島根出身の韓国抑留経験者が竹島研究顧問に証言
山陰中央新報 2007/07/05
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韓国が一方的に李承晩ラインを設定して竹島(韓国名・独島)を自国領に含めた2年後の1954年、ライン内で漁労したとして韓国側に拿捕(だほ)され、3年半にわたって抑留された松江市島根町出身の元漁船長、伊達彪さん(80)=山口県下関市=が2日、島根県の杉原隆・竹島研究顧問に、韓国軍艦が機関砲を連射し日本漁船を威嚇する生々しい拿捕の様子を初めて証言した。竹島問題への関心をより高めるため、島根県へ証言を申し出た。
伊達さんは54年7月19日早朝、ラインぎりぎりの対馬海峡で拿捕された。2隻1組で底引き網漁を操業中、霧の中をくぐり抜けるように韓国の軍艦が現れ、1隻に横付け。逃げることもできず、銃を持った2人の兵隊に促されて軍艦内へ移った。
もう1隻は間隙(かんげき)を縫って逃げたが、軍艦は別の2隻の日本漁船に狙いを定め、機関砲を連射。その発射音以上に伊達さんの背筋を凍り付かせたのが、隣にいた軍艦機関長の「これは皆殺しになりますよ」という言葉。結局、犠牲者は出なかったが「韓国が本気になっているのが分かった」という。
その後、釜山の刑務所に収監された際、取り調べの検事から「過去の例で、3カ月以上抑留された者はいない」という説明を受けたが、抑留生活は3年半に及んだ。
「韓国側が『ラインを認めなければ抑留者を帰さない』と迫ったのに対し、日本政府が認めなかったため抑留期間が長引いたのだと、帰国後に聞いた。私たちはラインの人質に取られていた」と憤りを語る。
ラインは65年に消滅したが、竹島周辺では現在も韓国側の実力支配が続くだけに「竹島問題の一端に、こうした悲劇があり、今も漁民が苦しんでいることを忘れないでほしい」と願う。
下関市を訪ねた杉原顧問は「抑留時の日記など貴重な資料も残っており、県の竹島資料室で展示したい」と話した。
李承晩ライン
1952年1月18日、韓国大統領・李承晩の海洋主義宣言により設定された漁船立ち入り禁止線。海洋資源保護のため、韓国付近の公海での漁業を韓国籍以外の漁船が行うことを禁止したが、狙いは竹島と対馬の領有主張にあった。韓国は日韓漁業協定の成立でラインが消滅する65年までに約300隻の日本漁船を拿捕し、4000人近くを抑留した。