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[転載]フェルナン・メンデス・ピントは鉄砲を日本に初めて伝えた人物の一人&ポルトガルの植民地主義

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フェルナン・メンデス・ピント
フェルナン・メンデス・ピント1509年? - 1583年7月8日)はポルトガル人冒険家、著述家。かれの業績は死後の1614年に刊行された『遍歴記』 (Peregrinacao) で知られる。
 ただしこの書物に記載された内容が真実であるかどうか定かではない。確実なのは1537年にリスボンを発ち、1539にマレー半島マラッカに行き、現在の東南アジアを見て回り、富を蓄え、中国方面への貿易商を生業としており日本にも渡来していること、1551年フランシスコ・ザビエルに日本に教会を設立する為の資金を提供したこと、その後、ポルトガルに帰ろうと思ってインドゴアまで戻っていたが、1554年にザビエルのいまだ腐っていなかった(といわれている)遺体を目にして、回心しイエズス会に入会、1556年にルイス・フロイスらと共に日本へ渡ったが、日本でイエズス会を脱退。1558年ゴアへ戻り同じ年にリスボンへ戻ったことなどである。『遍歴記』年代は記されていないが、おそらく1544年あるいは1545年に鉄砲を日本に初めて伝えた人物の一人とされている。
 ピントはポルトガルの東アジアにおける植民地主義に対して、キリスト教の布教に見せかけたものとして鋭い評価を『遍歴記』の中で行っている。これは、後世においては一般的な見方となるが、当時においては斬新な見方であったといえる。

広州付近に来たとき、ピントはタタール人の旅行ののろさに苛立って、ピントと2人の仲間は、中国人の率いる海賊船に乗り込んで旅を続けたが、海が荒れて日本に流れ着き、イリヤ・デ・タニシュマつまり種子島に着いた。ピントはこれにより、ヨーロッパ人で最初に日本に入国したと主張した。

日本 

 数年後、『遍歴記』の前後関係から察するに1544あるいは45年ごろと推測されるが、ピントは日本へ初の渡航をおこない、火縄銃を日本に持ち込んだ。(ただし、鉄砲伝来は種子島氏の鉄砲記によると1543年9月23日とされる。)
Map of Japan
 この鉄砲伝来は当時内戦状態(戦国時代)にあった日本において急速に普及し、日本の軍事に大きな影響を与えた。ピントはこの後、中国のリャンポー(寧波)に到着したが、その地で、ポルトガル人貿易商達に日本の話をすると、商人達は日本との貿易に関心を持ち、ピントはこの商人達と日本へ向かうこととなった。しかし、ピント達はその航海で難破し、レキオ・グランデすなわち大琉球(現・沖縄島)にたどり着いたが、持っていた交易品によって海賊と思われ、処刑されそうになるが、ある身分の高い女性の取りなしで釈放された。
 1549年鹿児島を発つ際には何らかの理由で追われていたアンジェロともう1人の日本人をマラッカに連れて行きフランシスコ・ザビエルに引き合わせ、キリスト教に改宗させた。(ただし、ザビエルの伝記によると、ヤジロウと会ったのは1547年12月。)この後ザビエルはヤジロウらと共に1549年8月15日に日本に渡りカトリックを日本に伝えた。1551年にピントはザビエルに再会し共同で布教活動を行った。
 ピントは1554年、ポルトガルに帰ろうとするが、その前に、ゴアでイエズス会に蓄えた財産を寄付し、入会し、修道士となった。このときにザビエルの遺体をゴアで目撃している。

日本への最後の旅

長崎平戸のザビエル像
 1554年、大友義鎮からの手紙がゴアに届き、その内容は洗礼を受けたいので宣教師をよこして欲しいとの旨のものであった。ピントは他の聖職者らと日本に同行することになる。このときの訪問では豊後大友氏との外交が樹立されたが、大友家の諸事情により義鎮の改宗には失敗した。ただし、この22年後には義鎮は改宗した。
 この日本へ1554年~1556年の旅では、ピントはザビエルの後継者と共にポルトガルの正式な外交使節として豊後の大名に派遣された。しかし、理由は不明であるが、1557年ピントはイエズス会を脱会する。日本におけるイエズス会の脱会者はピントが初めてであると記録されている。



16世紀ポルトガルの領土拡張。
 








 ヨーロッパで最も早くに絶対主義を確立したポルトガルのアヴィス朝は海外進出を積極的に進め、1415年にポルトガルはモロッコ北端の要衝セウタを攻略した。この事件は大航海時代の始まりのきっかけとなり、以後、エンリケ航海王子1394年-1460年)を中心として海外進出が本格化した。
 ポルトガルの探検家はモロッコ西アフリカの沿岸部を攻略しながらアフリカ大陸を西回りに南下し、1482年にはコンゴ王国に到達、1488年にはバルトロメウ・ディアスアフリカ大陸南端の喜望峰を回り込んだ。
 1494年にスペインとトルデシリャス条約を結び、ヨーロッパ以外の世界の分割を協定し、条約に基づいてポルトガルの探検家の東進は更に進み、1498年ヴァスコ・ダ・ガマインドに到達した。
 また、1500年にインドを目指したペドロ・アルヴァレス・カブラルブラジルを「発見」し、ポルトガルによるアメリカ大陸の植民地化が進んだ。以後ブラジルは1516年マデイラ諸島からサトウキビが持ち込まれたこともあり、黒人奴隷貿易によってアフリカから多くの人々がブラジルに連行され、奴隷制砂糖プランテーション農業を主産業とする植民地となった。ブラジルはポルトガルに富をもたらすと同時にブラジルそのものの従属と低開発が決定づけられ、ポルトガルにもたらされた富はイギリスやオランダなどヨーロッパの先進国に流出し、イスパノアメリカの金銀と共に資本の本源的蓄積過程の原初を担った。
 
 一方、1509年ディウ沖海戦英語版で勝利し、インド洋制海権を確保してマラッカホルムズと更に東進したポルトガル人は、1541年1543年には日本へもやってきた。ポルトガル人の到達をきっかけに日本では南蛮貿易が始まり、織田信長などの有力大名の保護もあって南蛮文化が栄えた。さらに、1557年にはからマカオの居留権を得た。

 こうしてポルトガルは全世界に広大な植民地を獲得したが、国力の限界を越えた拡張とインド洋の香料貿易の衰退によって16世紀後半から徐々に衰退を始め、さらにモロッコの内紛に乗じて当地の征服を目指したセバスティアン1世1578年アルカセル・キビールの戦いで戦死したことにより、決定的な危機を迎えた。
 アルカセル・キビールの戦いの余波は、最終的に1580年アヴィス朝断絶による、ポルトガルのスペイン・ハプスブルク朝併合に帰結した(スペイン帝国)。
 スペイン併合後もポルトガルは形式上同君連合として、それまでの王国機構が存置されたため当初は不満も少なかったが、次第に抑圧に転じたスペインへの反感が強まり、1640年カタルーニャの反乱(収穫人戦争)をきっかけとしたポルトガル王政復古戦争によりスペインから独立し、ブラガンサ朝が成立した。一方この時期に植民地では、スペイン併合中の1624年ネーデルラント連邦共和国オランダ西インド会社がブラジルに侵入し、サルヴァドール・ダ・バイーアを占領した。
 ブラジル北東部オランダオランダ領ブラジル英語版を成立(オランダ・ポルトガル戦争英語版)させたことにより、ブラガンサ朝の独立後の1646年に、これを危機と感じた王家の図らいによってブラジルが公国に昇格し、以降ポルトガル王太子はブラジル公を名乗るようになった。1654年にオランダ人はブラジルから撤退し、1661年ハーグ講和条約英語版で、賠償金と引き換えにブラジルとポルトガル領アンゴラ英語版(現アンゴラ)の領有権を認められた。
 
 アフリカでは、アンゴラの支配を強化したポルトガルは1665年コンゴ王国を事実上滅ぼした。また、この時期にモザンビークの支配も強化されたが、18世紀までにそれ以外の東アフリカ地域からはオマーンザンジバルによって駆逐された。南アメリカではトルデシリャス条約で定められた範囲を越えてバンダ・オリエンタル(現在のウルグアイ)にコロニア・ド・サクラメントを建設し、以降南アメリカでスペインとの戦争が続いた。
 1696年にはブラジルでパルマーレスのズンビポルトガル語版を破り、ブラジル最大の逃亡奴隷国家キロンボ・ドス・パルマーレスポルトガル語版を滅ぼしたことにより支配を安定させ、1750年にはスペイン帝国マドリード条約英語版を結び、バンダ・オリエンタルと引き換えに、アマゾン川流域の広大な領有権を認められ、現在のブラジルに繋がる国境線の前進を果たした。

南蛮貿易
 1543年種子島にポルトガル船が到来した。ポルトガル船はその前年すでに琉球に到着していたが、琉球人はポルトガル船がマラッカを攻撃して占拠したことを知っていて、交易を拒否した。一方、日本の商人はポルトガル商船との交易を歓迎したため、ポルトガル船はマラッカから日本に訪れるようになった。
 1557年にポルトガルがマカオの使用権を獲得すると、マカオを拠点として、日本・中国)・ポルトガルの三国の商品が取引されるようになった。
 織田信長豊臣秀吉は基本的に南蛮貿易を推奨した。スペインはポルトガルに遅れてアメリカ大陸を経由しての太平洋航路を開拓し、ルソン島マニラを本拠として日本を訪れるようになった。
 徳川家康はスペインとの貿易に積極的姿勢を見せ、京都の商人田中勝介を当時スペイン領のノビスパン(メキシコ)に派遣した。また、ポルトガル商人に対しては生糸の独占的利益を得ていた為、これを削ぐことを目的として京都・堺・長崎の商人に糸割符仲間を結成させた。家康の頃はキリスト教は禁止されてはいたものの貿易は推奨されていた。

 しかし、その後の江戸幕府は禁教政策に加え、西国大名が勢力を伸ばすことを警戒したので海外との貿易を制限するようになった。交易場所は平戸長崎に限られるようになり、1624年にスペイン船の来航が禁止され、1639年にポルトガル船の来航が禁止され、平戸での交易を禁止するなど鎖国体制が成立し、南蛮貿易は終了した。

ポルトガル人との貿易 

 ルネッサンス期の16世紀にヨーロッパ人は日本に到着し、極めて日本を賞賛した。マルコポーロが金の寺や宮殿の説明をしていたので、日本は黄金の国と考えられていた。しかし、火山地形による表層の鉱石の豊かさにより、大規模の鉱石発掘がされる前に工業の時代に突入した。日本はこの時代に銅と銀の主輸出国となった。
 日本はこの時代、豊富な前工業時代的技術と高い文化を兼ね備えた洗練された封建社会であった。ヨーロッパ諸国よりも人口は多く都市化されていた。 初期に到着したヨーロッパ人たちは日本の職人の技能と金属細工に驚かされた。それは日本は鉄鉱石に乏しいという事実から来る。
 それゆえ日本人はその限りある資源を職人の技術で有効利用することで有名となった。銅と鉄の品質は世界最高で、その武器は最も鋭く、紙の技術は並ぶ国がなかった。

転載元: 海洋文化交流の正しい認識と日本周辺の平和と安全


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