ただしこの書物に記載された内容が真実であるかどうか定かではない。確実なのは1537年にリスボンを発ち、1539にマレー半島のマラッカに行き、現在の東南アジアを見て回り、富を蓄え、中国方面への貿易商を生業としており日本にも渡来していること、1551年フランシスコ・ザビエルに日本に教会を設立する為の資金を提供したこと、その後、ポルトガルに帰ろうと思ってインドのゴアまで戻っていたが、1554年にザビエルのいまだ腐っていなかった(といわれている)遺体を目にして、回心しイエズス会に入会、1556年にルイス・フロイスらと共に日本へ渡ったが、日本でイエズス会を脱退。1558年ゴアへ戻り同じ年にリスボンへ戻ったことなどである。『遍歴記』年代は記されていないが、おそらく1544年あるいは1545年に鉄砲を日本に初めて伝えた人物の一人とされている。
ピントはポルトガルの東アジアにおける植民地主義に対して、キリスト教の布教に見せかけたものとして鋭い評価を『遍歴記』の中で行っている。これは、後世においては一般的な見方となるが、当時においては斬新な見方であったといえる。
広州付近に来たとき、ピントはタタール人の旅行ののろさに苛立って、ピントと2人の仲間は、中国人の率いる海賊船に乗り込んで旅を続けたが、海が荒れて日本に流れ着き、イリヤ・デ・タニシュマつまり種子島に着いた。ピントはこれにより、ヨーロッパ人で最初に日本に入国したと主張した。
日本
数年後、『遍歴記』の前後関係から察するに1544あるいは45年ごろと推測されるが、ピントは日本へ初の渡航をおこない、火縄銃を日本に持ち込んだ。(ただし、鉄砲伝来は種子島氏の鉄砲記によると1543年9月23日とされる。)
この鉄砲伝来は当時内戦状態(戦国時代)にあった日本において急速に普及し、日本の軍事に大きな影響を与えた。ピントはこの後、中国のリャンポー(寧波)に到着したが、その地で、ポルトガル人貿易商達に日本の話をすると、商人達は日本との貿易に関心を持ち、ピントはこの商人達と日本へ向かうこととなった。しかし、ピント達はその航海で難破し、レキオ・グランデすなわち大琉球(現・沖縄島)にたどり着いたが、持っていた交易品によって海賊と思われ、処刑されそうになるが、ある身分の高い女性の取りなしで釈放された。
1549年に鹿児島を発つ際には何らかの理由で追われていたアンジェロともう1人の日本人をマラッカに連れて行きフランシスコ・ザビエルに引き合わせ、キリスト教に改宗させた。(ただし、ザビエルの伝記によると、ヤジロウと会ったのは1547年12月。)この後ザビエルはヤジロウらと共に1549年8月15日に日本に渡りカトリックを日本に伝えた。1551年にピントはザビエルに再会し共同で布教活動を行った。
日本への最後の旅
1554年、大友義鎮からの手紙がゴアに届き、その内容は洗礼を受けたいので宣教師をよこして欲しいとの旨のものであった。ピントは他の聖職者らと日本に同行することになる。このときの訪問では豊後の大友氏との外交が樹立されたが、大友家の諸事情により義鎮の改宗には失敗した。ただし、この22年後には義鎮は改宗した。
この日本へ1554年~1556年の旅では、ピントはザビエルの後継者と共にポルトガルの正式な外交使節として豊後の大名に派遣された。しかし、理由は不明であるが、1557年ピントはイエズス会を脱会する。日本におけるイエズス会の脱会者はピントが初めてであると記録されている。
ヨーロッパで最も早くに絶対主義を確立したポルトガルのアヴィス朝は海外進出を積極的に進め、1415年にポルトガルはモロッコ北端の要衝セウタを攻略した。この事件は大航海時代の始まりのきっかけとなり、以後、エンリケ航海王子(1394年-1460年)を中心として海外進出が本格化した。
ポルトガルの探検家はモロッコや西アフリカの沿岸部を攻略しながらアフリカ大陸を西回りに南下し、1482年にはコンゴ王国に到達、1488年にはバルトロメウ・ディアスがアフリカ大陸南端の喜望峰を回り込んだ。
また、1500年にインドを目指したペドロ・アルヴァレス・カブラルがブラジルを「発見」し、ポルトガルによるアメリカ大陸の植民地化が進んだ。以後ブラジルは1516年にマデイラ諸島からサトウキビが持ち込まれたこともあり、黒人奴隷貿易によってアフリカから多くの人々がブラジルに連行され、奴隷制砂糖プランテーション農業を主産業とする植民地となった。ブラジルはポルトガルに富をもたらすと同時にブラジルそのものの従属と低開発が決定づけられ、ポルトガルにもたらされた富はイギリスやオランダなどヨーロッパの先進国に流出し、イスパノアメリカの金銀と共に資本の本源的蓄積過程の原初を担った。
一方、1509年のディウ沖海戦で勝利し、インド洋の制海権を確保してマラッカ、ホルムズと更に東進したポルトガル人は、1541年~1543年には日本へもやってきた。ポルトガル人の到達をきっかけに日本では南蛮貿易が始まり、織田信長などの有力大名の保護もあって南蛮文化が栄えた。さらに、1557年には明からマカオの居留権を得た。
こうしてポルトガルは全世界に広大な植民地を獲得したが、国力の限界を越えた拡張とインド洋の香料貿易の衰退によって16世紀後半から徐々に衰退を始め、さらにモロッコの内紛に乗じて当地の征服を目指したセバスティアン1世が1578年にアルカセル・キビールの戦いで戦死したことにより、決定的な危機を迎えた。
スペイン併合後もポルトガルは形式上同君連合として、それまでの王国機構が存置されたため当初は不満も少なかったが、次第に抑圧に転じたスペインへの反感が強まり、1640年のカタルーニャの反乱(収穫人戦争)をきっかけとしたポルトガル王政復古戦争によりスペインから独立し、ブラガンサ朝が成立した。一方この時期に植民地では、スペイン併合中の1624年にネーデルラント連邦共和国のオランダ西インド会社がブラジルに侵入し、サルヴァドール・ダ・バイーアを占領した。
ブラジル北東部にオランダがオランダ領ブラジルを成立(オランダ・ポルトガル戦争)させたことにより、ブラガンサ朝の独立後の1646年に、これを危機と感じた王家の図らいによってブラジルが公国に昇格し、以降ポルトガル王太子はブラジル公を名乗るようになった。1654年にオランダ人はブラジルから撤退し、1661年のハーグ講和条約で、賠償金と引き換えにブラジルとポルトガル領アンゴラ(現アンゴラ)の領有権を認められた。
アフリカでは、アンゴラの支配を強化したポルトガルは1665年にコンゴ王国を事実上滅ぼした。また、この時期にモザンビークの支配も強化されたが、18世紀までにそれ以外の東アフリカ地域からはオマーン=ザンジバルによって駆逐された。南アメリカではトルデシリャス条約で定められた範囲を越えてバンダ・オリエンタル(現在のウルグアイ)にコロニア・ド・サクラメントを建設し、以降南アメリカでスペインとの戦争が続いた。
1696年にはブラジルでパルマーレスのズンビを破り、ブラジル最大の逃亡奴隷国家キロンボ・ドス・パルマーレスを滅ぼしたことにより支配を安定させ、1750年にはスペイン帝国とマドリード条約を結び、バンダ・オリエンタルと引き換えに、アマゾン川流域の広大な領有権を認められ、現在のブラジルに繋がる国境線の前進を果たした。
南蛮貿易
1543年に種子島にポルトガル船が到来した。ポルトガル船はその前年すでに琉球に到着していたが、琉球人はポルトガル船がマラッカを攻撃して占拠したことを知っていて、交易を拒否した。一方、日本の商人はポルトガル商船との交易を歓迎したため、ポルトガル船はマラッカから日本に訪れるようになった。
徳川家康はスペインとの貿易に積極的姿勢を見せ、京都の商人田中勝介を当時スペイン領のノビスパン(メキシコ)に派遣した。また、ポルトガル商人に対しては生糸の独占的利益を得ていた為、これを削ぐことを目的として京都・堺・長崎の商人に糸割符仲間を結成させた。家康の頃はキリスト教は禁止されてはいたものの貿易は推奨されていた。
しかし、その後の江戸幕府は禁教政策に加え、西国大名が勢力を伸ばすことを警戒したので海外との貿易を制限するようになった。交易場所は平戸と長崎に限られるようになり、1624年にスペイン船の来航が禁止され、1639年にポルトガル船の来航が禁止され、平戸での交易を禁止するなど鎖国体制が成立し、南蛮貿易は終了した。
ポルトガル人との貿易
ルネッサンス期の16世紀にヨーロッパ人は日本に到着し、極めて日本を賞賛した。マルコポーロが金の寺や宮殿の説明をしていたので、日本は黄金の国と考えられていた。しかし、火山地形による表層の鉱石の豊かさにより、大規模の鉱石発掘がされる前に工業の時代に突入した。日本はこの時代に銅と銀の主輸出国となった。
日本はこの時代、豊富な前工業時代的技術と高い文化を兼ね備えた洗練された封建社会であった。ヨーロッパ諸国よりも人口は多く都市化されていた。 初期に到着したヨーロッパ人たちは日本の職人の技能と金属細工に驚かされた。それは日本は鉄鉱石に乏しいという事実から来る。
それゆえ日本人はその限りある資源を職人の技術で有効利用することで有名となった。銅と鉄の品質は世界最高で、その武器は最も鋭く、紙の技術は並ぶ国がなかった。