神武天皇
イスラエル10支族の失踪と神武東征
『日本書紀』に記される日本神話の神武東征によれば、イワレヒコ(庚午年1月1日(西暦紀元前711年2月13日)誕生と推定される)は、西国の日向から東方へ遠征し、数多の苦闘の末に大和・橿原の地に到達して、辛酉年春正月庚辰朔(西暦紀元前660年2月11日と推定される)に即位し、初代天皇の神武天皇となったとされている。
この神話の暗喩を意味解くと、日本人の始祖は、日本列島よりも遥か西の地から出た民族であり、何らかの事情から、その地を離れ、安住の地を目指して東方へ移動し続けた結果、最後は日本に到達したと、以下の通り主張する者もいる。
神武天皇の誕生年は紀元前711年であるが、一方で、イスラエル10支族が失踪したのは紀元前721年と、その差は僅か10年となる。これらの事から、神武天皇=失われたイスラエル10支族を意味し、東征神話=イスラエルから日本へ達した彼らの旅路を示すものではないかというものである。
初代天皇 | |
綏靖天皇 | |
彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊 | |
玉依姫命 | |
媛蹈鞴五十鈴媛命 | |
手研耳命 岐須美美命 日子八井命 神八井耳命 綏靖天皇 | |
畝傍山橿原宮 |
神武天皇(じんむてんのう、庚午年1月1日(紀元前711年2月13日?) - 神武天皇76年[1]3月11日(紀元前585年4月9日?))は、日本神話に登場する人物で、日本の初代天皇である(古事記、日本書紀による)。
『古事記』では神倭伊波礼琵古命(かむやまといわれひこのみこと)と称され、『日本書紀』では神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)、若御毛沼命(わかみけぬのみこと)、狹野尊(さののみこと)、彦火火出見(ひこほほでみ)と称される。
天皇が即位した年月日は、西暦紀元前660年2月11日と比定される。これにより、2月11日は日本が建国された日として、明治6年(1873年)に祭日(紀元節)と定められた。紀元節は昭和23年(1948年)に廃止されたものの、昭和42年(1967年)には建国記念の日として、祝日とされた。
生涯
『古事記』にも神武天皇の物語があり、大略は同じだが遠征の経路などが若干異なる。『日本書紀』『古事記』の神武天皇の記述は東征が大部分を占めており、詳細は神武東征の項目も参照のこと。
東征の開始
神武天皇は即位前は神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)といい、彦波瀲武鸕鶿草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)の四男(または三男)である。生まれながらにして明達で、強い意志を持っていた。15歳のときに皇太子となり、長じて吾平津姫(あひらつひめ)を妃とし、息子の手研耳命(たぎしみみのみこと)を得た。
『日本書紀』によると、甲寅の歳、45歳のとき日向国の地高千穂宮にあった磐余彦は、兄弟や皇子を集めて「天孫降臨以来、一百七十九萬二千四百七十餘歲(179万2470余年。神道五部書のうち『倭姫命世紀』、『神祇譜伝図記』ではニニギは31万8543年、ホオリは63万7892年、ウガヤフキアエズは83万6042年の治世とされ、計は179万2477年となる。)が経ったが、未だに西辺にあり、全土を王化していない。
東に美しい土地があるという、青い山が四周にあり、その地には天から饒速日命が下っているという。そこは六合の中なれば、大業を広げて、天下を治めるにふさわしい土地であろう。よって、この地を都とすべきだ」と宣言した。諸皇子はみなこれに賛成した。
長髄彦との戦いと苦難
筑紫国崗之水門を経て、12月に安芸国埃宮に居る。乙卯年3月に吉備国に入り、高島宮の行宮をつくって3年又は8年滞在して船と兵糧を蓄えた。船団を出して速吸之門に来た時、国津神の珍彦(うづひこ)(宇豆毘古命)、後の椎根津彦(日本書紀。古事記では槁根津彦)を水先案内とした。
戊午年の2月、浪速国に至る。3月、河内国に入って、4月に龍田へ進軍するが道が険阻で先へ進めず、東に軍を向けて生駒山を経て中州へ入ろうとした。この地を支配する長髄彦が軍衆を集めて孔舎衛坂で戦いになった。戦いに利なく、五瀬命が流れ矢を受けて負傷した。磐余彦は日の神の子孫の自分が日に向かって(東へ)戦うことは天の意思に逆らうことだと悟り兵を返した。草香津まで退き、盾を並べて雄叫びをあげて士気を鼓舞した。この地を盾津と名付けた。
名草戸畔という女賊を誅して、熊野に経て、再び船を出すが暴風雨に遭った。陸でも海でも進軍が阻まれることを憤慨した兄の稲飯命と三毛入野命が入水した。磐余彦は息子の手研耳命とともに熊野の荒坂津に進み丹敷戸畔女 賊を誅したが、土地の神の毒気を受け軍衆は倒れた。
八咫烏の道案内と勝利
東征がはかばかしくないことを憂えた天照大御神は武甕槌神と相談して、霊剣(布都御魂)を熊野の住民の高倉下に授け、高倉下はこの剣を磐余彦に献上した。剣を手にすると軍衆は起き上がり、進軍を再開した。だが、山路険絶にして苦難を極めた。そこで、天照大御神は八咫烏を送り教導となした。八咫烏に案内されて、莵田の地に入った。
イスラエルの失われた10支族の異説
『日本書紀』の神武東征によれば、イワレヒコ(神武天皇)(庚午年1月1日(西暦紀元前711年2月13日)誕生と推定)は、西国の日向から東征し、数多の苦闘の末に大和・橿原の地に到達して、辛酉年春正月庚辰朔(西暦紀元前660年2月11日と推定)に即位し、初代天皇の神武天皇となったとされる。
この神話は、日本人の始祖が日本列島よりも遥か西の地から出た民族であること、事情により故郷を離れ、安住の地を目指して東方へ移動していって日本に到達したことを暗示する。
神武天皇の誕生年は紀元前711年だが、イスラエル10支族が失踪したのは紀元前721年と、その差は僅か10年である。これらにより、神武天皇=失われたイスラエル10支族を意味し、東征神話=イスラエルから日本へ達した彼らの旅路を示すという説もある。
失われた10支族の行方
イスラエルの12支族は、聖書の記述でも考古学による考察でも、北王国の10支族とユダヤ2支族とは完全に分かれてはいなかったことが明らかになっている。
聖書の記述によると、まず、シメオン族は早期にユダ族に吸収されており[1]、非主流の部族としてユダ王国内にあった。そして、エフライム族やマナセ族の一部はユダ族やベニヤミン族と共にエルサレムに居住し[2]、イスラエル王国は南北に分裂した後、アサ王の治世にエフライム族、マナセ族、シメオン族の者たちの多くはヤロブアム1世の北王国からユダ王国へと下ったともされている。
これらユダ王国内の非主流の部族は、バビロン捕囚の際に各部族としてのアイデンティティを失い、ユダヤ人(ユダ族、ベニヤミン族、レビ族)に同化した。さらに聖書においては、北王国滅亡後、唯一アシェル族に関しての詳細な記述が存在している。これは、虜囚にされなかったアシェル族の一部はユダヤ教に改宗し、ユダヤ人に同化していったことを意味している、とされている。
- 一部はアフガニスタンに暮らしている。
- 一部はインドのカシミール地方に暮らしている。またインド東部にはマナセ族の末裔と称するブネイ・メナシェという人々がいる。
- 一部はミャンマーに。
- 一部は中国に。
- 一部は日本にまでやって来たという説(日ユ同祖論)もある。六芒星などのマークが日本古来の籠目紋や麻の葉紋と似ていること、日本語の「帝(みかど)」の発音は古くは「ミガド」と発音され、古代ヘブライ語でガド族の王と云う意味(ミ・ガド)であることなどが、その根拠とされる。また、かつて北海道の先住民族アイヌ人は、周囲の諸民族とは異なる、そのヨーロッパ人的な風貌のために、古代イスラエル人の末裔だと思われていたこともあった。
- 一部は朝鮮に。日本に渡った10支族は朝鮮半島を経由した折りに、ダン族などの一部支族が定住したと言うものである。
- 一部は新大陸(アメリカ)に。ミシシッピ文化を作った民族・マウンドビルダーはアメリカ先住民の祖先であることが明らかになっているが、19世紀にはマウンドビルダーの正体は謎であり、アメリカに渡った10支族がこれらの遺跡を築いたマウンドビルダーなのではないかとする説もあった。
- 一部はスキタイに。後にスキタイの遊牧性を利用して、さらに東アジアへ向かったと言う説もあり、日ユ同祖論と繋げる説もある。