20程前に大分県の国東半島を車で周遊した時に国東出身の日本人宣教師ペトロ・カスイ岐部(きべ)
(1587~1639年)の事を知った。
家内の実家は国東半島でこの半島には歴史的におもしろく貴重なものが点在している。
ペトロ岐部の人生は常人では真似られない生き方である。
この時代ペトロ岐部より先に「天正遣欧少年使節」や伊達政宗家臣の
「支倉常長ら一行」が欧州カトリックの総本山ローマに渡ったが
彼らは南蛮人の案内で往復した云わば「旅行」であるのにペトロ
岐部の日本~ローマ往復は「死(殉教)への冒険」であった。
1614年禁教令でマニラに国外追放されたペトロ岐部はマニラで神学を学んだ。
しかしイエズス会宣教師は「神の前の公平」を説いたが内心は日本人への差別心も
内包しており岐部がいくら勉強してもマニラでの「司祭」への道は閉ざされていた。
つまりイエズス会は日本での布教には積極的だが日本人信者を高位に昇格させる
予定は無かったという事だろう。
1618年岐部はマニラを出て「司祭」の資格を目指しインドのゴアに上陸。
そこから単独でパキスタン、イラン、イラク、ヨルダンを徒歩横断又は船に
水夫として乗り込みしエルサレムを巡礼し1620年ローマ市にたどり着く。
(日本人のエルサレム巡礼第一号は1906年の徳富蘆花と書かれた書物が多いが岐部は
その300年前に訪問している。)
ローマには「マニラの司祭」から「オペドロ岐部がローマに行くかも知れないが受け入れるな」
との回状が届いておりローマでの岐部の信仰、生活も危ぶまれた。
しかし岐部の情熱や人間性にカトリック上層部も目を止め、ついに岐部はローマで
司祭の資格を得た。
(つまりこの時期日本人宣教師の最高資格者となる)
しかし、その後も岐部の神への信仰心は揺るがない。
その後リスボンから海路 マニラに戻り「布教の最終地、日本」を目指す。
日本はすでに「鎖国」に突入していたがリスボンを出て8年後にの1630年
鹿児島県の坊津に岐部は隠密上陸(日本へは16年ぶりの帰国)する。
この当時の日本は最もキリスト教徒を弾圧した時代で先の少年使節の中浦ジュリアン
神父も殉教し、有名なフェレイラ神父も「背教」するなど「耶蘇禁教弾圧」の
最終的な仕上げ段階であった。
その後岐部は長崎から東北に活動の場を移し活動を続けたが密告され1639年に捕まる。
(宿主に迷惑をかけられず自ら捕まったとの説もある)
捕まった後の岐部の信仰の態度凄まじい。
フェレイラ神父はじめ殆どの者が一時にしろ「背教」を口にしたりしたが
岐部は一言も発せず背教したフェレイラ神父と対面した時も
「奉行所に背教を撤回し一緒に神の元へ参りましょう!」
と励ましている。
尚フェレイラ(沢野忠庵と改名)最終的にはこれを断っている。
岐部や信者への拷問の様子を徳川3代将軍家光も時おり観ていたらしい。
1639年7月4日穴吊りに処されたが最後まで棄教せずついに斬首され殉教した。
(岐部は数人の同じ穴吊りの信者達を励ましていたが岐部の斬首後、信者達はすぐ棄教した)
こう書いていると悲しくなるのだが岐部の凄まじい部分はエルサレム巡礼やローマでの
司祭叙階、日本への帰国、活動、殉教を全て完全に「自分の意思」で行なっている点である。
世界を一番歩き見聞もあった日本人の波乱に満ちた生涯ではあろうが、、、何か釈然としない。
(何処かの本かHPで日本のマルコポーロとう表現もありましたが。)
何故かペトロ岐部関連の書物は少なく私が読んだ本は
遠藤周作の「銃と十字架」松永伍一の「ペドロ岐部」の2冊くらいである。
残念ながら映画化もされてないようである。
ペドロ岐部はもっと多く日本人にも世界中の人にも知られていい。
その勇気に満ちた行動は今後もペドロ岐部を認識する多くの人を励ますだろう。
国東半島の国見町にあるペトロ岐部の立像は四国の方(東)を向いておらずローマ
(西)の方をみつめているという。
マザーテレサは死後6年で「福者」と既に聖人化しつつあるが
ペトロ岐部も死後400年近くを経て正式に「福者」となるようである。