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[転載]実事求是 ~日韓のトゲ、竹島問題を考える~

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実事求是 ~日韓のトゲ、竹島問題を考える~
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■ 第1回 朴世堂の『鬱陵島』 (2007年12月25日掲載)
12月4日付の朝鮮日報は、朴世堂の「欝陵島」を根拠に「于山島はやはり独島であった」と報じた。この報道は「欝陵島」を分析した、韓国海洋水産開発院の柳美林博士の見解を反映したものである。
だが朴世堂の「欝陵島」は、『東国輿地勝覧』の記事に、文禄の役で捕虜となった僧侶の目撃談を加筆したもので、于山島を竹島(独島)とした事実はない。僧侶は丙午(1606年)の年、日本船で朝鮮に送還され、欝陵島を経由して半日で慶尚道の寧海に着岸していた。
 朴世堂が注目したのは、欝陵島から寧海までの所要時間である。当時、朝鮮では、朝鮮半島から欝陵島までの航程は二日とされていた。それを僧侶は、「天将に暁にならんとし、発船以来、日わずかに■(にちへんに甫)(日暮れ)、すでにして寧海の地面に到る」(暁の空になろうとする頃に欝陵島を出発し、日暮れ少し前に寧海に到った)と、半日の航程と語ったからだ。

そこで朴世堂は、『東国輿地勝覧』の記事を基に僧侶からの旧聞を加え、八百字程で「欝陵島」を作文したのである。その「欝陵島」で重要なのは、『世宗実録地理志』が「二島相去ること遠からず(于山島と欝陵島は、互いに離れていない)」とする部分を、朴世堂が「蓋し二島此を去ること甚だしくは遠からず(寧海からはそれ程遠くはない)」と書き直し、于山島と欝陵島の二島は、寧海からそれ程遠くない距離にあるとした事実にある。
 日韓はこれまで、この「二島相去ること遠からず」の解釈で争ってきた。韓国側は「二島相去ること遠からず」に次いで「望み見るべし」の一文があるため、欝陵島から竹島が「見える」と読み、欝陵島から竹島が見えることが、竹島を韓国領とする証拠としてきた。
だが朴世堂の「欝陵島」では、「(于山島と欝陵島の)二島、寧海を去ること甚だしくは遠からず」とし、「望み見るべし」も寧海から見た于山島と欝陵島のことと解釈している。

にもかかわらず柳美林氏は、朴世堂の「蓋二島此(寧海)を去ること甚だしくは遠からず」を、「およそ二つの島(欝陵島と于山島)はそれほど離れていない」と読み誤った。柳美林氏は「二島此を去ること」の「此」が寧海である事実を無視し、旧来の説を繰り返したのである。これは故意というより、漢文が読めないための誤謬である。
 朴世堂の欝陵島に対する描写は、「風浪息めば則ち尋常見るべし」とし、欝陵島から竹邊串(蔚珍県)に黄雀が群飛するとしたなど、詳細である。この知識は、朴世堂が二十歳の時、仲兄の朴世堅が歙谷県令として赴任した際、共に歙谷に下っていたことによる。歙谷県は欝陵島を管轄する蔚珍県とは同じ江原道に属し、海に面しているからだ。
 朝鮮日報の記事では、梨花女子大の碩学教授である慎■(かねへんに庸)廈氏が、「独島が我が領土であることを明確にする極めて重要な資料」とコメントしているが、朴世堂の「欝陵島」は、竹島が韓国領でなかったことを実証する、きわめて重要な文献だったのである。
 竹島問題が解決しないのは、韓国側があれこれと主張し、日本側が沈黙してきたからである。まして文献が読めていない状況で、日本の侵略を強調する論拠としてきた。だが実態はお粗末である。日本は今、その事実を明らかにし、当然の権利としての主張をする時にきている。
■ 第2回 金正浩以前の『朝鮮図』 (2008年1月7日掲載)
■ 第8回 歴史の事実(2008年4月30日掲載) 



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 外務省は2008年2月、竹島問題に関する小冊子「竹島問題を理解するための10のポイント」を刊行した。これに対し韓国の聯合通信は、総選挙の前日である4月8日になって俄かに「日韓新時代に竹島は日本領」と報じ、多くの韓国メディアも追随した。
 この小冊子に対しては、韓国の独島研究センターの諮問委員を務める半月城通信の朴炳渉氏が反論している。朴炳渉氏はその中で、一番の注目は1877年、太政官が「竹島外一島本邦関係之無し」とした太政官指令にあるとした。だが外務省の小冊子には、「その記述はなく、肩すかしに終わ」ったとし、その理由を「都合の悪い資料は公にしない方針なのか、それともその事実を内外にどう公表すべきかで結論が出なかったのか」と臆測している。
 そこで朴炳渉氏は、太政官指令は「竹島は日本の固有の領土」とする外務省にとって「アキレス腱的な存在」であると決め付け、その根拠として、島根県の『フォトしまね』の161号竹島特集で「外一島」を「現在の竹島とみられる」としたことを挙げている。だが太政官指令は、朴炳渉氏が理解するような「アキレス腱的な存在」ではない。それは『フォトしまね』で「現在の竹島とみられる」とし、断定を避けたことの中に理由がある。
 太政官指令の「外一島」にあたる松島は、その3年後(1880年)、欝陵島であったことが判明し、1881年には、竹島も欝陵島の東約二キロに位置する竹嶼とされていたからだ。それに太政官指令に関連する文書を収録する『公文録』には、島根県が提出した享保年間の大谷家の地図を縮写した「磯竹島略図」が所収され、そこでは磯竹島を欝陵島とし、松島を現在の竹島としているが、1870年代の地図には、実在しない竹島(アルゴノート島)とともに欝陵島が松島(ダジュレート島)として描かれ、錯綜としていたからである。
 その混乱が収拾し、「外一島」が欝陵島であったことが確認されたのは1881年、外務省の命で調査した北沢正誠の『竹島考証』と『竹島版図所属考』によってである。北沢正誠は1880年の天城艦の測量を根拠に、松島(欝陵島)を「古来我版図外の地」とし、竹島を欝陵島の東約二キロに位置する竹嶼として、「多年の疑義一朝氷解せり」としているからだ。
 この日本側の地理的理解は、1882年に欝陵島の現地踏査をした李奎遠の『欝陵島外図』にも踏襲され、1711年に捜討官の朴錫昌が作成した『欝陵島図形』で「所謂于山島」とされていた小島(竹嶼)には「竹島」と記され、今日も「チクトウ」として使われている。
 朴炳渉氏は、この歴史事実をどう理解するのだろうか。竹島問題を語る際、太政官指令そのものは「アキレス腱的な存在」ではない。一つの歴史事実が後世どのように変遷していったのか、そのプロセスを無視した批判こそが「アキレス腱的な存在」なのである。歴史の一部のみを見、文献を演繹的に解釈する限り、それは歴史研究に値しないからである。
 これと同じ現象は、「東北アジア歴史財団」が最近刊行した『19世紀東北アジア4カ国の島嶼紛争と海洋境界』、『国際法から見た日韓歴史問題』、『世界の領土紛争DBと植民侵奪の事例』にも見られる。ここでは日本による侵略という前提で、記述されているからだ。
 だが歴史の事実は、竹島の領有権を主張する歴史的根拠を持たない韓国側が竹島を不法に占拠し、事実無根の歴史を捏造しては、国際社会を欺瞞し続けているところにある。
 

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■ 第9回 韓国独島研究センター批判(2008年5月9日掲載)
■ 第10回 石島=独島説の誤謬(2008年5月20日掲載)
■ 第13回 朝日新聞、若宮啓文氏の罪(2008年7月30日掲載)
■ 第15回 事実無根、韓国側の「固有の領土論」(2008年9月5日掲載)                                              
■ 第17回 昭和26年の「総理府令24号」と「大蔵省令4号」について(2009年1月16日掲載)                                                  
         (2009年3月3日掲載) 
 



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転載元: アジア・太平洋貿易振興・環境保全・環境産業振興


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