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三重県熊野市歴史民族資料館 半両銭 盗難事件 指名手配

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熊野市歴史民族資料館にあった半両銭は、なくなっていした。どこへ行ったのでしょうか?
 
熊野市歴史民族資料館を訪問させていただきました。

徐福伝説の物的証拠として価値のある「半両銭」が、熊野市歴史民族資料館の所蔵していると熊野市発行のガイドブックに書いてあります。

しかし、熊野市歴史資料館長に尋ねたところ
「10年前頃に熊野市歴史資料館から半両銭がなくなりました。なお、区長さんが保管しているらしい。」
とのことです。

半両銭は約2200年前に秦で使用された貨幣で、熊野で発見されるのは、とても貴重な文化財と思います。

熊野市歴史資料館所蔵の半両銭紛失または盗難に対する法的処置を含む適切な対応や、熊野の残されている、大陸からの貨幣などのアジアの歴史を考えるうえで貴重な証拠を回収されることを切に希望します。
 
半両銭で現在日本で発見されているのは、下記の例です。
(1)福岡県志摩町御床松原遺跡出土……1枚(前漢BC175年以降)
(2)福岡県志摩町新町遺跡出土 ……1枚( 〃 )
(3)山口県下関市武久浜墳墓群出土……1枚( 〃 )直径2.2cm
(4)山口県宇部市沖ノ山遺跡出土 ……9枚( 〃 )
(5)和歌山県熊野市波田須出土 ……7枚の内1枚現存(秦半両、秦の統一以降)直径3cm


徐福に確実に結びつくのは熊野市の波田須出土のものだけです。このことから考えるに、徐福の2回あった航海(前219年、前210年)の内、初回の航海での徐福船団の船がここに着いたのではないかと考えるのが合理的と思えます。

多分初回の航海で徐福は直接長江あたりから東の大海の中に向かい、黒潮や嵐のためその船団が海のもくずと消えたなかで、たまたまた波田須に辿り着く船があったのではないでしょうか。長粒種の稲の流れが、黒潮に沿って和歌山や徳島に着いたのもそのような理由ではなかったかと思われます。
 
 
連絡先  大阪水・土壌汚染研究会 アジア部会  atcmdk@yahoo.co.jp
 
三重県警察本部 熊野警察署
所在地電話
熊野市井戸町380
0597-88-0110

秦の始皇帝の命で、三重県熊野市の波田須にたどり着いた徐福を祀る「徐福の宮」&海の見える京都っぽいライブハウス天女座の地図

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秦の始皇帝の命で、波田須にたどり着いた徐福を祀る
「徐福の宮」

 
今から2200年以上前、秦の始皇帝が不老長寿の仙薬を熱望し、徐福にその入手を求めました。徐福は数十艘の船団を組み東方に向かって船出しましたが、途中台風に遭い徐福の船だけが、この地矢賀の里に流れ着いたと言われています。帰国を断念した徐福は永住を決意し、やがて窯を設け、焼物を教えたと言います。今も残る窯所、窯屋敷という地名はこのことを伝えています。
 この地に土木・農耕・捕鯨・医薬などの中国文明を広めたことから、当地では神として崇め手厚く祀ってきました。波田須の地名は、古く「泰住(はたす)」と記され、徐福の品が数々残っていることながら、徐福の渡来伝承が残る全国20カ所以上の中でも有力とされています。徐福の宮の境内には徐福の墓があり、宮の傍らには徐福が探していたとされる仙薬「天台烏薬」が茂っています。

<まめ知識>
 徐福の宮の参道修復中に数枚の古銭が発掘され、2002年に中国の学者が鑑定したところ、中国秦の時代の古貨幣「半両銭」と判りました。「半両銭」の出土は国内でも珍しく貴重なものです。








 住所:熊野市波田須町
 JR熊野市駅から車で国道42号を大泊方面へ国道311号を波田須方面へ約20分




駐車場 : 3台 無料

お手洗い : なし
 
 

■鉄道で
JR紀勢本線波田須(はだす)駅下車
徒歩10分or熊野市駅からタクシーで15分
名古屋発 南紀1号 8:15→11:00熊野市駅
       南紀3号 9:50→12:42(運転日注意)
       南紀5号10:50→13:41
       南紀7号12:50→15:43
       南紀81号16:50→19:45(運転日注意)
       南紀9号19:50→22:40
大阪からは近鉄で松阪に出てJRに乗り換えて波田須駅に。
又は、特急「くろしお」にて新宮へ。新宮から熊野市駅-波田須駅
■夜行バスで(東京から)
  大宮駅西口発20:45-池袋駅東口21:35-熊野市駅7:20着
  熊野市駅発20:40-池袋駅東口6:25-大宮駅西口7:10着
  詳しくはhttp://www.sanco.co.jp/exp/
■お車で   
東京・名古屋方面より
  名古屋ICで東名阪自動車道に乗り、亀山ICへ。
  関ICから伊勢道に入り、勢和多気ICで出て42号線に入り、南下。
  名古屋から勢和多気まで130キロ。 約1時間30分
  勢和多気から熊野まで110キロ。  約2時間
  42号線で大泊まで来て311号線に入り波田須町に。(約10分)
  波田須小学校の南側に天女座看板あり。
大阪方面より
  ルート1:松原JCTから西名阪自動車道で天理ICから名阪国道
  (R25)で関JCTへ。約103キロ。関ICからは名古屋ルートと同じ
  ルート2:西名阪香芝インターを出て吉野経由35号線から
  169号線→309号線 約4時間。
  熊野市駅方面からは新鹿海水浴場を目指して下さい。

CAFE
営業日
金・土・日・祝日(11:00~21:00) 冬季は20:00
MENU
酵素玄米定食、自然生(じねんじょ)うどん お飲み物各種など
OPTION
シュノーケリング、熱帯魚ツアー、熊野古道ウォーク、定置網体験
楯ケ崎遊覧、海釣り体験・・・ご相談下さい。

お問い合わせ・ご予約は

〒519-4207 三重県熊野市波田須町640-15

天女座HP/
 
 

天女座物語

シンセサイザー奏者の紫帆りんが三重県熊野市に永年の夢だった海一望の音楽ホール天女座を立ち上げました。そこから生まれる物語です

 
大正ロマンのノスタルジーにひたる
海の見える音楽ホール&カフェ
http://higashikishu.org/info/hanamaru.php?itemid=473
null
カフェの窓からは熊野灘が一望。岬にうちつける白波、キラキラと光る海面
空とつながる水平線を望む



大泊から海岸線沿いに国道311号を走ること約10分。
小道の先に海にせりだすかのように建つ大きな建物。

10年前、ヒーリングミュージックの音楽家である矢吹紫帆さんが、
この地に魅せられ移り住み、天女座をオープン。
元は自動車部品の製造工場だった建物が、1Fに音楽スタジオ、
2Fに約100畳の音楽ホールをもつカフェに生まれ変わった。

まちかど博物館でもあるカフェには、大正時代のピアノやオルガン、
チェンバロなど珍しい楽器が並ぶ。
矢吹さんの即興演奏がはじまることも。

 

ツシマヤマネコ

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ツシマヤマネコ

ツシマヤマネコ分類学名シノニム和名英名
Tsushima Cat 001.jpg
ツシマヤマネコ
:動物界 Animalia
:脊索動物門 Chordata
亜門:脊椎動物亜門 Vertebrata
:哺乳綱 Mammalia
:食肉目 Carnivora
亜目:ネコ亜目 Feliformia
:ネコ科 Felidae
亜科:ネコ亜科 Felinae
:ベンガルヤマネコ属 Prionailurus
:ベンガルヤマネコ
P. bengalensis
亜種:アムールヤマネコ
P. b. euptilurus
マンシュウヤマネコ
P. b. manchurica
変種:ツシマヤマネコ
Prionailurus bengalensis euptilurus
Elliot, 1871
Felis bengalensis euptilura
ツシマヤマネコ
Tsushima Leopard Cat (Leopard Cat)
 
 
 ツシマヤマネコ対馬山猫学名Prionailurus bengalensis euptilurus)は、ネコ目(食肉目)ネコ科に属する哺乳動物の一種。近年になって南アジアから東南アジアに分布するベンガルヤマネコPrionailurus bengalensisシノニム Felis bengalensis)の亜種であるアムールヤマネコP. b. euptilurus変種として位置づけられた。本亜種は日本では長崎県対馬にのみ分布する。
 
ツシマヤマネコの呼称
 ツシマヤマネコが属する亜種はアムールヤマネコとなる。分布域はモンゴル中国大陸北部、東シベリアアムール川流域)、朝鮮半島済州島、対馬となる。
 マンシュウヤマネコ(P. b. manchurica) またはチョウセンヤマネコと呼ぶこともある。その場合、これらのヤマネコのうち対馬に生息するものを特に「ツシマヤマネコ」と呼ぶことになるが、これは亜種のさらに下位グループとなるので、変種(地域個体群)扱いとなる。
 また、地元対馬の人々の間では、山に住むトラ毛に因み「とらやま」「とらげ」と呼ばれていた。地域によってはツシマヤマネコの餌となる動物が住む水田付近でも見かけられることから「田ネコ」「里ネコ」と呼んでいた。
 環境省2007年に公表した哺乳類レッドリストではPrionailurus bengalensis euptiluraで掲載されているが[2]、それ以前はFelis属に含められていた。

特徴

  • 体長:50~60cm
  • 体重:3~5kg
  • 寿命:8~10年
  • 生息数:80~110頭(2000年代前半)
  • 耳の裏に白色の斑点がある

絶滅の危険性と保護活動

 日本国内に分布するネコ類は、イエネコを除けば、対馬のツシマヤマネコと、西表島イリオモテヤマネコの2種のヤマネコのみである。1965年の劇的な発見と報道(毎日新聞、1965年4月15日)により全国的に知られるようになったイリオモテヤマネコと比べると知名度は劣るが、本種も同様に絶滅が危惧される希少動物である。
 1994年環境庁(当時)によって国内希少野生動植物種に指定されたが、哺乳類では長らくイリオモテヤマネコと本種の2種のみが指定種であった(2004年ダイトウオオコウモリアマミノクロウサギが、2009年オガサワラオオコウモリが指定され、現在は5種)。
 1971年には国の天然記念物に指定されているが、いまだイリオモテヤマネコと同じ特別天然記念物への指定はなされていない。
 一方、1998年の「哺乳類レッドリスト (環境省)」(当時は環境庁)発表以来、一貫して絶滅の恐れが最も高い絶滅危惧IA類(CR)環境省レッドリスト)とされている(イリオモテヤマネコは当初IB類であり、2007年よりIA類となった)。
日本地図.svg
Habitat map Tsushima Island.gif
ツシマヤマネコの生息地
 
 かつては、単に「山猫」と言えば、それは(野猫を指すことも多かったが、その場合を除けば)特にツシマヤマネコのことであった。
 「猿」と言えばニホンザル、「狐」と言えばアカギツネを意味したのと同様である。古くは200年ほど前の文献に「山猫」として記述されており、1902年頃までは、対馬全域に普通に生息していたと言われる。毛皮は利用価値が低かったが、肉は美味であり、島にはもっぱらヤマネコを狩る猟師も存在した。猟犬の導入による減少があったとも言われるが、1945年頃までは、山奥にはまだかなりの数が生息しており、山に入れば必ず目撃されたとされる。
 
 しかしその後、森林の伐採による営巣地の破壊に加え、林業の普及により本来の植生である広葉樹林照葉樹林そして混合林の伐採された跡に針葉樹の植林が進められたことや、山間部の耕作地の放棄が進んだこともあって、食物となるネズミや野鳥などの小動物が減少した(水路で獲れるウナギ等の魚を含む小動物が豊富であることから、また、外敵より子猫を守りやすいために、本種は特に育児期には、耕作地に出没することが多かった)。
 しかも対馬にはツシマテンチョウセンイタチといった競合者が多く、これらの動物はツシマヤマネコよりも雑食性が強いために、開発が進んだ環境にも強い。除鼠剤や農薬の使用がさらに追い討ちをかけ、近年は野猫野犬の増加がツシマヤマネコの生存環境をますます圧迫している。
 1996年には、野猫ないし野良猫から感染したと思われるFIV感染症(いわゆるネコエイズ)のツシマヤマネコが初めて発見されている。また、ニワトリ小屋を野猫などの被害から守るために農家が設置した罠(トラバサミ)によりケガをする個体も相次いでいる。さらに近年では、開発が遅れていた北部でも道路整備が進んだことで、交通事故により死傷するツシマヤマネコも増加している。なお、対馬にはツシマヤマネコの飛び出しに注意を促す道路標識がある。
 
 このような悪条件のもと、1970年代以前には約300頭、1980年代には100-140頭と推定されていたツシマヤマネコは、1990年代の調査では90-130頭、2000年代前半の調査では80-110頭にまで減少した。
 
 環境庁(現・環境省)は1997年に対馬北部の上県町対馬野生生物保護センターを開設し、ツシマヤマネコなどの生態調査、交通事故被害やFIV感染した個体の保護、住民への環境教育や啓発活動などを行っている。
 対馬南部(下島)での生息について映像や個体等の明らかな確認は、1984年の交通事故で死亡したと考えられる個体の発見以来、長らく途絶えていた。このことからも本種の野生個体がいかに減少しているかが窺える。しかし、2007年3月2日に南部で成獣が撮影され、5月8日に環境省が南部での23年ぶりの生息確認を発表した。
 
 また、福岡市動植物園では、ツシマヤマネコの人工繁殖が試みられている。2000年2001年にそれぞれ1頭の子ネコが誕生しており、その後も同園では多くの子ネコが誕生し飼育されている。
 2004年3月から、加齢のため野生に帰せず繁殖もできないオスとメスの個体それぞれ1頭を一般公開している。さらに、環境省は2006年9月、飼育を分散し繁殖を目指すことにし、新たに井の頭自然文化園よこはま動物園ズーラシアにオス・メス1頭ずつを移送し飼育し繁殖を試みている。
 分散飼育の目的は感染症や災害等発生時のリスク回避、および遺伝的多様性の維持である。その後、2007年11月に、富山市ファミリーパークにも個体を移動し、分散飼育を実施した。
 
 このほか、国指定鳥獣保護区の設置など生息地の保全措置、地元自治体やNPOによる保護啓発活動が行われている。
 2004年10月には、インターネットオークションにツシマヤマネコの剥製を出品した男性と、これを落札して譲り受けた中学生とその父親が、種の保存法違反容疑で、長崎県警から長崎地検に書類送検されている。
  
 2009年12月28日午後、対馬市下島(しもじま)・厳原町小浦(いづはらまちこうら)の九電工対馬営業所敷地内で同年春生まれと思われる亜成獣のオス(体重 1130g)が保護され、対馬野生生物保護センターに運ばれた。
 2011年12月24日から25日にかけて、対馬市内の調査員が下島の山中において生体動画の撮影に成功した。下島では、2007年以降2回の静止画撮影には成功しているが、動画撮影されたのは今回が初となる 。

保護の歴史

  1949年 非狩猟鳥獣に指定され、狩猟禁止。 1971年 国の天然記念物に指定。 1985年 「ツシマヤマネコ第一次生息特別調査」実施(~1987年)。 1989年 国設伊奈鳥獣保護区設定、保護事業開始(長崎県に委託)。 1991年 環境庁「レッドデータブック」で「絶滅危惧種」に評価される。 1993年 「ツシマヤマネコを守る会」結成。 1994年 種の保存法(1992年)に基づき、「国内希少野生動植物種」に指定。「ツシマヤマネコ第二次生息特別調査」実施(~1996年)。環境庁が長崎県に委託。 1995年 「ツシマヤマネコ保護増殖事業計画」告示。環境庁・林野庁ともに事業開始。
 
 
 1996年 FIV(ネコエイズ)感染個体が発見される。 1997年 上県郡上県町(現在の対馬市上県町)に「対馬野生生 物保護センター」開所。「ツシマヤマネコ第二次生息特別調査」調査結果発表。
 1998年 「ツシマヤマネコ保護増殖事業連絡協議会」設置。環境庁の新レッドリストで「絶滅危惧IA類」に評価される。
 2000年 福岡市動植物園において初の子ネコ(メス)が誕生。 2001年 福岡市動物園において2匹目の子ネコが誕生。
  2002年 「ツシマヤマネコ第三次生息特別調査」実施(~2004年)。 2003年 対馬野生生物保護センターにおいてFIV感染個体(愛称・つしまるくん)の一般公開開始。
 
種の保全状態評価

ツシマヤマネコ公開展示施設

 日本の施設では35頭(オス19頭、メス16頭)のツシマヤマネコが飼育されている(一時的な保護を含む。2012年3月30日時点)。そのうち公開展示している施設は次の10施設(2012年4月28日時点)。
 なお、井の頭自然文化園(飼育頭数 5頭。公開されているトラジロウの他に、非公開のサクラ(メス)、リリー(メス)、フクタ(オス)、キイチ(オス)の4頭を飼育している )のように複数飼育している施設でも全頭数を公開しているわけではない。
 非公開の個体は繁殖を目的に飼育しており、また、施設で繁殖した個体を野生に戻すことも目的としているので、人に慣れさせないために非公開としている。

[転載]元寇における高麗について

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http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/7f/00/sa341gazelle/folder/526905/img_526905_5209517_0?20121010055637

1272年、元に入朝していた高麗の世子タンは、元の大ハーンであるフビライに対して以下のように進言しました。

『吾が父子、相い継ぎ朝覲し、特に恩宥を蒙り、小邦の人民は、遺しょうを保つを得たり。感戴の誠は、言うは不可なり。既にタンは連年入覲し、毎に皇恩を荷い、区区の忠は、益々切に效を致す。惟だ彼の日本のみ、未だ聖化を蒙らず、故に詔使を発し、継いで軍容を耀かし、戦艦・兵站は方に須むる所在り。儻し此の事を以って臣に委ぬれば、勉めて心力を尽し、小しく王師を助くるに庶幾からん』
(『高麗史日本伝』 武田幸男・編訳 岩波書店)

文永の役はこの2年後です。
何故、高麗王朝はこれ程まで積極的に元の日本侵略に協力しようとしているのでしょうか?
その理由を知るには、元と高麗王朝の関係を知る必要があります。

1231年にモンゴル軍が朝鮮半島に攻め込んだ時、高麗王朝は傀儡に過ぎず、実権は武臣の崔氏に握られていました。
崔氏はやむなくモンゴルに降伏し、朝鮮半島には72人の「ダルガチ」と呼ばれる代官が配置されることになりましたが、「文明先進国」を自任する高麗には、夷狄であるモンゴルに臣従することは我慢できませんでした。
そのため、崔氏は首都を開京から漢江河口に浮かぶ江華島に移して自分たちの安全を確保すると、ダルガチを全員殺害してモンゴルに叛旗を翻したのです。
1232年、報復のために高麗に侵攻したモンゴル軍は、江華島の武臣政権に降伏を迫りましたが、それが受け入れられないとわかると、その横を素通りして朝鮮半島全土を約30年間にわたって蹂躙しました。
江華島の王族や武臣たちが贅沢な暮らしや盛大な祭事にかまけている間に、朝鮮半島はモンゴル軍の略奪と殺戮によって、「骸骨野を覆う」という惨状と化しました。
これが歴史書などで「高麗の官民が一体となってモンゴル軍に激しく抵抗した」とされている期間です。

http://img.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/7f/00/sa341gazelle/folder/526905/img_526905_5209517_0?20060519085259.gif

1254年からのモンゴル侵攻における高麗の被害は、捕らえられた男女20万6800余人、殺された者は数知れずという甚大なものとなり、1258年、遂に江華島でクーデターが起こって崔氏は滅亡します。
江華島の実権を握った金俊を中心とする武臣たちは降伏を決断し、翌1259年に高麗王朝の世子テンをモンゴルに入朝させました。
この年はモンゴル帝国内においても大ハーンのモンケが死去し、その後継者の地位をフビライとアリク・ブケという2人の有力者が狙うという激動期でした。
こうした状況の中、世子テンは襄城郊外でフビライに謁見して支持を表明し、その武力を借りて高麗の権力を武臣たちの手から王室に取り戻すことを決意します。
1260年、テンは今まで散々高麗を蹂躙してきたモンゴル軍に守られて帰国すると、第24代高麗国王に即位して元宗となりました。

1264年にアリク・ブケとの内乱に勝利して大ハーンの地位を確固たるものにしたフビライは、1271年にモンゴル帝国の国号を「元」と定めました。
一方の元宗は元の威光を背後に王政復古を進め、1270年に江華島から開京に遷都し、それを不服とする武臣たちの最後の抵抗「三別抄の乱」もモンゴル軍の支援によって鎮圧します。
武臣たちを排除した高麗王朝は、朝鮮半島を支配していくために、元の軍事力に大きく依存していました。

1274年の文永の役の直前に元宗が死亡すると、フビライに日本侵略を進言した世子タンが忠烈王として第25代高麗国王に即位します。
忠烈王の「忠」は元朝に対する忠誠を示すもので、この後、第30代忠定王まで高麗国王の名前には最初に「忠」の字が付くことになります。
文永の役は元・高麗連合軍の大敗に終わりましたが、日本から拉致された童男童女200人は戦利品として忠烈王に献上されました。
モンゴル皇族の妻を娶り、服装や髪型をモンゴル風に改めた忠烈王は、更に元朝に接近して自らの地位を高めるために、「日本侵略」というカードを徹底的に利用しました。
1278年にはフビライに対して次の日本侵略を進言。

『日本は一島夷のみ、険を恃みて庭せず、敢えて王師に抗す。臣自ら念うに、以って徳に報ゆるなし。願わくは、更に造船・積穀し、声罪・致討して、蔑てて済わざらんことを』
(『高麗史日本伝』 武田幸男・編訳 岩波書店)

こうして行なわれた1281年の弘安の役において、対馬・壱岐の住民に対する殺戮の中心となったのは、高麗の兵士たちでした。

『其中に高麗の兵四五百船、壱岐、対馬より上りて、見かくる者を打ころし、らうせきす、國の民ささへかねて、妻子を引具し、深山に逃かくる、さるに赤子の泣こえを聞つけて捜りもとめて捕らえけり』
(『八幡ノ蒙古記』)

元寇で被害にあった地域には、その際の残虐行為の代名詞として「ムクリコクリ」という言葉が今でも残っているそうです。
「ムクリ」は蒙古、「コクリ」は高麗の訛ったものです。
当時の日本人の認識では、モンゴル兵と高麗兵はまったくの同罪でした。
弘安の役で日本に襲来した元軍の内約2000人が捕虜となりましたが、鎌倉幕府は仕方なく参加させられた旧南宋出身の兵については助命したものの、高麗兵はその他のモンゴル兵などと一緒に全員処刑しています。

この後も高麗の忠烈王はフビライに対して、日本侵略をしつこく唆し続けました。

『高麗国王、自ら船一百五十艘を造り征日本を助けんことを請う』
(『旧唐書倭国日本伝・宗史日本伝・元史日本伝』 石原道博・編訳 岩波書店)

元寇において高麗が消極的であったかのような大嘘を吹聴し続ける歴史家がいることは悲しいことです。

転載元: 元寇の真実

[転載]長崎県の漂流・漂着ごみ(海岸漂着物)対策

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長崎県の漂流・漂着ごみ(海岸漂着物)対策
   本県の海岸においては、毎年多くのごみが漂着し、景観、自然環境、水産資源等への影響が深刻な問題となっています。

   このため、平成21年7月に制定された海岸漂着物処理推進法に基づき、海岸漂着物等の処理対策について「長崎県海岸漂着物対策推進計画」を策定し、国、市町、民間団体等と連携を図りながら海岸漂着物の回収処理や発生抑制対策など、総合的な海岸の環境の保全を図ることとしております。 対馬市海岸における漂着ごみの一例
対馬市海岸における漂着ごみの一例


漂流・漂着ごみを発生させないために

   海岸漂着物を削減するためには、ゴミそのものの削減やポイ捨てをしないこと等が重要です。 河川や海岸付近でゴミや物などが飛散して河川や海に流れ込まないように注意しましょう。
              

危険物を発見した場合の対応

   注射器等の医療系廃棄物や発炎筒、液体が入っている廃ポリタンク等の危険物を発見したときは、 絶対に触れることなく、県(廃棄物対策課、県立保健所)又は市町へ連絡してください。



海岸漂着物の違法焼却(野焼き)の原則禁止について

   廃棄物処理法第16条において、「何人も、みだりに廃棄物を捨ててはならない。」と規定されており、違反者には厳しい罰則が科せられます。
  また、廃棄物の野焼きも一部の例外を除き禁止されており、違反者には不法投棄同様、厳しい罰則が科せられます。



長崎県の国際協力

   平成22年3月に長崎県平戸市において、海岸漂着ごみ問題に係る「2010 NOWPAP 国際海岸クリーンアップ(ICC)と海洋ゴミ管理ワークショップ」が開催されました。
○日程等:平成22年3月26日 海洋ごみ管理ワークショップ(平戸市田平町サムソンホテル)
              平成22年3月27日 海岸清掃(平戸市田の浦海岸)
○参加者:環境省、外務省、国土交通省、長崎県、平戸市、地域住民、日本・ロシア・韓国・
              中国の大学、NPO等関係者
○主 催:国際連合環境計画(UNEP)、北西太平洋地域海行動計画(NOWPAP)、地域調整部(RCU)
○後 援:外務省、環境省、国土交通省、長崎県、平戸市 等



日韓海峡海岸漂着ごみ 一斉清掃について

   日韓海峡海岸沿岸の8県市道では共同交流事業の一環として、市町、住民、民間団体の協力を得て、昨年度に引き続き、一斉清掃を実施しました。

 ○ 日韓8県市道の取組
   (日本側:山口県、福岡県、佐賀県、長崎県)
   (韓国側:釜山特別市、金羅南道、慶尚南道、済州特別自治道)


<統一スローガン>「みんなで守ろう 日韓海峡の未来へつなぐ 美しい海」

 期    間 5月31日(火)「韓国・海の日」~7月18日(月)「日本・海の日」        

 実施内容 8県市道内の日韓海峡の海岸の一斉清掃、啓発活動の実施



 ○長崎県の取組(実績)

 
 期   間 5月31日(火)~7月18日(月)
 
 実施内容 期間中に県内で一斉清掃を実施
         ・実施箇所 41箇所(10市、4町)
         ・参加人数 9,470人
        街頭キャンペーンでの啓発活動
         ・漂着ごみパネル展示、アンケート実施等

 主な取組 6月 4日 環境月間街頭キャンペーン(長崎市浜町ベルナード観光通)
        6月17日 小中高合同海岸清掃活動(佐世保市宇久町)
        7月10日 町内一斉海岸清掃(小値賀町)
        7月16日~18日
               海の日にちなみ県内各地で海岸清掃を実施
                (長崎市、松浦市、西海市、新上五島町等9市町)




リンク

○環境省(漂流・漂着ごみ対策)
 ・海岸漂着物処理推進法
 ・漂流・漂着ごみに係る国内削減方策モデル調査
 ・日本海岸沿岸地域等への廃ポリタンクの大量漂着について
 ・環境省パンフレット「漂着ゴミについて考える。私たちの海を守るには?」(A4版)など
○長崎県土木部「ながさきの水辺」
○長崎県水産部「ゆめとびねっと」
http://www.pref.nagasaki.jp/kankyo/waste/sangyo/hyochaku.html
 
 
 
 
 
 
漂着ごみ(長崎大学環境科学部)
 

転載元: 日本の海が安全で美しくあれ(尖閣・竹島・対馬・水俣・徳山・福島)

[転載]日本海沿岸域の漂着ゴミの

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漂着ごみ>種類と回収量
日本海沿岸域の広い範囲で行われた漂着ゴミの調査によると、漂着するゴミのうち人工物のプラスチック類が、全体の約6割を占めています。
また、ゴミの起源(国籍)については、ゴミのうち半数は国籍が不明でしたが、全体の5%が外国製のゴミであり、韓国、台湾からのゴミが多くみられました。これらは、対馬海流に流され、日本海各地の海岸へ漂着していると考えられます。
海は世界とつながっているため、遠い外国の海に捨てられたゴミは、長いあいだ海をただよって、日本海沿岸に漂着します。
調査地点位置地点名
漂着ゴミの組成別重量比率
漂着ゴミの組成別重量比率
 
ここで言う漂着ゴミの重量は、日本海沿岸の32海岸それぞれに設定した調査範囲
(1箇所10m四方の範囲で2~3箇所/1海岸)を対象に、延べ76回(延べ面積20,454㎡)行った調査で採取した
漂着ゴミの合計重量を表したものです。
資料:「2007年度 海辺の漂着物調査結果(データ集)抜粋」(平成20年6月:財団法人環日本海環境協力センター)
 
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人工物の組成別重量比率
人工物の組成別重量比率
 
ここで言う漂着ゴミの重量は、日本海沿岸の32海岸それぞれに設定した調査範囲
(1箇所10m四方の範囲で2~3箇所/1海岸)を対象に、延べ76回(延べ面積20,454㎡)行った調査で採取した
漂着ゴミの合計重量を表したものです。
資料:「2007年度 海辺の漂着物調査結果(データ集)抜粋」(平成20年6月:財団法人環日本海環境協力センター)
 
漂着ゴミの国籍別割合
調査地点位置
No.調査海岸名
1めがね岩海岸
2瀬波海岸
3井鼻海岸
4名立海岸
5椿尾海岸
6岩谷口海岸
総ゴミの国籍区分
外国製ゴミの国籍別割合
ゴミ数の種類別区分
海底地形>地形
 
 日本海は、サハリン、日本列島、ロシア沿海州、朝鮮半島にかこまれた海域で、中央部が海盆状に深く(最深部:3,796m、平均水深:1,350m)なっており、日本海の最も幅のあるラインは、北陸地方と沿海州を結ぶラインとなっています。
 東北地方沿岸域の海底地形は、信濃川や阿賀野川などの河川由来の堆積層で形成された、狭く長い大陸棚が発達しています。佐渡島から北方向には佐渡海嶺が伸び、その西側には広大な大和海盆が広がっています。
 北陸地方沿岸域の海底地形は、富山湾が急深な地形となっています。また、富山湾では多くの溺れ谷の地形がみられ、複雑な海底地形となっています。
若狭湾は入り組んだリアス式海岸となっており、複雑な海岸線となっています。
 中国地方沿岸域の海底地形は、深い大陸棚が発達していることが大きな特徴です。隠岐諸島東側には日本列島と平行に3列の大きな棟状地形が並び、その間には隠岐舟状盆地や東北地方の沖合から南へ伸びている大和海盆へつながっています。隠岐諸島から北側に伸びる隠岐海脚の先には、広大な対馬海盆が広がっています。

※海盆とは、円形ないし楕円状などの形をした海底の窪地。
日本海沿岸の地形
資料:第九管区海上保安本部
海流
 
対馬海流は、東シナ海から対馬海峡を越え、日本海を日本列島沿岸に沿って北へ流れる暖流で、日本海沿岸地方の気候に大きな影響を与え、冬は比較的温暖で降雪の原因となります。その流れ方は、時期により、比較的直線的に流れる場合と、大きく蛇行しながら流れる場合とがあると考えられています。
対馬海流の流れは、日本列島沿岸域及び日本海中央部で強くなる傾向がみられ、その間では、大きく渦を巻くような流れが形成されやすくなっています。
対馬海流(暖流)に対して、リマン海流(寒流)が日本海の北部からシベリア沿海州沿いに南下し、朝鮮半島の東岸に達しています。
 日本海の海流図 
 日本海の海流図 
 日本海の海流図 
 日本海の海流図 
資料:「水産学シリーズ 5 対馬暖流 海洋構造と漁業」
(昭和49年5月、株式会社恒星社厚生閣)
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漂流・漂着ごみ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
不法投棄された漁網に絡まってしまったウミガメ
漂流・漂着ごみ(ひょうりゅう・ひょうちゃくごみ、: Marine Litter)とは、海洋を漂流しているごみ及び海岸に漂着したごみの総称である。「海ゴミ」とも呼ばれる。
 
 
概要
 正確な実態の把握はなされていないものの海洋には無数のごみが漂流していると考えられており、それらの一部は海岸に漂着して沿岸地域への被害をもたらしている。環日本海環境協力センターの調査によれば日本の海岸に漂着するこれら漂流・漂着ごみの総量は年間約15万トンと推定され、また全体の6%程度が日本以外の海外由来と推定されている。
 これら漂流・漂着ごみの構成は多岐にわたっているが、主に漁業活動から発生するごみ(魚網発泡スチロール製のウキなど)や、側溝河川などを経由してに流れ出た生活系のごみ(主にペットボトルなどの一次的な製品、または使い捨てを前提とした包装容器類)などから成っている。その実態は、国際的な調査やモニタリングを通して明らかにされつつあるが、すでにごみとして流出しているものをどうするか、今後ごみを発生させないようにするにはどうするか(発生抑制)の両面を考える必要から、対応策がままならないのが実情となっている。
 近年日本海沿岸や東シナ海沿岸では、簡体字ハングルロシア語で商品名等が標記された中国韓国ロシアなどから排出されたと推察されるごみの漂着が増加している。特に離島はどこも、おびただしい量のごみが漂着しており、その被害は益々深刻化している。特にハングルの書かれたポリ容器には、塩酸などの劇薬が残留しているものもあり、深刻な問題となっている。越境大気汚染と比べ、国際協力や海洋汚染に関する行動は著しく低い。
 2002年のOECD環境保全成果レビューでは近隣諸国や沖合いの船舶からの排出物は日本周辺の汚染原因になっている可能性を指摘、国境を超えた汚染物質の運搬量についての評価も行われておらず、地域毎の調査が必要であると結論付けている。

被害

 一方、日本不法投棄されるなどして流出したものと見られるゴミが海流に乗ってハワイミッドウェーなどの太平洋諸島アメリカ西海岸などに流れ着き、アホウドリなどの野生動物を殺傷する一因になっていることが以前より問題になっている。プラスチック類は消化できず、生分解しにくいため、海洋生物が漂流ごみを誤食してしまう(こういった不法投棄には、毒物や有害物質が多分に含まれているので危険)ことや、海底に沈んだゴミが分解されずに残ってしまうことで深刻な問題を引き起こしている[1][2]
 日本、韓国、中国のゴミは黒潮に乗りハワイ沖からアメリカ西海岸から南下、反転して西に転じ、再び黒潮に入る。冬には一部が南下し、石垣島宮古島に大量のゴミを運ぶ。
 「ポイ捨て」などと呼ばれることも多いが、その実態は不法投棄に端を発するものであり、いずれの国においても、重大な社会問題となっている。また、国境を超え得ることから国際問題としても認識される。
近年この問題が顕在化したことを受け、日本、韓国、中国およびロシアの政府により 会合が持たれ、対策が検討されはじめるとともに、日本国内から排出されるゴミへの対策についても協議が持たれている[3] [4]
量的にかさばる発泡スチロール等については、リモネンで溶かしたり、原料に戻す(石油に変える)などの試みも行われているが、基本的に海ゴミについては、(1)塩分・水分・付着物が多い、(2)そのため炉を傷める可能性があり、焼却処理にも不向き、(3)汚れが激しく絡まった状態の場合が多い、といった理由により、分別・リサイクルは困難とされる[5]
 2006年の海岸漂着ごみの個数調査においてうち最も多かったのはタバコの吸殻であり、海岸漂着ゴミの12.8%となっている(陸起源の漂着ごみのみを総計した場合の割合としては27%にのぼる)。次点は元の製品が不明な硬質プラスチック破片となった[6]
 
外部リンク
 
 
 
 
 http://img.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/77/41/atcmd2006/folder/1076457/img_1076457_49684502_3?20100308065758

転載元: 日本の海が安全で美しくあれ(尖閣・竹島・対馬・水俣・徳山・福島)

生活保護、外国人受給世帯4万超 国籍別、韓国・朝鮮人が3分の2占める

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生活保護、外国人受給世帯4万超 国籍別、韓国・朝鮮人が3分の2占めトップ
2012.10.8 09:00
外国人の登録者数と生活保護受給世帯数
外国人の登録者数と生活保護受給世帯数【拡大】
  • 国籍別生活保護受給世帯数
 今年度の生活保護費が当初予算で3兆7千億円に達し、不正受給に対する厳罰化など給付適正化の議論が進む中、生活保護を受けている外国人の世帯が4万世帯を超え、過去最多を更新したとみられる。日本に永住、在留する外国人の数は横ばい傾向だが、新たに生活保護を受ける外国人世帯は増加している。
 厚労省によると、平成22年7月現在、外国人の生活保護受給世帯は4万29世帯で、前年同期約5千世帯増加した。
 昭和32年から始まった世帯別の統計では、41~61年は外国人の統計が残っていないものの、外国人受給者の推移などから、これまでに4万世帯を上回ったことはないと推定され、22年に過去最多を更新したとみられる。
 外国人が世帯主の受給者数は6万8965人(22年平均)だった。
 法務省の統計では、日本に永住、在留する外国人は215万人前後で、ほぼ横ばいで推移。平成17年から20年までは年約1千世帯のペースで受給世帯が増加していたが、21年に前年同期比約4千世帯増。近年は特に増加傾向が加速している。
 国籍別では、韓国・朝鮮人(2万7035世帯)が全体の3分の2を占め、次いでフィリピン人(4234世帯)、中国人(4018世帯)と続いた。
 
 
 
 
税金が外国人の生活保護費に… 帰国しない来日受給者、際限なき膨張
外国人の登録者数と生活保護受給世帯数
外国人の登録者数と生活保護受給世帯数【拡大】
  • 国籍別生活保護受給世帯数
 人道的支給、重荷に
 生活保護は生活困窮者に最低限度の生活を保障する“最後のセーフティーネット”。しかし、膨大な保護費は国家財政を圧迫しており、政府は働ける受給者に就労や自立を求めたり、不正受給への罰則を強化したりするなど、保護費抑制方針を打ち出している。そうした中で、増加を続ける外国人受給者。専門家は「税金が外国人の生活保護費に回り、際限なく増えている現状は問題だ」と指摘する。
 単純労働→失業…
 本来、生活保護の対象は生活保護法で日本国民に限定されている。
 しかし昭和29年、当時の厚生省が外国人の生活困窮者に同法を準用すると通知して以降、永住や日本人配偶者など在留資格を持つ外国人にも人道的見地で支給されてきた。
 近年増加傾向が目立つのが、1980年代以降に来日した「ニューカマー」と呼ばれる外国人だ。平成22年7月現在、中国人の受給世帯は4018世帯(前年同期比664世帯増)、ブラジル人は1455世帯(同516世帯増)に上る。「単
純労働目的で入国し、失業後に生活保護を受給する外国人が増えている。本国に帰りたいという人は少ない」。政令市の担当者はこう打ち明けた。
  • 2ページ  3ページ

[転載]外国人生活保護受給世帯が4万世帯を超え平成22年に最多更新、韓国・朝鮮人が全体の3分の2を占め年金未加入の在日外国人は生活保護受給予備軍で生活保護は増加する、外国人生活保護は国籍国へ日本は廃止すべきだ

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良識ある日本国民の皆様には、平成22年7月現在の外国人生活保護受給世帯が過去最多を更新したとみられることはご存知だと考えます。
 
外国人受給世帯4万世帯超 22年に最多更新
 
今年度の生活保護費が当初予算で3兆7000億円に達し、不正受給に対する厳罰化など給付適正化の議論が進む中、生活保護を受けている外国人の世帯が4万世帯を超え、過去最多を更新したとみられることが30日、厚生労働省への取材で分かった。日本に永住、在留する外国人の数は横ばい傾向だが、新たに生活保護を受ける外国人世帯は増加している。

 厚労省によると、平成22年7月現在、外国人の生活保護受給世帯は4万29世帯で、前年同期約5000世帯増加した。昭和32年から始まった世帯別の統計では、41~61年は外国人の統計が残っていないものの、外国人受給者の推移などから、これまでに4万世帯を上回ったことはないと推定され、22年に過去最多を更新したとみられる。外国人が世帯主の受給者数は6万8965人(22年平均)だった。

 法務省の統計では、日本に永住、在留する外国人は215万人前後でほぼ横ばいで推移。平成17年から20年までは年約1000世帯のペースで受給世帯が増加していたが、21年に前年同期比約4000世帯増。近年は特に増加傾向が加速している。

 国籍別では、韓国・朝鮮人(2万7035世帯)が全体の3分の2を占め、次いでフィリピン人(4234世帯)、中国人(4018世帯)と続いた。
10月1日産経新聞
http://sankei.jp.msn.com/life/news/121001/trd12100100390001-n1.htm
 
>生活保護を受けている外国人の世帯が4万世帯を超え、過去最多を更新したとみられることが30日、厚生労働省への取材で分かった
 
ネットの掲示板では、平成22年度に外国人生活保護受給世帯が過去最多を更新したことについて、「なんで我々の税金を外国人に使っているんだ!」など、怒りの声が上がっています。
 
生活保護を受け取る外国人4万世帯にネット住民激怒!

22年度に外国人の生活保護受給世帯が4万世帯という過去最多の受給を突破したことについてネット住民からは怒りの声があがっている。

今年度の生活保護費用は3兆7000億円。不況に苦しむ日本の中で「なんで我々の税金を外国人に使っているんだ!」と怒りの声が噴出している。

厚生労働省によると平成22年7月、外国人の生活保護受給世帯は4万29世帯で昨年よりも5000世帯増加。国籍別に見ると韓国・朝鮮人が2万7035世帯と約3分の2を占めている。

この現状に一部のネットユーザーは某巨大掲示板で怒りを爆発させた。

・なんで外国人に払うんだよボケ
・なぜ国が外国人の面倒みなきゃいけないの?
・4万世帯浮いたら社会保障に突っ込めるよね
・なぜ外国人まで生活保護を払ってやらないかんのだ。国へ帰ってもらえよ
・こんな素敵な制度があったら帰国するわけないよなー

などと批判的な意見が多く埋め尽くされていた。
 
たしかに今の日本のこの制度は諸外国では例を見ない制度でありコメントにも「素朴な疑問なんだけど諸外国で難民以外に他国籍民にナマポ(生活保護)与えてる国って存在するの?」と疑問を投げかけている。外国人の生活保護受給が4万を突破し3兆7000億円もの税金が投入されるというこの日本の甘い汁制度。他国から見たらうらやましいかぎりなのではないだろうか?
10月01日ガジェット通信
http://news.livedoor.com/article/detail/7005047/?utm_source=m_news&utm_medium=rd
 
>日本に永住、在留する外国人の数は横ばい傾向だが、新たに生活保護を受ける外国人世帯は増加している
 
在日外国人の生活保護受給世帯で増加傾向が目立っているのは、1980年代以降に来日した「ニューカマー」と呼ばれる外国人です。
 
平成22年7月現在、中共人の受給世帯は4018世帯で、前年同期比で664世帯も増加をしました。
 
また、全体の3分の2を占める韓国・朝鮮人の中には、国民年金未加入者が少なくないために、老後を生活保護に頼ることが多いのです。
 
>厚労省によると、平成22年7月現在、外国人の生活保護受給世帯は4万29世帯で、前年同期約5000世帯増加した
 
この1年で外国人の生活保護受給世帯が5000世帯も増加したとは、異常な状況です。
 
厚労省によれば、この10年あまりで在日外国人の生活保護受給者数は2倍以上に伸びています。
 
在日外国人生活保護受給世帯数は、2009年度時点で3万5035世帯でしたが、2007年度と比べると約5000世帯も増加をしていました。
 
この2年間だけを比較しても、約16%も増加をしていました。
 
そして、2010年度7月の在日外国人の生活保護受給世帯は4万29世帯となり、前年同期より約5000世帯も増加をしたのです。
 
生活保護受給世帯数の増加比率では、日本国民よりも在日外国人の方が高いということです。
 
そして、在日外国人の生活保護受給世帯の世帯主は、約70%が韓国・朝鮮籍です。
 
2007年度の外国人生活保護受給世帯数の国籍
 
1位:韓国・北朝鮮 22,918世帯
2位:中共      2,960世帯
3位:フィリピン   2,639世帯
 
2009年度の外国人生活保護受給世帯数の国籍
1位:韓国・北朝鮮 24,827世帯
2位:フィリピン   3,399世帯
3位:中共      3,354世帯
 
2010年度(7月現在)の外国人生活保護受給世帯数の国籍
1位:韓国・北朝鮮 27,035世帯
2位:フィリピン   4,234世帯
3位:中共      4,018世帯
 
 
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平成22年度の生活保護費は約3.3兆円で、このうち在日外国人の生活保護費(仮資産)は1200億円でした。
 
 
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金額
2010年度

生活保護費:3.3兆円

うち在日外国人(仮資産):1200億円(3.6%)

在日外国人のうち韓国・朝鮮人:800億円(3分の2)
 
人数
2011年12月(速報値)

全生活保護受給者数:208万7092人

外国人生活保護受給者数:7万3493人(3.52%)
 
在日外国人の生活保護受給者は、生活保護費全体の約3・6%を受給して、受給数は約3・52%を占めています。
 
在日外国人の生活保護受給率は、日本人の受給率全国平均より約3倍も高いのです。
 
また、外国人生活保護受給世帯の世帯主は、約70%が韓国・朝鮮籍です。
 
生活保護は日本国民の血税で支給されているのに、日本国民だけが厳しく審査をされて、在日韓国・朝鮮人の審査が甘いのは大問題です。
 
9月26日に厚生労働省は、2012年6月度の生活保護の「被保護者調査」を発表しました。

生活保護受給者数は全国で211万5477人となり、前月から4661人増加しました。
 
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都道府県別の生活保護受給者数では、今回も大阪府が1位でした。
 
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生活保護受給世帯が全国最多の 大阪市 は、2010年4月に在日外国人受給者が初めて1万人を突破しました。
 
平成13年度に市が実施した調査では、外国人受給世帯の92%が在日韓国・朝鮮人で、同様の統計結果がない現在も大きな変化はないと考えられます。
 
 
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橋下 大阪市 長は国政ではなく、大阪府・ 大阪市 の在日外国人の生活保護受給問題を考えるべきです。
 
 
そもそも生活保護の対象とは、日本国民に限定されています。
 
しかし昭和29年、当時の厚生省が外国人の生活困窮者に生活保護法を準用すると通知して以降、永住や日本人配偶者など在留資格を持つ外国人に支給されています。
 
日本国憲法は、外国人が日本の福利を享受することを認めていません。
 
 
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日本国憲法第3章は「国民の権利及び義務」と題して、日本国憲法第10条から第40条まで、基本的人権・国民の義務などについての規定をしています。
 
ここでいう国民とは、法律で定められた日本国民のことです。
 
日本国憲法第二十五条は、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と規定しています。
 
生活保護法で定められた適用対象は、日本国民ですから、在日外国人への生活保護は適用対象外で認めていません。
 
在日外国人への生活保護は、1954年(昭和29年)の旧厚生省社会局長通知で、「当分の間、生活が困窮している外国人に対しては」と、生活保護法の準用措置になっています。
 
「生活に困窮する外国人に対する生活保護の措置について」

一 生活保護法 (以下単に「法」という。) 第一条により、外国人は法の適用対象とならないのであるが、当分の間、生活に困窮する外国人に対しては一般国民に対する生活保護の決定実施の取扱に準じて左の手続により必要と認める保護を行うこと。
 
しかし、「当分の間」が50年以上も続いているので、在日外国人への生活保護法の準用措置は廃止すべきです。
 
私は本ブログ1月の記事にしましたが、市役所に生活苦などを訴えていた姉が急死した後に、知的障害のある妹が凍死した連鎖的な悲劇が起きました。
 
 
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他にも、生活保護を受給できなかった日本国民に多くの悲劇が起きています。
 
生活保護とは、日本国憲法、生活保護法で定められた日本国民で、障害のある方や急な病気や怪我で働けない方の救済のためにあるのです。
 
 
在日外国人による「生活保護不正受給」も急増しています。
 
定職を持ちながら、生活保護のほか別の福祉手当との二重、三重取りをして、年収600万円という世帯もあります。
 
“生活保護”むさぼる在日外国人!悪質すぎる不正受給の手口とは
 
 
年金未加入の在日外国人、特に韓国・朝鮮籍の外国人は生活保護受給予備軍で、このままでは在日外国人の生活保護は増加をしていくのです。
 
日本で生活ができない在日外国人は帰国するか、日本で居住を続けるのであれば、在日外国人の国籍国が生活費を支給するべきです。
 
平成22年7月現在の在日外国人生活保護受給世帯が4万世帯を超え過去最多を更新したとみられていますが、在日外国人への生活保護はやめるべきです。
 
良識ある日本国民の皆様、在日外国人生活保護についてご考慮下さい。
 
日本国民の血税を外国人に使うな!
 
と思われた方は、↓クリックをお願いします。↓
 
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転載元: 近野滋之『民族主義者の警鐘』


[転載]【生活保護】外国人受給! 帰国せず 際限なき膨脹!

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【生活保護】外国人受給! 帰国せず 際限なき膨脹!
 
 
 
生活保護は生活困窮者に最低限度の生活を保障する
“最後のセーフティーネット”。

しかし、膨大な保護費は国家財政を圧迫しており、

政府は働ける受給者に就労や自立を求めたり、不正受給への罰則を強化したりするなど、
保護費抑制方針を打ち出している。

そうした中で、増加を続ける外国人受給者。
専門家は「税金が外国人の生活保護費に回り、

際限なく増えている現状は問題だ」と指摘する。

http://sankei.jp.msn.com/life/news/121001/trd12100100340000-n1.htm
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国籍別では、韓国・朝鮮人(2万7035世帯)が全体の3分の2を占め、次いでフィリピン人(4234世帯)、
中国人(4018世帯)と続いた。
 
外国人は支援組織(民潭、朝鮮総連、共産党、公明党、人権弁護士団、その他)の斡旋で生活保護を受けているから、
生活保護の斡旋を法律で禁止・罰則化すればよい。
これだけで受給者は半分に減る。
 
 
クェートでも、お祝い金とか配ったけど、外国人はのぞかれたよね。

日本だけが、生活保護費や子供手当てなどを外国人に配り税金の無駄遣いをしている。

こうした手当ては日本人で日本国籍を持つものに限るとするべき。

世界的にみても、日本の政策は異常。
 
 
 
 
一番悪いのは「民主党」
とてもわかり易かった例が菅辞任の時の朝鮮学校無償化の駆け込み指示

とにかく民主党は韓国ラブなので、生活保護問題もぬらりくらりで逃げ切ろうとしている。
 
 
 
 
安倍さん
頼んだぜ(^^)
 

転載元: ローリージャパンの日々雑感!

中国という「張り子の虎」

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中国という「張り子の虎」
2012.10.11 11:02 (1/2ページ)石平のChina Watch
尖閣諸島沖で、海上保安庁の巡視船に挟まれて航行する中国の海洋監視船=10月2日、沖縄県・尖閣諸島久場島沖
尖閣諸島沖で、海上保安庁の巡視船に挟まれて航行する中国の海洋監視船=10月2日、沖縄県・尖閣諸島久場島沖
 9月10日に日本政府が尖閣諸島の国有化を決めて以来、中国側は2週間以上にわたって、日本に対する未曽有の激しい「反撃攻勢」に打って出た。
 「主権と領土問題は半歩たりとも譲らない」という温家宝首相の超強硬発言を号砲にして始まった対日攻勢は、一時には気炎万丈にして疾風怒濤(どとう)の勢いであった。政府が一度に十数隻の監視船を尖閣海域に派遣して日本の領海に侵入させ、「1千隻の漁船が尖閣を目指して出発」との重大ニュースも流れた。
 日中共催のイベントや商業活動などはことごとく取り消され、商務省の高官は日本に対する「経済制裁」の発動を示唆した。その一方、国内では史上最大規模の反日デモが動員されて中国全土を席巻し、一部の現役軍人が「尖閣開戦」を公言するようになった。
 梁光烈国防相も9月18日、「(日本に対して)行動を起こす権利を留保する」と言って赤裸々な軍事恫喝(どうかつ)を行った。
 胡錦濤指導部が主導したこの一連の対日攻勢の主な目的は当然、日本側に圧力をかけ、尖閣国有化からの撤退を強いることにあったはずだ。だが蓋を開けてみたら、それらはすべて、目的を達成できないまま中途半端に終わってしまったのではないか。
 政府の動員で起きたデモが拡大して政府批判の動きに転じていくと、慌てて急ブレーキをかけて沈静化させたのは当の中国政府である。憂慮されていた「1千隻の中国漁船の領海侵入」は結局杞憂(きゆう)に終わってしまい、中国の漁船は一隻たりとも日本の領海に入ってこなかった。商務省高官の示唆した「経済制裁」も発動できず、日本に対する「制裁」はせいぜい、輸出品の通関検査を「厳しくする」程度の嫌がらせである。
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関連ニュース

 

石平のChina Watch

今月中旬に始まった史上最大規模の反日デモが沈静化した今、中国政府の今後の動向が注目されている。北京は一体、今度の「尖閣紛争」にどう決着をつけるつもりなのか。
 それを見るのには、中国漁船団の動きが一つの鍵である。
 16日あたりから、日本への「対抗措置」として中国政府は尖閣海域へ向かう漁船団の出航を認めた。一時は「千隻の中国漁船が尖閣にやってくる」との情報が流れ、一触即発の緊迫状況となった。
 だがこの原稿を書いている25日午前現在、台湾の漁船の領海侵犯はあっても、「中国漁船」は一隻たりとも日本の領海に入ってこなかった。それは中国政府当局が徹底した管理を行った結果であろう。
 もし中国の漁船が実際に日本の領海に侵入してきた場合、日本の海上保安庁は当然それを取り締まらなければならないが、その中でけが人が出たり逮捕者が出たりするような事態が起こる可能性は十分ある。そうすると、日中間の全面対決は必至の趨勢(すうせい)となろう。
 おそらく中国政府もそうなった場合の問題の深刻さをよく分かっているから、中国漁船の日本領海侵入を許さなかったのであろう。逆に言えば、今の中国指導部は結局、「尖閣問題」での日本との全面対決を避けたいのである。
 このような思いを強く持っているのは習近平国家副主席その人であろう。今年秋に開催される予定の党大会で彼は次期最高指導者に選出されるはずである。だが、もし今の時点で日本との「尖閣紛争」が全面対決の局面となって党大会の開催が延期されたりすれば、政治的不利をこうむるのは当然習氏である。場合によっては、今の最高指導者である胡錦濤国家主席が「国家の非常事態」を理由に習氏への権力移譲を拒むことさえあり得る。

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福島県内の公共用水域における放射性物質モニタリング 平成24年7月-9月分の測定結果公表

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福島県内の公共用水域における放射性物質モニタリング 平成24年7月-9月分の測定結果公表
 環境省は、平成24年10月11日、福島県内の公共用水域における放射性物質モニタリングの7月3日~9月6日採取分の測定結果について、とりまとまめ公表した。
 今回の調査では、福島県内の公共用水域における環境基準点等193地点(河川:123地点、湖沼・水源地:61地点、沿岸:9地点)の水質・底質の放射性物質濃度(放射性セシウム)の他、水質・底質採取地点近傍の周辺環境(河川敷等)の土壌の放射性物質の濃度及び空間線量率を測定した。

 結果概要は以下のとおり(※、※※は前回測定結果(※H24年4-6月、※※H24年2-3月))。

[1] 水質(検出下限値:1Bq/L)
河川
 セシウム134: ~ 2Bq/L
 セシウム137: ~ 3Bq/L
 (※セシウム134: ~ 1Bq/L)
 (※セシウム137: ~ 2Bq/L)
湖沼・水源地)
 セシウム134: ~ 2Bq/L
 セシウム137: ~ 3Bq/L
 (※※ セシウム134、セシウム137: ~ 1Bq/L)

<参考>
食品衛生法に基づく食品、添加物等の規格基準(飲料水)
  (平成24年3月15日厚生労働省告示第130号)
放射性セシウム(セシウム134、セシウム137 合計):10Bq/kg
水道水中の放射性物質に係る目標値(水道施設の管理目標値)
  (平成24年3月5日付け健水発0305第1号厚生労働省健康局水道課長通知)
放射性セシウム(セシウム134、セシウム137 合計):10Bq/kg

[2] 底質(検出下限値:10Bq/kg(乾泥))
河川
 セシウム134: ~ 24,000Bq/kg(乾泥)
 セシウム137: ~ 37,000Bq/kg(乾泥)
 (※セシウム134: ~ 65,000Bq/kg(乾泥))
 (※セシウム137:~ 100,000Bq/kg(乾泥))
湖沼・水源地)
 セシウム134出 ~ 35,000Bq/kg(乾泥)
 セシウム137: ~ 61,000Bq/kg(乾泥)
 (※セシウム134: ~ 110,000Bq/kg(乾泥))
 (※セシウム137:17 ~ 150,000 Bq/kg(乾泥))
(沿岸)
 セシウム134:15 ~ 230Bq/kg(乾泥)
 セシウム137:23 ~ 360Bq/kg(乾泥)
 (※セシウム134: ~ 200Bq/kg(乾泥))
 (※セシウム137: ~ 280Bq/kg(乾泥))

[3] 周辺環境(検出下限値:10Bq/kg(乾))
河川
 セシウム134: ~ 31,000Bq/kg(乾)
 セシウム137: ~ 51,000Bq/kg(乾)
 (※セシウム134: ~ 44,000Bq/kg(乾))
 (※セシウム137: ~ 69,000Bq/kg(乾))
 空間線量:0.06 ~ 11.90μSv/h
湖沼・水源地)
 セシウム134:12 ~ 47,000Bq/kg(乾)
 セシウム137:22 ~ 74,000Bq/kg(乾)
 (※セシウム134:130 ~ 88,000Bq/kg(乾))
 (※セシウム137:160 ~ 120,000Bq/kg(乾))
 空間線量:0.06 ~ 18.54μSv/h

 環境省では、今後も福島県、近隣県等において、関係機関と調整を行い、継続的に河川湖沼等の水質、底質等における放射性物質の測定を実施することとしている。
http://www.env.go.jp/press/press.php?serial=15808

対馬の文化/県指定文化財/史跡

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対馬の文化/県指定文化財/史跡

 

県指定文化財/史跡

対馬藩お船江(ふなえ)跡(昭44.4.21)

  • 厳原港の南、久田浦に注ぐ久田川河口に構築された人工の入江に4基の突堤と、5つの船渠がある。対馬藩お船江の跡である。
    寛文3年(1663年)の築造で、築堤の石積みは当時の原形を保ち、往時の壮大な規模を窺うことができる。
    江戸時代、水辺の各藩はいずれも藩船を格納する施設を設けていたが、これほど原状をよく遺存している所は、他に例がない。
    〈厳原町久田・長安六)

対馬円通寺宗家墓地

  • 対馬東岸の良港佐賀(さか)浦は、室町時代前期を通じて島府が置かれ、島主宗氏はこの地にいて全島を支配した。
    佐賀三代といわれる宗貞茂(応永)、宗貞盛(応永~享徳、宗茂職(しげもと)(享徳~応仁)を経て、宗貞国が応仁2年(1468年)府中(厳原)に移るまでの間、円通寺は宗氏の菩提寺であった。
    円通寺の裏山に数基の宝篋印塔があるが、個々の墓についての所伝はない。
    円通寺の寺号は、貞盛の法号である。
    (峰町佐賀・円通寺)

出居塚(でいづか)古墳

  • 美津島町鶏知浦の西方に「エビスガクマ」と呼ばれる峰があり、その頂上は前方後方の高塚になっていて、古くから出居塚と呼ばれていた。
    本古墳は全長40m、構築時期も出土した銅鏃(どうぞく)や管玉(くだたま)等から4世紀後半から末頃と推定され、文字通り対馬で最大・最古の古墳であり、県内唯一の前方後方墳である。
    内部構造は盗掘されているが、竪穴式石室と考えられる石室が残っている。
    また本古墳の東岸にある根曽古墳群(5~6世紀)を含めて・大和政権下の対馬県直などの豪族を埋葬したものと考えられる。
    これらは、この周辺を本拠地に対馬を支配していたものと考えられる。
    (美津島町鶏知・大塔鐵男ほか)

重要文化財

主藤(すとう)家住宅

  • 建築年代について、これを証する資料はないが、19世紀中頃の建築と推定されている。平面は「台所」「本座」「納戸」からなる、いわゆる三間(ま)取りで、これに一間(けん)通りの入側が表側に付き、本座の前を「座敷」、台所に接する部分を「戸口」と呼んでいる。

    土間は狭く、かまど、流し、風呂などがある。全体に木割りが大きく、特に長方形断面の柱を見付けが大きくなるように立てるのは、この地方の特徴である。小屋は和小屋で、大梁を格子状に組み化粧屋根裏天井。屋根はこの地方の農家には珍しく、本屋根・ひさし共に本瓦葺きである。対馬地方の代表的な農家の例として、貴重な遺構である。
    (厳原町豆酘・主藤長太郎)

銅像如来立像

  • 小粒の螺髪(らほつ)が繊細にあらわされている肉髺(にくけい)部や地髪はほどよく盛りあがり、眉には弧を描いてタガネが入れられている。うねりのある切長の眼や、はっきりと稜をつくった唇の表情など、端正な面貌(めんぼう)である。両肩を通した衣は、肌に沿う襞(ひだ)がみごとに表現されていて、体部のモデリングに緊張感をあたえている。面貌や衣褶(いしゅう)の特色から、朝鮮半島新羅統一時代の仏像であることがわかり、彼地にも稀な8世紀の秀作で、像高38.2cmの丈量は韓国小金鋼仏中では大きい。

    光背と台座は失われているが、本体のなめらかな肌あいはろう型による鋳造であり、背中には鋳造時の中型と外型との支えになった部分が穴となっている。
    『対州神社誌』(貞享3年)の木坂村八幡宮の条には、御神体5躰のうち2躰が金像であるといい、当像がそのうちの1躰にあたることになろう。
        (峰町木坂・峰町ふるさと宝物館に保管・海神神社)

金鼓〈多久頭魂神社)

  • 「豆酘の大鉦」と呼ばれてきた面径77.3cmの大型の金鼓であり、朝鮮半島で製作されたものである。金鼓は日本め鰐ロのような梵音具であるが、両面式ではなく盤状のもので、金口とか盤子ともよばれる。
    側縁部に陰刻銘があり「禅源乙巳五月日 晋陽府鋳成口福寺飯子一印」と読まれ、年号が不明であるが、乙巳は高麗高宗32年(1245年)と考えられ、慶尚南道の晋州で作れたものであることがわかる。その後、本邦にもたらされ、正平12年(1357年)に大蔵経種によって奉縣されたことが追銘で知られる。面経77.3cm。
    (厳原町豆酘・多久頭魂神社)

銅造如来坐像(黒瀬観音堂)

  • 豊かな肉身部のふくよかなつくり、それをつつむ衣の襞(ひだ)のモデリングの見事さなど、全身すみずみまで神経のゆきとどいた造作である。
    瞼は微妙なカーブをつくり、眉も溝をつけて円弧を描き、やや小づくりの鼻と唇は豊かな頬をより豊かにみせている。衣は右肩をあらわにして、両手は胸の前で説法をするときの印をつくっている。
    火災にあって本体は変形し、台座は一部をのこしている。当像は、そのような損傷を補って余りある秀抜なできばえのもので、統一新羅時代の金銅仏中最も優秀な作品のひとつにかぞえられる。
    (美津島町黒瀬・対馬市)
 
 
 

金田城(かねだじょう)跡(かなたのき)

  • 浅茅湾の南辺にあり、天智天皇の6年(667年)11月に築造された対馬国金田城の跡である。標高276mの山頂は天然の絶壁で、それに石垣を配した遺構がある。これを起点に、尾根伝いに城壁をめぐらし、三つの谷をかかえる、いわゆる朝鮮式山城の形式をとっている。

    この形式は、天智4年(665年)8月にできた筑前の大野城(おおのき)、肥前の椽城(きのき)と同一形式である。
    金田城は、新羅の日本進攻を防ぐ目的で築かれたものと言われる。県内で最初の国指定特別史跡である。
                         (美津島町城山ほか)

史 跡

根曽(ねそ)古墳群

  • 対馬の中央部東海岸鶏知浦に面した海岸台地にある古墳群で、前方後円墳3基・円墳2基からなる。山頂部の1号墳は全長30m,2号墳は全長36m,ともに対馬では珍しい前方後円墳であるが4号墳は旧状が明確でない。
    ともに浜石積を特徴とし、石棺形の石室をもっている。
    1号噴からは、柳葉形鉄鏃・鉄刀片・碧玉(へきぎょく)製管玉が出土し、2号墳からは、須恵器(すえき)・土師器(はじき)・鉄剣等が発見されている。
    本古墳群の近くに全長40mの出居塚(でいづか)古墳があり、前方後方墳で4世紀後半のものとされ、これに後続するのが根曽古墳群で6世紀まで続く。
    鶏知は顕宗(けんぞう)紀にある下県直(しもつあがたのあたえ)の根拠地と比定される場所であり、本古墳群は畿内勢力の枠組みの中に対馬が組みこまれていたことを示している。
    (美津島町鶏知)

矢立山(やたてやま)古墳

  • 厳原町の西海岸、小茂田の集落に注ぐ佐須川の右岸に3基の古墳がある。1号墳は平成13年(2001)の再調査により方墳であることが判明し、2号墳も平成14年の調査の結果方墳であることが判明した。
    1号墳は板状の石材を三段に積み重ね、いずれの土台もほぼ正方形となっており、下段は約11m、中段は約7m、上段は約5m四方となっている。
    床に敷石を施した長さ4.8m、幅1.8mの横穴式石室を持ち、鉄釘4本と金銅製太刀が出土した。出土した須恵器片や石室の石積み技法から、築造年代は西暦650~700年頃とみられている。
    2号墳は,平面T字形の石室を1号墳同様,割石平積みして構築しており、須恵器の長頸壺・刀装具(玄室出土)や高台付銅椀が出土した。
    石室構造・出土品により終末期の古墳と考えられる。
    T字形石室という珍しい構造は、韓国の漢江流域にある梅竜里2・8号墳との関連が考えられる。
    対馬では、弥生時代以来箱式石棺を主体とする積石塚が伝統的な墓制であるが、古墳時代終末期に突然横穴式石室墳が出現した。
    3号墳は積石塚で長方形墳。南北が約7m、東西が約4.5mで底部を土と石で盛土し基礎を造り、その上は、人頭大程の石だけで積んでいる。
    (厳原町下原)

塔ノ首遺跡

  • 上対馬町比田勝港の北東、西泊湾をのぞむ低い旧岬上にある弥生後期の墓地で、箱式石棺4基からなる。
    銅釧(くしろ)(腕輪)・各種の玉類、8000個におよぶガラス小玉・広形銅矛・方格親矩文(ほうかくきくもん)鏡(青銅鏡)・小鉄斧等、多数の遺物が棺の内外から発見された。
    特に注目されるのは、第3号棺から発掘資料としては初例の広形鋼矛2点があり、しかも弥生式土器および韓国陶質土器とともに発見されたことである。
    このことは、広形銅矛の年代が明確になったこと、韓国の土器と日本の土器の年代比較が可能になったことを意味し、日韓文化の交流を如実に示すものとして注目される。
    (上対馬町古里)

清水山(しみずやま)城跡

  • 清水山の頂上に一ノ丸、東の尾根の先端に三ノ丸、その中間の段にニノ丸と称する三段の曲輪があり、その間石垣が断続し全長約500m、中世風の山城である。
    秀吉の朝鮮出兵に備え、天正19年(1591年)に築城されたもので、肥前名護屋の本営から、壱岐の勝本城、対馬の清水山城、朝鮮の釜山城と結ぶ駅城であった。
    標高206mの一ノ丸は東西約50m、南北約40mの長方形角円(すみまる)で、中央に矢倉の基壇がある。
    東側正面には虎口(こぐち)と桝形があり、西側搦手(からめて)にも門址があり、山道に通じている。ニノ丸は小さく矢倉がない。
    三ノ丸は全形が把握し難いが、石垣の出張(でばり)、虎口(こぐち)、石段が遺っている。
    (厳原町西里)

対馬藩主宗家墓所

  • 清水山南麓の宗家の菩提寺である万松院(天台宗)を中心に、山腹の宗家歴代の墓地を含む広大な地域である。
    万松院は第二代藩主(宗家第20代)義成が、亡父義智(宗家第19代、対馬藩初代)を弔って建立した。元和元年(1615年)に逝去した義智のために創建した松音寺の法号である万松院をもって寺号とした。
    墓地は、桃山様式を残す山門のわきから、百雁木(ひゃくがんぎ)とよばれる132段の自然石の大石段を登った所にある。
    樹齢数百年の大スギが茂り、上段には義智以来の14人の藩主とその正室ら、中段には積極的な朝鮮外交で有名な戦国期の貞国(宗家第10代)ほか、下段には側室などが眠る。
    対馬藩は十万石の格式であったが、壮大な墓地は数十万石の大藩なみといわれている。
    (厳原町西里,今屋敷・万松院)

金石(かねいし)城跡

  • 清水山(206m)の南麓に位置し、前を清流金石川が流れる。
    築城年は不明であるが、『宗氏家譜』に、享禄元年(1528)宗盛治の兵乱により池の館(厳原町今屋敷)が炎上し、「盛賢(もりたか)(将盛)府城を金石に移す」と記されている。
    これより前,文明年間(1470年代)、金石の西北の山際に国分寺を再興していたので、その隣に築城したものとみられる。
    寛文5年(1665)国分寺を移転、城郭を拡張し、大手門に櫓を建て、多門櫓を造って金石城と称したが、天守閣はなかった。家中では金石の館と称している。
    廷宝6年(1676)に桟原の館が完成し、新しい府城となるが,その後も金石城は存在し、文化10年(1813)の火災で大手の櫓が焼失したときは幕府に願い出て復旧費二千両の貸与を許され、同14年にこれを再建した。
    この門は大正8年(1919)まで保存されていたが、維持管理が困難となり解体された。
    今も堅牢に遣る城壁の一部は、対州流の石垣の特色をよく示しており、石工技術に固有の伝統があったものとみられている。
    平成2年、櫓門が記録に基づき復元され、景観が往時をしのばせている。
    (厳原町今屋敷)
 

[転載]韓国は百年後に米・中属国に戻らずに国家が存続するかを考えろ、一度も他国に支配されていない対馬は百年後も千年後も日本領だ、百年後の子孫に問う「対馬は誰の土地か?」~対馬訪問運動、続ければ歴史になる

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良識ある日本国民の皆様には、韓国紙が対馬の領有権を主張して百年後の子孫に問うと報道したのはご存知だと考えます。

百年後の子孫に問う「対馬は誰の土地か?」~対馬訪問運動、続ければ歴史になる

ハワイは米国の土地、端島(軍艦島)は日本の土地、それなら独島(ドクト、日本名:竹島)は、離於島(イオド)は、間島(カンド)は、対馬(テマド)は? 

正解は全部私たちの土地だ。だが、現実はそうではない。独島は日本が、離於島は中国が自らの土地(島)と言い張り、間島と対馬は数千年間、私たちの支配下にあったが近世に朝鮮没落・日帝治下・南北分断の国力弱化で隣接国家に奪われた。 

日本が独島を自らの土地だと妄動するのに比べて対馬が私たちの土地だと主張する論拠が比較できない程はるかに多い。対馬は日本の九州本島との距離が147キロにもなるが韓半島とは49.5キロにしかならない。民俗信仰・言語・歳時風俗も対馬が私たちと似ているのを見れば驚くばかりだ。 

明治維新以前の日本の資料を見ても私たちの領土と表示しており、宣教師のミラー女史が1906年著した初学地誌にも朝鮮の土地と記している。李承晩(イ・スンマン)博士は1948年、大統領就任後、対馬を韓国に返還するよう要求した。私たちの領土に確定すれば排他的経済水域(EEZ)適用を受けて韓半島の大きさほどの沿岸を確保する。 
百年後の子孫に問う。対馬は誰の土地か?
慶南日報(韓国語)抜粋
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1332575249/

>ハワイは米国の土地、端島(軍艦島)は日本の土地、それなら独島(ドクト、日本名:竹島)は、離於島(イオド)は、間島(カンド)は、対馬(テマド)は?

韓国はクイズが流行っているのか^^、1日のニューヨーク・タイムズに竹島を韓国領という広告を掲載して、米国・イタリア・韓国・インドネシアの国旗と、竹島・ハワイ島・バリ島・シチリア島を並べて、竹島と韓国を結ぶ広告でした。

http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/1c/80/x1konno/folder/1050202/img_1050202_36357694_1?20121014064934

>正解は全部私たちの土地だ。だが、現実はそうではない。独島は日本が、離於島は中国が自らの土地(島)と言い張り、間島と対馬は数千年間、私たちの支配下にあった

数千年間^^、竹島を不法占拠して対馬の領有権も主張する韓国人は、こんなことを新聞が報道するので、韓国人は現実を受け入れられない妄想民族だと中共からも馬鹿にされていますが、対馬が他国の支配下になった史実はありません。

韓国が根拠もなく数千年ということが理解不能ですが、日本は本年が皇紀2672年、建国神話である「古事記」には、最初に生まれた島々の1つとして「津島」と記されていて、また、日本書紀には「対馬洲」・「対馬島」と記されています。

http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/1c/80/x1konno/folder/1050202/img_1050202_36357694_2?20121014064934
淡路、四国、隠岐、九州、壱岐、対馬、佐渡、本州の順で国産みがなされた(大八洲)「天瓊を以て滄海を探るの図」小林永濯

3世紀末に編纂された中共の歴史書、「魏志倭人伝」(正式には三国志・魏書・東夷伝・倭人条)には、「倭人帯方東南海の中に有り、山島に依りて国邑をなす」ではじまり、「はじめてひとつの海を渡ること千余里、對馬國に至る」とあります。

朝鮮半島の沖に倭人(日本人)の住む対馬があり、倭(日本)の一国として倭国の北岸の狗邪韓国の次に対馬国として登場し、対馬国は邪馬台国に属して、他の倭の国にも見られる卑狗(ヒコ)という大官と卑奴母離(ヒナモリ)という副官が置かれ統治していたと記されています。

古墳時代初期に築かれた出居塚古墳(対馬市美津島町)は、前方後円墳(大和地方で発達した古墳の形態)で、出土した有茎柳葉式銅鏃は古式畿内型古墳の典型的出土品であり、この時代にすでに対馬は大和朝廷の強い影響下にあったことを示しています。

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出居塚古墳

古墳時代は大和朝廷が度々朝鮮半島に出兵して交戦を繰り返した時代で、これらの史実の状況は、日本書紀・広開土王碑文・宋書倭国伝・三国史記の記載により知ることができます。

1274年文永の役、1281年弘安の役と2度に渡る元(モンゴル帝国)とその属国高麗による日本への侵略(元寇)を受けた際に、対馬はその最初の攻撃目標となり、守護代の宗助国以下80騎の守備兵が全滅しました。

この対馬侵略という元寇が残虐だったことは、「日蓮聖人註画讃」によれば、「上陸した蒙古・高麗軍は、男を殺戮あるいは捕らえ、女は一ヶ所に集め、手に穴を開け、紐で連結し、船に結わえ付た」と記されています。

http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/1c/80/x1konno/folder/1050202/img_1050202_36357694_4?20121014064934
「蒙古襲来絵詞」より「文永の役」

>日本が独島を自らの土地だと妄動するのに比べて対馬が私たちの土地だと主張する論拠が比較できない程はるかに多い。対馬は日本の九州本島との距離が147キロにもなるが韓半島とは49.5キロにしかならない

やっぱり距離が、デタ ━ ○| ̄|_ =3 ブッ ━ !!!、竹島の領有権についても、韓国よりも日本の方が史実に基づいている資料、また国際法に則った論拠は多いのが事実ですし、すでに対馬の領有権について韓国は自爆しています。

1145年、高麗王の時期に出来た朝鮮半島に現存する最古の歴史書「三国史記(さんごくしき)」には、「王、倭人が対馬島に営を置き、貯うるに兵革資粮を以て我を襲わんことを謀ると聞き、我はその未だ発せざるに先んじて、精兵を揀び兵儲を撃破せんと欲す」とあり、倭人=日本人の対馬島です。

http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/1c/80/x1konno/folder/1050202/img_1050202_36357694_5?20121014064934
三国史記

また、李氏朝鮮領議政(宰相)「申叔舟」(しんしゅくしょう)が、1471年に編纂した「海東諸国紀」は、「日本国対馬島の図」を掲載して、本文で対馬島を「日本国西海道に属す」として対馬島内の事情を詳述しています。

http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/1c/80/x1konno/folder/1050202/img_1050202_36357694_6?20121014064934
日本国対馬島の図

>李承晩(イ・スンマン)博士は1948年、大統領就任後、対馬を韓国に返還するよう要求した

韓国政府は、日本がまだGHQの占領下だった昭和26年、主権回復後の日本の領域を定めるサンフランシスコ講和条約の草案が作成されていた時期に、米国に対して、対馬と竹島が韓国の領土であることを認めるように要求ました。

米国は、「対馬は日本が長期間にわたり完全に統治しており、講和条約は対馬の現在の地位に影響を及ぼさない」と、韓国の要求を拒否しましたが、韓国は1952年に国際法に反して「李承晩ライン」を引き、竹島を不法占拠しました。

http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/1c/80/x1konno/folder/1050202/img_1050202_36357694_7?20121014064934

2005年3月18日に、韓国の馬山市議会(現在の昌原市)は「對馬島の日」(対馬の日)条例を可決し、条例は「対馬島が韓国領土であることを内外に知らしめ、領有権確立を目的とする」と規定しています。

http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/1c/80/x1konno/folder/1050202/img_1050202_36357694_8?20121014064934

忠清南道・天安にある「独立紀念館」は、日本人向けパンフレットに描かれた地図に対馬を韓国領にして、韓国の独島博物館は、鬱陵島の薬水公園内に「対馬島本是我国之地」(対馬島は元々我が国の地)と彫られた石碑を設置しています。

http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/1c/80/x1konno/folder/1050202/img_1050202_36357694_9?20121014064934

>百年後の子孫に問う。対馬は誰の土地か?

百年後も千年後も日本の土地だ!、韓国は百年後の子孫の時代に韓国という国が存続するかを考えるべきで、一人歩きの出来ない朝鮮は米韓FTAで、また大東亜戦争終結後の米国支配下か、百年前に戻って中共の属国しかないでしょう。

http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/1c/80/x1konno/folder/1050202/img_1050202_36357694_10?20121014064934
大清国属高麗国旗(大清国に属する高麗の国旗)

韓国は百年後の子孫に「対馬は誰の土地か?」と問う前に、百年後に米・中の属国に戻らずに国家が存続するかを考えるべきで、一度も他国に支配されていない対馬は百年後も千年後も日本領ですし、竹島も奪還すべきです。

良識ある日本国民の皆様、対馬を狙う韓国についてご考慮下さい。

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転載元: 近野滋之『民族主義者の警鐘』

[転載]韓国の反日団体「証拠は無いが国際裁判で対馬が韓国領だと証明する」対馬返還運動始める、竹島も国際司法裁判所に付託しろ、日本政府は対馬などの国境の島々を守るために防人の新法を制定して政府が維持・管理すべき

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良識ある日本国民の皆様には、韓国の反日団体が対馬返還運動を始めるのはご存知だと考えます。
 
「証拠は無いが国際裁判で対馬が韓国領だと証明する」日本が不法占拠した韓国領奪還のために政府次元で対応が必要だ
 
8月5~7日独島国土巡礼の時「スタート」…糾弾声明も出して

キル・ジョンソン会長「国民的共感が形成された時に国際司法裁判所に返還を訴える」

(高陽(コヤン)=聯合ニュース)ウ・ヨンシク記者= 11年をむかえた独島(トクト)守護団体「独島サラン(愛)会」が日本の独島領有権主張に対抗して対馬返還運動に出る。

独島サラン会は8月5~7日、中・高・大学生110人が参加する独島国土巡礼の時に日本糾弾声明を発表して対馬返還運動を始めると31日、明らかにした。

独島サラン会は今後、対馬が私たちの領土であるという事実を立証する資料を収集して、これを国民に知らせるために汎国民100万署名運動を展開することにした。

特に国民的共感が形成されれば国際司法裁判所と日本政府に対馬返還訴訟を提起する方案を積極的に検討している。

独島サラン愛会のキル・ジョンソン(51)会長はこの日、「三国史記など歴史的資料を見れば対馬は明確に私たちの領土だった」として、「日本の独島領有権主張に対抗して、日本が不法に占領した対馬の返還運動を展開する」と明らかにした。
NAVER/聯合ニュース(韓国語)抜粋
http://u1sokuhou.ldblog.jp/archives/50376304.html
 
>独島サラン会は今後、対馬が私たちの領土であるという事実を立証する資料を収集して、これを国民に知らせるために汎国民100万署名運動を展開する
 
これまでの資料はどうしたんだ^^
 
私は本ブログで、韓国の大学教授などが対馬は韓国領土と立証する資料を発見したという度に、それらの資料が無効だという事実を書き記してきました。
 
後述しますが、対馬は他国の領土になった史実はないのですから、韓国が収集する資料とは捏造したものしかありません。
 
2010年に韓国の国会議員らは、「対馬住民の血統調査でも韓国血統とほとんど一致することが明らかになった」としていました。
 
しかし、韓国が対馬市の住民に対して、血統調査をしたという事実はありません。
 
>特に国民的共感が形成されれば国際司法裁判所と日本政府に対馬返還訴訟を提起する方案を積極的に検討している
 
竹島を国際司法裁判所へ付託して解決しろ!
 
日本政府は竹島領有権問題について、「日韓紛争解決交換公文」に基づき調停の場を国際司法裁判所に付託するように、韓国政府に提起をしていました。
 
しかし、韓国政府が拒否をしました。
 
韓国政府が日本政府に対して、対馬の領有権を国際司法裁判所に付託するように提起するのであれば、竹島も国際司法裁判所で解決すべきです。
 
>「三国史記など歴史的資料を見れば対馬は明確に私たちの領土だった」として、「日本の独島領有権主張に対抗して、日本が不法に占領した対馬の返還運動を展開する」
 
寝言は寝て言え!
 
韓国政府は、日本がまだGHQの占領下だった1951年(昭和26年)から、対馬の返還を要求しています。
 
韓国政府は、主権回復後の日本の領域を定めるサンフランシスコ講和条約の草案が作成されていた時期に、米国政府に対して、対馬と竹島が韓国の領土であることを認めるように要求しました。
 
しかし、米国政府は、「対馬は日本が長期間にわたり完全に統治しており、講和条約は対馬の現在の地位に影響を及ぼさない」として、韓国政府の要求を拒否しました。
 
米国政府から竹島と対馬の領有権を否定された韓国政府は、1952年1月18日に国際法を無視して「李承晩ライン」を引いて、竹島を不法占拠しました。
 
2005年3月18日、韓国の馬山市議会(現在の昌原市)は「對馬島の日」(対馬の日)条例を可決しました。
 
条例は、「対馬島が韓国領土であることを内外に知らしめ、領有権確立を目的とする」と規定しています。
 
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2008年7月21日、韓国の国会議員50名が国会に「対馬は韓国の領土であり、日本は対馬を韓国政府に即時返還すること」を求める、「対馬の大韓民国領土確認および返還要求決議案」(対馬島返還要求決議案)を提出しました。
 
韓国内で同案に対しての世論調査によると、「日本に対馬返還要求すべき」に賛成した韓国人は50.6%もいます。
 
2008年7月23日、韓国の退役軍人らで構成する抗議団21人が対馬市役所前で、「独島は韓国領土 対馬も韓国領土」とする横断幕を掲げて抗議活動をしました。
 
2009年、「民団」対馬島地方本部事務局長の妻を持ち、日本に帰化した元韓国人男性が、20年間に渡って自衛隊との親密な交流を深めながら自衛隊基地を訪れて、自衛隊の演習や人員配置などを書き写していた問題がありました。
 
また、海上自衛隊対馬防備隊本部の隣接地を、韓国資本が日本人名義で土地の買収をした問題もありました。
 
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韓国の忠清南道・天安にある「独立紀念館」は、日本人向けパンフレットに描いた地図で、対馬を韓国領にしています。
 
韓国の独島博物館は、鬱陵島の薬水公園内に「対馬島本是我国之地」(対馬島は元々我が国の地)と彫られた石碑を設置しています。
 
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対馬は日本固有の島で、他国に支配された事実はありません。
 
建国神話である「古事記」には、最初に生まれた島々の1つとして「津島」と記され、また、日本書紀には「対馬洲」・「対馬島」と記されています。
 
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淡路、四国、隠岐、九州、壱岐、対馬、佐渡、本州の順で国産みがなされた(大八洲)「天瓊を以て滄海を探るの図」小林永濯
 
3世紀末に編纂された中共の歴史書、「魏志倭人伝」(正式には三国志・魏書・東夷伝・倭人条)には、「倭人帯方東南海の中に有り、山島に依りて国邑をなす」ではじまり、「はじめてひとつの海を渡ること千余里、對馬國に至る」とあります。
 
朝鮮半島の沖に倭人(日本人)の住む対馬があり、倭(日本)の一国として倭国の北岸の狗邪韓国の次に対馬国として登場します。
 
対馬国は邪馬台国に属して、他の倭の国にも見られる卑狗(ヒコ)という大官と卑奴母離(ヒナモリ)という副官が置かれ統治していたと記されています。
 
古墳時代初期に築かれた出居塚古墳(対馬市 美津島町 )は、前方後円墳(大和地方で発達した古墳の形態)です。
 
出土した有茎柳葉式銅鏃は、古式畿内型古墳の典型的出土品で、この時代、すでに対馬は大和朝廷の強い影響下にあったことを示しています。
 
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出居塚古墳
 
古墳時代は、大和朝廷が度々朝鮮半島に出兵して交戦を繰り返した時代です。
 
これらの史実の状況は、日本書紀・広開土王碑文・宋書倭国伝・三国史記の記載により知ることができます。
 
1274年文永の役、1281年弘安の役と2度に渡る元(モンゴル帝国)とその属国高麗による日本への侵略(元寇)を受けました。
 
対馬はその最初の攻撃目標となって、守護代の宗助国以下80騎の守備兵が全滅しました。
 
対馬侵略という元寇が残虐だったことは、「日蓮聖人註画讃」に、「上陸した蒙古・高麗軍は、男を殺戮あるいは捕らえ、女は一ヶ所に集め、手に穴を開け、紐で連結し、船に結わえ付た」と記されています。
 
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「蒙古襲来絵詞」より「文永の役」
 
1145年、高麗王の時期に出来た朝鮮半島に現存する最古の歴史書「三国史記(さんごくしき)」には、「王、倭人が対馬島に営を置き、貯うるに兵革資粮を以て我を襲わんことを謀ると聞き、我はその未だ発せざるに先んじて、精兵を揀び兵儲を撃破せんと欲す」とあります。
 
倭人、つまりは、日本人の対馬島と読めます。
 
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三国史記
 
李氏朝鮮領議政(宰相)「申叔舟」(しんしゅくしょう)が、1471年に編纂した「海東諸国紀」は、「日本国対馬島の図」を掲載しています。
 
本文で対馬島を、「日本国西海道に属す」として対馬島内の事情を詳述しています。
 
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日本国対馬島の図
 
豊臣秀吉の九州征伐に際しては、対馬の守護である宗氏は豊臣秀吉への臣従を決定し本領を安堵され、1590年、従四位下侍従・対馬守に任ぜられて、以後その官位が宗氏の慣例となりました。
 
関ヶ原の戦いでは、宗氏は西軍に加わり伏見城攻撃・関ヶ原本戦に参加し、西軍敗北後は徳川家康から許されています。
 
以後は代々、徳川氏に臣属して、李氏朝鮮に対する外交窓口としての役割を担いました。
 
江戸時代は、宗氏が対馬府中藩(通称対馬藩)10万石として引き続き対馬を任せられました。
 
参勤交代制度に基づき、3年に一度江戸の征夷大将軍の元に出仕することとされ、江戸に藩邸を構えて大名行列を仕立てて行き来しました。
 
外交面では鎖国体制の中、朝鮮通信使を迎える等の日朝外交の仲介者としての役割を果たして、また、日朝の中央権力から釜山で倭館貿易を許されていました。
 
江戸時代後期の1861年には、ロシアの軍艦が浅茅湾に投錨し、対抗したイギリス軍艦も測量を名目に同じく吹崎沖に停泊して、一時占拠する事件が起こりました。
 
5月に外国奉行の小栗忠順が派遣され、7月にイギリス公使オールコックがロシア軍艦を退去させた、「対馬事件」がありました。
 
東郷平八郎が率いる帝国海軍の連合艦隊と、ロジェストヴェンスキーが指揮を執るロシアのバルチック艦隊の日本海海戦は、海外では「battle of tsushima」として知られています。
 
直訳すると、「対馬の戦い(海戦)」となります。
 
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大日本帝国陸軍は、1878年に熊本鎮台から対馬分遣隊を対馬に派遣して、1886年12月3日に「対馬警備隊」が置かれました。
 
 
これまで韓国は、竹島だけではなく対馬の領有権まで主張し、対馬の土地を買い漁って、マナーの悪い韓国客も押し寄せています。
 
そして、次から次へと嘘を重ねては、対馬を奪おうと狙っています。
 
このような状況の「対馬」には、経済的に韓国人を受け入れる人が増えてしまいました。
 
2010年にロケットニュース24の取材班が、対馬の現状を取材しました.
 
対馬は、韓国に間接侵略をされたような状況です。
 
 
対馬にいる韓国人はマナー悪いのも「観光客として受け入れざるを得ない」(抜粋)

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最後に取材班は「韓国人お断りの店」の張り紙がある店を数時間かけて探した。だが、見つからなかった。これに関してホテル従業員のAさんは「数年前まではチラホラと張り紙を見ましたね。でも最近は景気悪化で韓国人でもいいから、客として欲しいと思っている店が増えています。こっちはもう選択の余地もありません・・・・」と話す。

韓国では対馬は韓国領土であるという主張がある。そんな根拠のない主張を知りながらも対馬島民は韓国人を歓迎しているのだ(もちろん生活の為という理由はあるが)。もしかしたらこの「仕方がない」は今の日本の全体像を映し出しているのではないか?そう思えて私も仕方がないのである・・。

▼公衆トイレは島内にたくさんあり、このようなハングルの張り紙も目に付く。
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▼こんな山の中でもパチンコ屋がある。ちなみに対馬には多くのパチンコ店がある。韓国に近いからか・・・
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▼ショッピングセンターには、韓国語支援センターが。ハングルのパンフレットも右側にあり。
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▼大きい郵便局も、ハングル文字が。
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▼免税店もあるが、日本人は入れない。(見学もできず)
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▼飲食店にハングル文字が。
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▼中心街にはこのような看板が。
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日本政府は対馬などの国境の島々を守るために、防人の新法を制定すべきで、自衛隊を配備して軍需で島の経済を支えるなど、政府として島を維持・管理すべきです。
 
良識ある日本国民の皆様、対馬についてご考慮下さい。
 
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転載元: 近野滋之『民族主義者の警鐘』

[転載]毎日小学生新聞「ニュースな歴史館:古代の北朝鮮は進んでいた」捏造報道、読者の小学生を洗脳する新聞は有害図書に指定、日韓併合から大東亜戦争終結までの日本が朝鮮半島の近代化に尽力をしたことが歴史の真実

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良識ある日本国民の皆様には、毎日小学生新聞が北朝鮮について捏造報道をしたのはご存知だと考えます。
 
ニュースな歴史館:古代の北朝鮮は進んでいた
 
東京芸術大学のチームが2月、北朝鮮にある世界文化遺産「高句麗古墳群」の古墳の壁画を独自のデジタル技術を使って、世界で初めて原寸大で復元したというニュースがありました。

北朝鮮と言えば、「人工衛星」と言いながら実際は軍事ミサイルの実験を行うのではないか……と疑われている怪しい国のイメージがあります。しかし、こうした不可思議な国になったのは第二次世界大戦後のこと。しかも、日本の戦前の支配も原因の一つでした。

紀元3?5世紀ごろに全盛を迎えた「高句麗王朝」のころは、日本よりもはるかに進んだ文明国家があり、仏教などの宗教、学問の中には当時、高句麗を経て中国から伝えられたものもあります。

復元された壁画は、切手などでも知られる飛鳥時代の高松塚古墳(奈良県明日香村)の美しい壁画とそっくりなのが分かるでしょう。 当時の日本は高句麗の美しい文明をそのまま、コピペしながら輸入し、やがて独自の文化を生み出していったのです。【森忠彦(もりただひこ)】
毎日小学生新聞 2012年04月13日
http://mainichi.jp/feature/maisho/news/20120413kei00s00s015000c.html
 
>東京芸術大学のチームが2月、北朝鮮にある世界文化遺産「高句麗古墳群」の古墳
 
親中派の平山郁夫・元東京芸術大学学長のことでしょうが、北朝鮮の「高句麗古墳群」だけではなくて、中共にも「古代高句麗王国の首都と古墳群」があります。
 
平山郁夫・元東京芸術大学学長は、2004年にこの2つの世界文化遺産が同時に誕生した経緯を説明しています。
 
やっかいな問題が、中朝両国の間に横たわっていた。高句麗の歴史的帰属問題である。
「高句麗」は紀元前後に現在の中国・東北部に成立したとされる。427年に平壌に遷都され、668年に唐・新羅の軍に滅ぼされた。つまり、前期の首都は中国、後期は北朝鮮に位置した。北朝鮮は高句麗を朝鮮半島の「主権国家」と位置づけるが、中国側は「中国の一地方政府」「かつての植民地」と見ているため、高句麗遺跡についてもその帰属を巡って見解が対立した。

だが、両国の見解の溝はなかなか埋まらず、高句麗遺跡は別々に登録された。イコモスは「将来は一緒になるのが望ましい」と提言したが、「国境を越えた世界遺産」はいまも実現していない。
[Part3] 同じ「高句麗」で別々に登録。中国、北朝鮮が綱引き。平山郁夫は、なだめ、とりもった・抜粋
http://globe.asahi.com/feature/090302/01_3.html
 
北朝鮮と言えば、「人工衛星」と言いながら実際は軍事ミサイルの実験を行うのではないか……と疑われている怪しい国のイメージがあります
 
怪しいイメージ?、毎日小学生新聞は小学生が読者なので、北朝鮮は日本人を拉致して、日本に核・ミサイルの脅威を与えている危険な国だと真実を書くべきです。
 
このような記事を書いた「森忠彦」は、朝鮮系日本人・在日朝鮮人かと疑います。
 
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私は本ブログ2011年8月18日の記事でも取り上げていますが、毎日新聞には天皇陛下に不敬発言をする在日記者がいますし、日本人変態記事を世界中へ発信するなど、反日丸出しの捏造記事が多い新聞社です。
 
>こうした不可思議な国になったのは第二次世界大戦後のこと。しかも、日本の戦前の支配も原因の一つでした
 
小学生に捏造した歴史を洗脳するな!、これでは日教組・全教の赤い悪魔の教師と同じで、毎日小学生新聞は有害図書に指定すべきです。
 
朝鮮戦争・南北分断などの原因は、日本には何一つもありませんし、日韓併合から大東亜戦争終結までの日本が、朝鮮半島の近代化に尽力をしたことが歴史の真実です。
 
1910年(明治43年)8月22日(調印日:公布29日)、日本と韓国は「日韓併合条約」(韓国併合ニ関スル条約)を締結して、朝鮮半島は正式に「日本国朝鮮地方」になりました
 
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日韓併合で日本は、現在の試算で約20兆円もの莫大な資金を朝鮮半島に投入して、朝鮮の近代化に尽力をしたことにより、朝鮮は日本統治前とは比べられないほど、医療・教育・生活などの水準が高まりました。
 
日本による朝鮮への諸政策の結果、朝鮮では1920年~30年代のGDP平均成長率は約4%(1920年代の世界経済は2%以下・日本は3%強)まで高まりました。
 
朝鮮の1人当たりの国民所得は、1910年代の約40ドルから約80ドルまで倍増し、耕作地は246万町から449万町まで拡大して、米の反当り収穫量は、0.5石から1.5石まで3倍増になりました。
 
朝鮮人の人口は、1300万人から2600万人に増加して、平均寿命は24歳から56歳まで延びました。
 
日本は、それまで朝鮮で続いていた、階級による身分差別の撤廃、両班による搾取・虐待から農民を救い、残酷な拷問や刑罰や一族の罪人連座法を廃止するなど、人権尊重の法治国家の基礎をつくりました。
 
日本は朝鮮へ学校教育制度を導入して、朝鮮総督府は小学校段階からハングルを教える教科書を用意し、日本が建てた5200校の小学校で朝鮮人に読み書きを教えました。
 
 
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韓併合時代の朝鮮語の教科書
 
また、日本は朝鮮人から言葉を奪うどころか、朝鮮人が母国語の読み書きができるように文字を整備・普及をさせて、85%の朝鮮人に創氏改名を許可しました。
 
日本が委任統治時代の、1920年代のパラオの町並みの写真の右側にある店舗には、韓国・朝鮮人が1910年の日韓併合により奪われたと歴史を捏造している、ハングル文字の看板があります。
 
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日韓基本条約締結時に、統治国である日本は統治されていた韓国へ全ての財産を無償で与えましたが、これは過去の戦争において世界中でも例をみない事で、統治国の所有物とは、たとえ統治された民族が独立をしても統治国の物です
 
日本は韓国に、朝鮮半島に残した海外資産、病院・学校・警察署・鉄道・裁判所・上下水道・公園・教育機関・道路・農地・工場など、日本が莫大な資産を投じて建設・整備し続けて来た、日本の財産の全てを与えています。
 
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平壌府営業の市内電車
 
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新興工業都市、興南
 
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世界最大級の水力発電所、水豊ダム
 
日本が朝鮮半島に残した総資産について、GHQの試算では、1945年8月15日時点で1ドル=15円で、総資産は891億2000万円、現在の価格に換算すると16兆9300億円に相当します。
 
GHQの試算で、「北朝鮮」に限定して計算すると、日本が1945年当時に朝鮮半島の北朝鮮地域に残した資産総額は、現在の価格に換算して約8兆7千8百億円に相当します。
 
>紀元3?5世紀ごろに全盛を迎えた「高句麗王朝」のころは、日本よりもはるかに進んだ文明国家があり
 
寝言は寝て言え!、そもそも、高句麗と今の朝鮮とは関係がありません。
 
4世紀頃(391年、倭が、海を越えて襲来し、百済や新羅を破って服属させてしまった「広開土王碑」)から663年の「白村江の戦い」までの朝鮮半島は、九州などと同様に日本(倭国)の一部でした。
 
 
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朝鮮の歴史 

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世紀 日本(倭)の一国。
7世紀 中共(唐)の属国。
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世紀 モンゴルの属国。
14
世紀 中共(明)の属国。
17
世紀 :中共(清)の属国。
20
世紀 前半:日本国。
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世紀 後半:北半分がソ連、南半分がアメリカの属国。

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>当時の日本は高句麗の美しい文明をそのまま、コピペしながら輸入し、やがて独自の文化を生み出していったのです
 
毎日新聞のコピペについては、私が本ブログ開設当初より日々御来訪を頂いて、式典等でもお会いしている「正しい歴史認識、国益重視の外交、核武装の実現」様の記事の一部をご紹介させて頂きます。
 
 
 
古来より先進的な文化や技術は、日本から朝鮮半島に伝わった。


勾玉

勾玉とは縄文時代極初期より伝わる日本固有の装身具で、朝鮮半島へも伝播した。

韓国で多量の縄文系遺物が出土する「東三洞貝塚」からは縄文前期のものと同様のケツ状耳飾が出土している。

現在朝鮮半島で見つかっている勾玉の大部分が日本からの交易品であり、新羅の王冠にも勾玉が使用されているのも注目したい。

勾玉の材料となる翡翠自体東アジアでは日本の糸魚川でしか産出されず、その美しい翡翠で作った勾玉は支那や朝鮮半島の権力者達を魅了してきた。

縄文時代中期の長者ヶ原遺跡からは、ヒスイの大珠や勾玉、加工道具、工房跡などが続々と出土され、6000年前の世界最古の勾玉文化が実証された。

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勾玉


土器

土器は、日本最古の土器(1万6500年前)がほぼ世界最古の土器と考えられている。

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大平山元1遺跡(青森県外ヶ浜町)の日本最古(世界最古の可能性も)の土器


鉄器

鉄器も、日本から朝鮮半島に伝わった。

日本最古の鉄器は、 福岡県糸島郡二丈町 の石崎・曲り田遺跡の住居跡から出土した紀元前3~4世紀の板状鉄斧(鍛造品)の頭部とされている。

後漢書・東夷伝によると、辰韓について『倭、馬韓並從市之。凡諸貿易、皆以鐵爲貨』という記述が見られる。

倭人は、朝鮮半島南部が三韓に分立していた時代から、朝鮮半島に行っており、鉄を貨幣のように用いて交易していた。

韓国で2世紀頃の製鉄遺跡が発見されたが、この地域の墓からは弥生時代の倭国製の土器のみが発掘された。

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福岡県糸島郡二丈町の石崎曲り田遺跡から出土した板状鉄斧


水田稲作技術

水田稲作技術は、朝鮮半島から日本列島に伝播したのではなく、日本列島から朝鮮半島に伝播したことが確定している。

水田稲作技術が日本から朝鮮半島に伝播したとする理由は主に2つ。1つは遺伝子工学の研究の成果で、もう1つは支那政府機関が20年以上かけて行った品種の調査だ。この2つが決定打になり朝鮮半島経由で日本に米が伝来した可能性がなくなった。


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支那大陸から日本へ稲作が直接伝来した裏付けとなる「RM1-b 遺伝子の分布と伝播」。日本の各所に点在するRM1-b遺伝子。
支那大陸では多くの品種に、RM1-b遺伝子を持つ稲が見付かったが、朝鮮半島ではRM1-b遺伝子を持つ稲は見付からなかった。


毎日小学生新聞は読者の小学生に、北朝鮮の捏造歴史を報道したので有害図書に指定すべきで、日韓併合から大東亜戦争終結までの日本が、朝鮮半島の近代化に尽力をしたことが歴史の真実です。
 
良識ある日本国民の皆様、毎日新聞についてご考慮下さい。
 
 
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転載元: 近野滋之『民族主義者の警鐘』


[転載]嘉吉条約とは、1443年に李氏朝鮮と対馬国の宗貞盛との間で結ばれた貿易協定

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嘉吉条約

 嘉吉条約(かきつじょうやく)とは、日本史での室町時代1443年(日本暦嘉吉3年)に李氏朝鮮対馬国宗貞盛との間で結ばれた貿易協定である。通交船や交易量の制限を定めたもの。また干支から名をとって癸亥約定とも。
 対馬からの歳遣船は毎年50隻を上限とし、代わりに歳賜米200石を李氏朝鮮から支給されることが確認された。これにより、文引制と合わせ対馬島内諸勢力の通交は宗氏本宗家の支配するところとなり、宗氏の領国支配が強化されることになる。
 それと当時に宗氏は李氏朝鮮の外藩としての立場も持つようになり、対馬藩版籍奉還でこの関係が解消されるまで、日朝間の申次的な役割を果たすことになる。
 
 1510年には三浦の乱が起こり一旦は関係が断絶するが、1512年壬申約条が結ばれ再び貿易は行われる。

関連項目

 
 
 

三浦の乱

 
 三浦の乱(サンポのらん)とは、1510年中宗4年)に朝鮮国慶尚道で起きた、対馬守護宗氏恒居倭人朝鮮居留日本人)による反乱。朝鮮名庚午三浦倭乱(경오 삼포 왜란)。
 
 
概要
 15世紀朝鮮半島南部に三浦と呼ばれる日本人居留地が存在し、宗氏を始めとする西日本諸勢力は三浦を拠点に朝鮮に通交をしていた。
 朝鮮にとってこうした通交は多大な負担であり、次第に制限を加えていく。それに対し宗氏にとって通交の制限は受け入れられるものではなく、両者の間に確執が生まれる(#交易の制限節参照)。
 また三浦居住の恒居倭の増加に伴い様々な問題が生じ、朝鮮は恒居倭に対し強硬な姿勢で臨むようになる(#恒居倭の増加節参照)。
 
 こうした中で蓄積された日本人の不満は、1510年に三浦の乱という形で爆発するが朝鮮に鎮圧される(#乱の展開節参照)。その結果三浦居留地は廃止され、通交も大幅な制限を受けることになり、宗氏は偽使の派遣や通交権の対馬集中といった活路を模索することになる(#乱の顛末節参照)。
 
 
乱の背景
 中世東アジアにおいて前期倭寇と呼ばれる海上勢力が猛威を奮い、朝鮮は討伐・懐柔・室町幕府への鎮圧要請など、様々な対応を余儀なくされる。朝鮮は農本主義を国是としており、本来なら国内で産出することの無い必要最小限の物資の入手を除けば外国との交易を必要としていなかった。
 しかし倭寇沈静化を図り、通交権をもって西日本諸勢力から倭寇禁圧の協力を取りつけ、また倭寇自体を平和的通交者へと懐柔していった。
 
 特に対馬は倭寇の一大拠点と目されており、対馬守護であった宗氏に対してもこうした協力が要請され、宗氏もそれに応え日朝交易に積極的に参加をしていった。
 朝鮮建国当初は入港場に制限はなく、通交者は随意の浦々に入港することが可能であった。しかし各地の防備の状況が倭寇に漏れるのを恐れ、交易統制のためもあり、1407年、朝鮮は興利倭船(米、魚、塩など日常品の交易をする船)の入港場を釜山浦・薺浦(乃而浦とも、慶尚南道昌原市)に制限し、1410年には使送船(使節による通交船)についても同様の措置が取られる。
 1426年、対馬の有力者早田氏が慶尚道全域で任意に交易できるよう要求したのに対し、拒絶する代償として塩浦(蔚山広域市)を入港場に追加した。これら釜山浦・薺浦・塩浦を総称して三浦と呼ぶ。
 
 
乱の顛末
 この事件により日朝の国交は断絶状態となる。これは宗氏以外の全ての受職人(朝鮮から官位を貰っている者)・受図書人(通交許可を受けている者)に対しても同様であった。
 しかしながら、交易で生計を立てている対馬と、胡椒・丹木・銅などの輸入を対馬に全面的に依存している朝鮮の双方は折り合いを付ける必要に迫られ、1512年壬申約条により和解が成立した。
 これにより交易は再開され倭館も再び開かれた。
 
 しかし、入港地は薺浦のみに制限され、歳遣船は半減、特送船の廃止、日本人の駐留の禁止、受職人・受図書人も再審査を受けるなど、通交は以前より制限されたものになる。
 また、暴動対策のため備辺司が設置されることになる。その後、薺浦一港での入港受入れは難しいとの理由から釜山浦も再び開かれるが、1544年蛇梁倭変が起こり再び国交は断絶する。
 1547年丁未約条を以って交易が再開されるが入港地は釜山浦一港に制限され、これが近代倭館へと続いていくことになる。宗氏にとって三浦の喪失と通交の制限は大きな痛手であり、日本国王使の偽使の派遣、通交権の対馬集中といった方策を持って三浦の乱による損失の穴埋めを図ることになる。
 
 
偽使の派遣
 壬申約条において通交に制限を加えられたのは、宗氏のように朝鮮にとって陪臣に当たる者達であり、朝鮮と同格である日本国王(室町幕府)の使節の通交を制限するものではなかった。
 宗氏はこの点に着目し、日本国王使の偽使を仕立て上げ通交を行うことになる。偽使の派遣は三浦の乱以前にも行われていたが、三浦の乱をきっかけに本格化することになる。また交易目的だけではなく、三浦の乱や蛇梁倭変の講和のような重要な交渉時にも、有利な交渉を目論み偽の日本国王使を派遣している。
 
 こうした結果、三浦の乱後の1511~1581年までの間、日本国王使は二十二回通交することになるがその中で本物の日本国王使は二回に過ぎず、残りの二十回は宗氏の仕立て上げた偽使であった。
 この偽使の派遣により、壬申約条による交易の制限は事実上有名無実化されることになる。日本国王使の派遣には朝鮮が室町幕府に発行する象牙符が必要であった。
 象牙符は大友氏大内氏が所持するものであり、偽の日本国王使の派遣には大友氏、大内氏の協力が欠かせず、宗氏は両氏との関係の緊密化に腐心することになる。

転載元: 日本の海が安全で美しくあれ(尖閣・竹島・対馬・水俣・徳山・福島)

[転載]長崎県の漂流・漂着ごみ(海岸漂着物)対策

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長崎県の漂流・漂着ごみ(海岸漂着物)対策
   本県の海岸においては、毎年多くのごみが漂着し、景観、自然環境、水産資源等への影響が深刻な問題となっています。

   このため、平成21年7月に制定された海岸漂着物処理推進法に基づき、海岸漂着物等の処理対策について「長崎県海岸漂着物対策推進計画」を策定し、国、市町、民間団体等と連携を図りながら海岸漂着物の回収処理や発生抑制対策など、総合的な海岸の環境の保全を図ることとしております。 対馬市海岸における漂着ごみの一例
対馬市海岸における漂着ごみの一例


漂流・漂着ごみを発生させないために

   海岸漂着物を削減するためには、ゴミそのものの削減やポイ捨てをしないこと等が重要です。 河川や海岸付近でゴミや物などが飛散して河川や海に流れ込まないように注意しましょう。
              

危険物を発見した場合の対応

   注射器等の医療系廃棄物や発炎筒、液体が入っている廃ポリタンク等の危険物を発見したときは、 絶対に触れることなく、県(廃棄物対策課、県立保健所)又は市町へ連絡してください。



海岸漂着物の違法焼却(野焼き)の原則禁止について

   廃棄物処理法第16条において、「何人も、みだりに廃棄物を捨ててはならない。」と規定されており、違反者には厳しい罰則が科せられます。
  また、廃棄物の野焼きも一部の例外を除き禁止されており、違反者には不法投棄同様、厳しい罰則が科せられます。



長崎県の国際協力

   平成22年3月に長崎県平戸市において、海岸漂着ごみ問題に係る「2010 NOWPAP 国際海岸クリーンアップ(ICC)と海洋ゴミ管理ワークショップ」が開催されました。
○日程等:平成22年3月26日 海洋ごみ管理ワークショップ(平戸市田平町サムソンホテル)
              平成22年3月27日 海岸清掃(平戸市田の浦海岸)
○参加者:環境省、外務省、国土交通省、長崎県、平戸市、地域住民、日本・ロシア・韓国・
              中国の大学、NPO等関係者
○主 催:国際連合環境計画(UNEP)、北西太平洋地域海行動計画(NOWPAP)、地域調整部(RCU)
○後 援:外務省、環境省、国土交通省、長崎県、平戸市 等



日韓海峡海岸漂着ごみ 一斉清掃について

   日韓海峡海岸沿岸の8県市道では共同交流事業の一環として、市町、住民、民間団体の協力を得て、昨年度に引き続き、一斉清掃を実施しました。

 ○ 日韓8県市道の取組
   (日本側:山口県、福岡県、佐賀県、長崎県)
   (韓国側:釜山特別市、金羅南道、慶尚南道、済州特別自治道)


<統一スローガン>「みんなで守ろう 日韓海峡の未来へつなぐ 美しい海」

 期    間 5月31日(火)「韓国・海の日」~7月18日(月)「日本・海の日」        

 実施内容 8県市道内の日韓海峡の海岸の一斉清掃、啓発活動の実施



 ○長崎県の取組(実績)

 
 期   間 5月31日(火)~7月18日(月)
 
 実施内容 期間中に県内で一斉清掃を実施
         ・実施箇所 41箇所(10市、4町)
         ・参加人数 9,470人
        街頭キャンペーンでの啓発活動
         ・漂着ごみパネル展示、アンケート実施等

 主な取組 6月 4日 環境月間街頭キャンペーン(長崎市浜町ベルナード観光通)
        6月17日 小中高合同海岸清掃活動(佐世保市宇久町)
        7月10日 町内一斉海岸清掃(小値賀町)
        7月16日~18日
               海の日にちなみ県内各地で海岸清掃を実施
                (長崎市、松浦市、西海市、新上五島町等9市町)




リンク

○環境省(漂流・漂着ごみ対策)
 ・海岸漂着物処理推進法
 ・漂流・漂着ごみに係る国内削減方策モデル調査
 ・日本海岸沿岸地域等への廃ポリタンクの大量漂着について
 ・環境省パンフレット「漂着ゴミについて考える。私たちの海を守るには?」(A4版)など
○長崎県土木部「ながさきの水辺」
○長崎県水産部「ゆめとびねっと」
http://www.pref.nagasaki.jp/kankyo/waste/sangyo/hyochaku.html
 
 
 
 
 
 
漂着ごみ(長崎大学環境科学部)
 

転載元: 日本の海が安全で美しくあれ(尖閣・竹島・対馬・水俣・徳山・福島)

[転載]対馬へ行こう!対馬の歴史(紀元前6800年ころ九州産の黒曜石出土~663大和朝廷の朝鮮半島撤退~大宰府の宗氏支配~元・高麗連合軍の元寇

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対馬の歴史

古代~安土桃山時代 | 江戸時代 | 明治~現代

対馬にはいつから人が住んでいたの?

 2005年10月現在、対馬で最古の遺跡は上県町の越高(こしたか)遺跡です。紀元前6800年頃の縄文時代の遺跡で、朝鮮半島の隆起文土器と、九州産の黒曜石などが同時に出土しており、その当時から朝鮮半島と九州の間で人・モノの流れがあったことを示しています。

魏志倭人伝 ~史書への登場~

 対馬がはじめて歴史書に登場するのは3世紀頃、中国の三国志時代の「魏志倭人伝」(ぎしわじんでん)です。

「始めて一海を渡ること千余里、對馬(対馬)国に至る。 其の大官は卑狗、副は卑奴母離と曰う。居る所絶島、方四百余里可。土地は山険しく深林多く、路は禽鹿の径の如し。千余戸有り。良田無く、海の物を食べ自活、船に乗りて南北に市糴(=交易)す。」

 断崖絶壁が多く、山が深く、道は獣道のように細い。また、水田が少なく、海産物を食し、朝鮮半島や大陸と日本本土を小船で行き来して交易を行っていた・・・。

 この記述は、当時の対馬の状態を簡潔・的確に描写しています。現在でも対馬の島土の約89%は森に覆われており、農耕地は少なく、戦後に道路網が整備されるまで集落間の移動に船を用いることも多かったようです。
(写真:豊玉町烏帽子岳から浅茅湾を臨む)

白村江の戦い ~金田城と防人~

 
 古代の対馬に緊張状態をもたらしたのが、663年の白村江(はくそんこう、はくすきのえ)の戦い。当時の朝鮮半島には高句麗(こうくり)・新羅(しらぎ)・百済(くだら)の三国が分立していましたが、唐・新羅の連合軍により日本と同盟関係にあった百済が滅ぼされ、百済再興のために大和朝廷が送った援軍も白村江で大敗してしまいます。
 大和朝廷は朝鮮半島からの撤退を余儀なくされ、防衛のためにのろし台や防人(さきもり)が配置され、城が築かれました。美津島町箕形の金田城(かねだじょう、かねたのき。667年)には日本最古級の朝鮮式山城の遺構がよく残っており、国の特別史跡に指定されています。

 現在、金田城には登山道が整備され、山頂からは古代の防人たちも見たであろう朝鮮半島方面の水平線を臨むことができ、歴史のロマンに思いを馳せることができるトレッキングコースとして人気です。

阿比留氏と宗氏 ~中世対馬の有力者~

 現在の対馬でもっとも多い姓は「阿比留」(あびる)です。本土の人は「あひる」と読んでしまうこの姓のルーツは、平安時代まで遡ることができます。阿比留一族は交易などの実権を握って対馬で大きな勢力を持っていたようですが、鎌倉時代になると大宰府との関係が悪化し、惟宗(これむね)氏によって支配権を奪われます。惟宗氏はやがて宗(そう)氏を名乗り、鎌倉時代から江戸幕末まで600年続く対馬島主・対馬藩主の家系となりました。
 伝説では、大宰府の命を受けた惟宗重尚(これむねしげひさ)以下200騎が厳原町豆酘(つつ)に上陸し、阿比留氏と死闘を繰り広げ、美津島町鶏知(けち)で阿比留平太郎国時を討ち取り、上対馬町舟志(しゅうし)で阿比留禅佑坊を敗死させ、対馬の支配者となった、とされています。
 惟宗重尚は伝説上の人物であり、その武勇伝も後の世に生み出されたもののようですが、宗氏による阿比留氏追討の伝説は対馬では長く信じられてきました。
 宗氏は平氏の血をひくと自称しており、また、源平合戦で壇ノ浦に沈んだ安徳帝の子孫であるとも称し、厳原町久根田舎には安徳天皇の参考陵墓があります。宗姓を名乗ることができたのは島主・藩主だけであったため、現在島内に宗姓の人はいません。
 ちなみに阿比留氏は、上総国安蒜(あびる)庄の出身であるとか、蘇我氏の末裔であると称しており、対馬で最も多い姓となりました。

元寇 ~国境の島を襲った悲劇~

 
 
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   阿比留氏に代わって対馬を統治することになった宗氏ですが、鎌倉時代から江戸幕末まで続くその治世は決して平坦なものではありませんでした。1274年、宗資国(助国)の時代には、元寇軍3万3000(蒙古2万5000・高麗8000)のうち約千騎が小茂田浜(こもだはま。現在の金田小学校周辺とされている)に上陸、それを迎え撃った資国以下80余騎が全滅しています。
 宗資国の首と胴体は、お首塚・お胴塚に別々に埋葬されており、戦いの激しさを伝えています。
 
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 対馬に上陸した元・高麗連合軍は暴虐の限りを尽くし、島人は未曾有の惨状に巻き込まれました。元軍の撤退後、対馬を中心とする倭寇の活動が激しくなり、高麗朝を滅ぼす原因のひとつとなりますが、背景には元寇への復讐という意味と再び元寇が起きないようにする防衛の意味がありました。
 
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 68歳であった宗資国はのちに軍神として祀られ、毎年11月に行われる小茂田浜神社大祭には、宗氏と家臣の子孫たちが甲冑に身を固めて参加し、海に向かって弓を鳴らす鳴弦の儀式が行われます。
 
 
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倭寇 ~海賊たちの時代~

 
 13世紀から16世紀にかけて、東アジア一帯で猛威をふるったのが「倭寇」(わこう)と言われる海賊集団でした。倭=日本人等、寇=侵略、であり、北九州(対馬・壱岐など)や瀬戸内海の漁民・豪族及びアジア人により構成されていたと考えられています。
 古来よりこれらの地域では海外との交易が盛んでしたが、卑劣な侵略である元寇への報復の意味及び防衛のためであり、日本・朝鮮の中央政府が弱体化したり、戦争や対外的な緊張により交易ができなくなると、盛んに行為を行うようになりました。
 倭寇の行為は熾烈をきわめ、それが高麗王朝の滅亡を早めたと言われています。

 倭寇に悩まされた李氏朝鮮は、倭寇の本拠地とされた対馬の武力鎮圧を試みたり(1419年応永の外寇)、食料が自給できないことが海賊行為の原因であると推察し、対馬の有力豪族や対馬島主である宗家に官位を与え、貿易を認める等の懐柔策を取ります。
 1443年(嘉吉3年)には宗家と李氏朝鮮の間で嘉吉条約(貿易協定)が結ばれ、これより宗家は朝鮮との貿易権をほぼ独占することになり、また、室町幕府と明国の間で勘合貿易が行われるようになったため、倭寇の活動は次第に下火になっていきます。
 後期倭寇は、明国の海禁政策(貿易制限)によって生活手段を奪われた中国人・ポルトガル人・イスパニア(スペイン)人・博多の商人などが中心となっており、正確には「倭=日本」寇とは呼べないものである。

 対馬市美津島町の西部にある尾崎地域は、一大勢力であった早田氏の拠点の一つでした。尾崎の北端にある水崎遺跡の発掘の結果、陶磁器の9割近くは朝鮮製で、その他に東南アジア製の陶器等も見つかっており、早田氏が朝鮮・中国・東南アジアにいたる広い交易圏を持っていたことをうかがわせます。

朝鮮出兵と和平交渉 ~宗義智の人生~

 
 宗家宗義智(そう よしとし)は、豊臣秀吉による朝鮮出兵と、徳川家康による和平交渉という最も困難な時代に生きた島主でした。天下統一を果たした秀吉が次に目指したのが大国・明の支配であり、宗義智や小西行長の反対を押し切り、朝鮮半島への出兵(文禄・慶長の役)が計画されます。
 先導役を命じられた義智は、義父でもある行長の密命を受け、水面下でさまざまな和平交渉を行ったと言われています。日本軍は一時は漢城(ソウル)・平壌(ピョンヤン)を陥れますが、李舜臣率いる朝鮮水軍に補給路を絶たれ、また明国の援軍と朝鮮義勇兵の抵抗に遭い、秀吉の病死によって撤退を余儀なくされます。

 
 朝鮮に兵を送らなかった家康は着実に力を蓄え、関ヶ原の戦いを制して天下人となります。関ヶ原の戦いにおいて、義智は義父の行長とともに西軍(三成方)に味方しますが、小西行長は敗戦後に処刑、義智の妻であった行長の娘マリアは離縁され、長崎で一生を終えたと言われています。義智は、家康によってお咎め無しとされ、断絶していた朝鮮との関係修復を命じられます。
 
 李氏朝鮮は強硬に拒絶しますが、北方で勢力を拡大していた女真族への防備の必要もあり、家康から先に国書を通じること等を条件に通信使の派遣を承諾し、1607年に最初の通信使(回答兼刷還使)が派遣されます。

 秀吉の朝鮮出兵、妻との離縁、戦後の和平交渉など苦難に満ちた人生を送った宗義智は、江戸幕藩体制においてその功績を認められ、初代対馬藩主として元和元年(1615年)、その波乱に満ちた生涯を終えました。

 父・義智の苦労を偲んだ宗義成によって菩提寺が建立され、義智の法号から万松院と名付けられました。義智の妻マリアはキリシタンでしたが、厳原町の八幡神社の末社である今宮若宮神社に祀られています。

古代~安土桃山時代 | 江戸時代 | 明治~現代
 
 
 
 
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考古学的に見ると、対馬の中心地は各時代で少しずつ移動したように見える。

・縄文時代 … 上県町~峰町 → 越高遺跡、志多留貝塚、佐賀貝塚など
・弥生時代 … 峰町~豊玉町 → 三根川流域の井手壇、高松壇、浅海湾岸のシゲノダン遺跡など
・古墳時代 … 鶏知周辺 → 根曽古墳や出井塚古墳などの前方後円墳
・古  代 … 国府(厳原)
 
 
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動画
【新羅の入寇・犠牲者への鎮魂】_韓国・朝鮮人の日本侵略①
 http://www.youtube.com/watch?v=rvyl8TvlIjk&feature=fvwrel



Hojo Tokimune Second Mongol Invasion
 http://www.youtube.com/watch?v=TLJIBDHDj9M&feature=related

Hojo Tokimune Munemasa Died for Japan 北条 宗政
 http://www.youtube.com/watch?v=UjKWvP92Ous&feature=related

転載元: 日本の海が安全で美しくあれ(尖閣・竹島・対馬・水俣・徳山・福島)

[転載]対馬の歴史  縄文~1600年の関ヶ原

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対馬の歴史

縄文時代~室町時代 | 江戸時代 | 明治時代~現在

縄文時代

紀元前6800年頃 朝鮮系土器・九州系石器の出土
 越高遺跡(上県町)から、隆起文土器(朝鮮半島系)・九州産黒曜石の鏃(矢じり)や銛(もり)が出土。縄文時代早期から、対馬では朝鮮半島・九州本土と交流・交易が行われていたことをうかがわせる。
 
紀元前4000年頃 北部九州との交流
 佐賀貝塚(峰町)から縄文人骨・阿高式式土器(北部九州系)・建物跡・腕輪などの装飾具が出土。人骨は長崎大学医学部が所蔵。
 
縄文時代中期 朝鮮半島との交流
 豊玉ヌカシ遺跡(豊玉町)から櫛目紋土器・二重口縁土器等朝鮮系の土器が出土。この時代にも朝鮮半島との交流が続いていた。
 
紀元前3200年頃 西北九州との交流
 志多留貝塚(上県町)から鐘崎式土器、佐賀県伊万里産の黒曜石や貝製腕輪が出土。

弥生時代

弥生時代前期・中期 稲作の伝播
 志多留貝塚(上県町)から大陸性の石ノミ、石包丁が出土。わずかながら対馬に稲作が伝えられた可能性がある。志多留には、鶴が一本の稲を運んできて、それから稲作が始まったという伝承がある。
 
2世紀後期 九州・朝鮮・中国との交流
 塔の首遺跡(上対馬町)から、北九州産の広形銅矛、楽浪郡の銅釧(腕輪)、中国製の青銅鏡が出土。国際色が豊かで、さかんに交易が行われていた様子がうかがわれる。
 
3世紀 魏志倭人伝
 魏志倭人伝(陳寿 233~297)に対馬国に関する記述が登場。日本は卑弥呼の時代、中国は三国志の時代。

「始めて一海を渡ること千余里、對馬(対馬)国に至る。 其の大官は卑狗、副は卑奴母離と曰う。居る所絶島、方四百余里可。土地は山険しく深林多く、路は禽鹿の径の如し。千余戸有り。良田無く、海の物を食べ自活、船に乗りて南北に市糴(=交易)す。」

(断崖絶壁が多く、山が深く、道は獣道のように細い。また、水田が少なく、海産物を食し、朝鮮半島や大陸と日本本土を小船で行き来して交易を行っていた。)

飛鳥時代・古墳時代

4世紀 大和朝廷の影響
 出居塚古墳(美津島町)は前方後円墳で、銅鏃(矢じり)・管玉等が出土。前方後円墳は大和地方で発達した古墳の形態であり、この時代にすでに対馬は大和朝廷の強い影響下にあったことを示している。
 
5世紀 大和朝廷の影響
 根曽1号墳(美津島町)は前方後円墳で、鉄族(矢じり)等が出土。
 
663 白村江の戦い
 唐・新羅連合軍に滅ぼされた百済を再興するため、大和朝廷の軍が海を渡るが、白村江(はくすきのえ、はくそんこう)の戦いで大敗する。
 
 
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664 防人・烽火
 国境防備のため対馬に防人(さきもり)が置かれ、烽火が8ヶ所設置される。防人は東国から徴発されたが、これは東国の勢力を削ぐ意図があったとも、白村江の戦いで九州・近畿の主力が壊滅していたためとも、言われている。防人の歌が万葉集に残されている。
 
667 金田城
 現在の美津島町箕形(みつしままち・みかた)に朝鮮式山城の金田城(かねたのき)が築かれる。滅亡した百済の築城技術によるもので、国の特別史跡に指定されている。
 
674 銀の産出
 対馬国司守忍海造大国が対馬で産出した銀を朝廷に献上。これが日本で初めての銀の産出となる。
 
676 統一新羅成立
 唐と連合した新羅によって百済・高句麗が滅ぼされ、唐の介入を阻んだ新羅が朝鮮半島を統一。首都は金城。
 
701 大宝の元号
 対馬で産出したと称する金を朝廷に献上したところ、これを慶んだ朝廷によって日本最初の元号「大宝」が起こされる。

奈良時代

736 遣新羅使船の停泊
 遣新羅使船、対馬の浅茅浦、竹敷浦に停泊。

平安時代

805 最澄の来島
 第16次遣唐使に同行した最澄が対馬の阿連(あれ)に帰着。行きの船は、4船中最澄の乗った船以外はすべて難破、帰りの船も流されて対馬に漂着した。当時、玄界灘を渡るのは命懸けだった。
 
894 新羅の賊船を撃退
 新羅の賊船大小100、約2500人が佐須浦に攻めてくるが撃退する。
 
936 高麗王朝成立
 新羅が滅亡し、王建により高麗王朝が建てられる。首都は開城。
 
1008 豆酘の多久頭魂神社の梵鐘
 阿比留宿弥良家(あびるすくねよしいえ)の名が刻まれた豆酘寺の鐘が造られる。阿比留氏は対馬で大きな勢力を持っていた。
 
1019 刀伊の入寇
 正体不明の賊船50隻が対馬を襲撃。島民36人を殺害、346人を連れ去る。のちに賊の正体が女真族であることが判明し、刀伊の入寇と呼ばれるようになる。

鎌倉時代

1196 惟宗氏の入国
 対馬島主・藩主となる宗家の祖と言われる惟宗(これむね)氏の名前が、対馬の在庁官人の中にはじめて見られる。
 
1246 惟宗氏と阿比留氏の戦い
 大宰府の命により惟宗重尚(これむねしげひさ)が、鶏知(美津島町)を中心に強い勢力を持っていた阿比留在庁(平太郎)を征討したと伝えられる。内山(厳原)の木武古婆神社には重尚が祀られている。また、小浦(厳原)には在庁田、在庁落としの地名が残されている。
 
1274 元寇(文永の役)
 元・高麗軍900隻・25000人が小茂田浜に来襲。元・高麗軍の一部が上陸し、それを迎え撃った宗資国(そうすけくに。助国とも)以下80騎と激突、宗資国一同は玉砕。島民に甚大な被害が出る。
 
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1281 元寇(弘安の役)
 第2回元寇が日本世界村(峰町佐賀?)に来襲。被害は不明。
 
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室町時代

1350 倭寇の活動活発化
 元寇以来、倭寇の活動が活発・過激になっていったため、高麗では倭寇対策が主要な政治課題になっていく。
 
1366 高麗国との交流
 高麗国王より倭寇の取り締まりの要請があり、宗家家臣を高麗へ派遣。高麗との通交が始まる。
 
1392 李氏朝鮮成立
 高麗の武官・李成桂により李氏朝鮮が成立。
 
1398 宗氏の対馬定住
 宗貞茂、筑前より対馬に来て峰町志多賀(みねまちしたか)に館を開く。1408年には峰町佐賀(みねまちさか)に府を置く。中世の対馬の中心地は峰町だった。
 
1419 応永の外冦
 倭寇の取り締まりに熱心だった宗家7代貞茂の死後、8代貞盛が幼少だったため倭寇の活動が活発化。倭寇の活動を抑えるため、李氏朝鮮1万7000の軍が浅茅湾に来襲。仁位郡の奴加岳(ぬかだけ)付近で合戦。奴加岳戦争とも言われる。
 双方100名を超える犠牲者が出て、これにより対馬と李氏朝鮮の関係は一時悪化するが、倭寇の活動に悩む李氏朝鮮と、朝鮮貿易が生命線である対馬の間で徐々に関係回復が図られていく。
 
1443 嘉吉条約(発亥約定)
 李氏朝鮮と通交条約である嘉吉条約(かきつじょうやく)を結び、歳遣船の定数を定める。これにより、宗家が朝鮮貿易の独占的な地位を占めるようになる。
 
1452 李氏朝鮮から使船が送られる
 8代貞盛が死去し、9代成職の封(領地)を継ぐ。朝鮮国王から弔礼と襲封祝賀の使船が送られる。
 
1456 朝鮮国から官位を受ける
 対馬の源茂崎が漂民救助の功によって朝鮮国王から官職図書(司直の職)を授けられる。最初の受職人となる。
 
1468 政治の中心が佐賀から厳原に移る
 宗貞国、政治の中心を佐賀(峰町佐賀)から国府(厳原)に移す。
 
1471 海東諸国記
 李氏朝鮮の重臣・申叔舟により海東諸国記が記される。当時の日本・琉球の歴史・地理・文化等を紹介した最初の総合的な資料で、対馬の8郡82浦も紹介されている。
 
1486 国府を中村に
 宗貞国、国府を中村(厳原町)に遷す。
 
1497 少弐氏の滅亡
 宗家の主筋にあたる少弐氏が滅亡し、名実ともに宗家が対馬の島主となる。
 
1510 三浦の乱
 朝鮮半島の3つの港に置かれていた倭館の居留日本人が、李氏朝鮮の貿易統制に反発して暴動を起こす。これにより朝鮮との国交は断絶。三浦の乱と呼ばれる。
 
1512 永正条約
 朝鮮と永正条約を結び、国交が回復する。歳遣船定数30隻。
 
1526 池の館
 館を中村から池の地に移し、今屋敷と称する。
 
1528 金石の館
 宗盛治の乱により池の館が焼け、金石に館を移す。
 
1546 宗姓が嫡流のみになる
 宗家の傍系諸家が宗姓を名乗ることが禁じられ、宗姓は島主・藩主のみとなる。

安土桃山時代

1579 宗義智が島主になる
 宗義智が宗家19代島主となる。
 
1591 清水山城築城
 豊臣秀吉の意を朝鮮国に伝えるために義智が渡朝するが朝鮮側を説得できず。府中(厳原)に清水山城が築かれる。
 
1592 文禄の役
 朝鮮出兵が始まる。小西行長(宗義智の妻である小西マリアの父)・宗義智らは先陣として出征する一方、水面下でさまざまな和平工作を行う。
 
 
1597 慶長の役
 第2回目の朝鮮出兵。李舜臣の水軍・明の援軍・朝鮮民衆のゲリラ行動により膠着状態に陥り、1598年の秀吉の死によって撤兵する。
 
1599 国交回復の試み
 宗義智が徳川家康から朝鮮との国交回復を命じられ、家臣を朝鮮に派遣したが全員帰国せず。
 
1600 関ヶ原の合戦
 宗義智・小西行長は西軍(三成方)につくが敗れる。行長は斬首、義智はお咎めなしとされるが、行長の娘で義智の妻・小西マリアとは離縁することとなる。マリアは長崎に渡り、一生を終えたと言われている。厳原八幡神社には、キリシタンであった小西マリアがまつられている。
 
縄文時代~室町時代 | 江戸時代 | 明治時代~現在
 
 
イメージ 6

転載元: アジア・太平洋貿易振興・環境保全・環境産業振興・歴史認識

[転載]破廉恥な韓国の対馬領有権主張

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韓国の対馬領有権主張

李承晩時代
 1949年(昭和24年)1月17日李承晩は対馬は韓国領として日本に「返還」を要求した。また、第二次世界大戦後に日本を占領した連合軍総司令部 (GHQ) に対し、韓国の李承晩政権は竹島だけでなく対馬についても、日本からの割譲を要求したが、GHQからは「根拠がない」として拒否された。
「對馬島の日」
 2005年(平成17年)3月18日、韓国慶尚南道馬山市議会は、島根県議会の「竹島の日」に対抗すると称して「對馬島の日」(대마도의 날)条例を在籍議員30人のうち出席議員29人全員の賛成で可決した。
 条例は「対馬島が韓国領土であることを内外に知らしめ、領有権確立を目的とする」と規定している]。これに対して韓国政府は馬山市に条例の撤回を要請した。
 また、対馬市議会の波田政和議長は2006年(平成18年)10月6日、馬山市議会に『對馬島の日』条例の廃止措置を要請したが、これに対して馬山市議会は「対応する価値がない」として条例を廃止しないことを明らかにした。
「対馬の領土確認および返還要求決議案」
 現在の韓国政府は李承晩時代のように対馬の領有を主張しているわけではないが、2008年(平成20年)7月21日、韓国のハンナラ党ホ・テヨルチョン・カビュン議員ら50人余の国会議員が「対馬は韓国の領土であり、日本は対馬を韓国政府に即時返還すること」を求める『対馬の大韓民国領土確認および返還要求決議案』を提出し、韓国国会の外交通商統一委員会に付託された。
 同案に対して世論調査機関リアルミーターが2008年7月に実施した19歳以上の男女700人を対象にした世論調査によると「日本に対馬返還要求すべき」との主張に賛成する人は50.6%、反対意見は33.5%である。
領有権主張の歴史的根拠
 李氏朝鮮が応永の外寇の最中、朝鮮国王世宗宗貞盛に宛てた書簡に「対馬の島たる、慶尚道の鶏林に隷す。本是れ我が国の地なり。載せて文籍に在り。昭然考うべし」と記し、2年後、対馬から朝鮮に派遣された使者は「本島(対馬)は本大国の牧馬の地なり」との返事を送った記録がある(『朝鮮世宗実録』元年7月庚申条及び3年4月己亥条)。
 この返答は偽使によるものと考えられ、15世紀の対馬の人びとに朝鮮への帰属意識があった証拠とはならないが、朝鮮側のこうした対馬観を当時の倭寇鎮圧にみられる強硬策の背景として考えることはできる。
申叔舟海東諸国紀』(1471年)の「日本国対馬嶋図」
 
 その後、朝鮮の領議政宰相)であった申叔舟1471年に編纂した『海東諸国紀』は日本国対馬島の図を掲載し、本文では対馬島を「日本国西海道に属す」として島内の事情を詳述している。
 16世紀に刊行された朝鮮の地理書『新増東国輿地勝覧』の「八道総図」には対馬が明確に朝鮮領として記述はしていないものの、地図には朝鮮に隣接する領土外地域もともに描かれており、北方国境である鴨緑江豆満江北側のの領土が地図内に描かれているとともに対馬も描かれている。
 この「領土外地域」を、現代の韓国では「八道総図」で対馬が朝鮮領として描かれていると間違って解釈して、これを根拠に対馬は韓国領だとする主張がある。
韓国の対馬領有権主張をめぐる動き
 これらの韓国側の主張に財部能成対馬市長は「主張は自由だが、対馬は先史時代以降ずっと日本。『魏志倭人伝』にも倭国の中に入っている。対馬が韓国領土というのはあり得ない」と発言している。
 2008年(平成20年)7月23日、韓国の退役軍人らで構成する抗議団21人が対馬市役所前で「独島は韓国領土、対馬も韓国領土」と主張する横断幕を掲げ抗議活動を展開、一部の市民と道路を挟んで対峙し、怒号が飛び交うなど騒然とした雰囲気に包まれた。
 2009年(平成21年)3月26日には、ソウルにある日本文化センターに火炎瓶のようなものをもった3人組の男が侵入し、「対馬は韓国領土」などと書いたビラを持って立てこもった。 2009年11月4日には、「対馬は韓国領」などと記載された文書や刃物などを持ちこんで、日本大使館に火を付け、大使館員を人質にしようとした男が逮捕された。
歴史教科書への領有権記載運動
 韓国の政府与党であるハンナラ党は韓国の歴史教科書(国定国史教科書)に対馬の領有権についての記述を推進することを決定している。
 
 韓国の対馬領有権主張はいずれも根拠がなく、低い国民性を垣間見ることができる。
 
 
 

転載元: 「教育再生」加害者に応分の償いを!反日教育を止めろ!

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