敵なわらぶき屋根のお屋敷が石垣の上にどんと構えている。
こんなところまでは、追っ手であっても行くの大変だ。私は現代人。車で行っても帰りが大変だった。神秘的な地域だ。
そんな山の奥だから、平家の落人伝説が残っているが、この左座家は、さらに昔、左遷された菅原道真の子が隠れ住むためにやってきたのが起源といわれている。道真を左遷させた藤原一族は、道真の死後その子が立派に成長し一族に仇をなしてはまずいと、追っ手を放った。それを聞きつけるといち早く逃げ、ここに隠れ住み、それが左座家になったといわれている。素敵なわらぶき屋根のお屋敷が石垣の上にどんと構えている。
こんなところまでは、追っ手であっても行くの大変だ。私は現代人。車で行っても帰りが大変だった。神秘的な地域だ。
五家荘は、現代においてもなお秘境である。正確には五家荘という地名はない。八代市泉町仁田尾、同樅木、同椎原、同葉木、同久連子の5つの集落を総じて五家荘と呼ぶ。つまり通称なのである。5つの集落は落人たちの隠れ里である。椎原、葉木、久連子の3集落は平家落人の里だが、樅木、仁田尾は菅原家落人の里である。
五家荘を隠れ里として、先に逃げ込んできたのは菅原家落人である。周知のように、菅原道真は醍醐天皇(897~930)の昌泰2(899)年、右大臣となり遣唐使の廃止などを打ち出し、藤原氏の摂関政治に対抗した。
当時の政治構造は、摂政が藤原良房、関白が藤原基経、左大臣が藤原時平と、藤原一族で占められていた。そのなかにあって菅原道真が唯一右大臣として入閣。藤原政治の政策に異を唱えるのだから、藤原氏にとって面白いはずがない。次第に目の上のたんこぶとなっていく道真を、謀略で太宰府に左遷した。
当時の政治構造は、摂政が藤原良房、関白が藤原基経、左大臣が藤原時平と、藤原一族で占められていた。そのなかにあって菅原道真が唯一右大臣として入閣。藤原政治の政策に異を唱えるのだから、藤原氏にとって面白いはずがない。次第に目の上のたんこぶとなっていく道真を、謀略で太宰府に左遷した。
人跡未踏の秘境五家荘でも平家鬼山御前と源氏那須小太郎のロマンスが生まれた。その舞台となった柿迫岩奥集落 |
そのころの道真にはふたりの子供があった。菅宰相と菅千代丸の兄弟である。道真が延喜3(903)年に死去すると、菅原家家人は2人の兄弟に藤原氏の害が及ぶことを懸念、兄を左座(ぞうざ)太郎、弟を菅次郎と改名させ、仁田尾の奥地まで逃げ込んだ。それが延長元(923)年のことである。 その後左座氏は仁田尾を支配し、近世まで地頭として君臨してきた。一方、当初は別々に逃げていた弟も、兄に呼び寄せられたことで、仁田尾の隣の樅木集落に居住するようになった。
壇の浦合戦で敗れた平家が逃げ込んできたのは、菅原家から266年後の文治5(1189)年である。平家は倶利伽羅谷、一の谷、屋島と源氏に押され、ついに壇の浦で存亡を迎えた。
伝説によると、平家はこの壇の浦で全滅したことになっているが、実は全滅に見せかけ平家再興のために各地へ四散したという説がある。五家荘にもその伝説があるようだ。
五家荘で面白い話しを耳にした。全国の平家の落人村にはすべて「五箇」がついているとのこと。一例を上げると、島根県隠岐島の五箇村、京都府船井郡の五ヶ荘村、京都府峰山町の五箇村、滋賀県神崎郡の五箇荘町、岐阜県の五箇谷、岐阜県度合郡の五ヶ所町、福井県大野市の五箇村、富山県東礪郡の五箇山といった具合だ。
八代市泉町の五家荘も、室町時代から江戸時代までは五箇庄と書いていたらしい。それがいつの間にか五家荘に変わったというのだ。