天草に神武天皇を祭神とする神社が多い 熊本には神武天皇を祭神にしている神社が74社あり、その内44社が天草で異常に多い。 2.天草の歴史 一時期、長崎県にも所属した程 熊本県宇土半島よりも島原半島に近いです。神代では“天の両屋”と称されました。地名の中で古代に関係ありそうな地名は無いかと探していて御所浦町が見つかりました。 景行天皇は巡行の際、船で葦北から宇土半島へ向かうとき嵐を避けるために天草諸島 御所浦町に寄港し御所を営んだ縁で、御所浦という由緒ある名が付いたという。船のとも綱を繋いだとも石が今に伝わっているといいます。この町にはカンヤマトイワレヒコ命(神武天皇)を祀る神社が5社あるところから、ここを調べれば、理由が解るのではないかと思うが、遙か遠い土地であり調査が出来ないがもどかしい。 中国大陸に面している地理的条件が、昔より外国から攻められていた反面、環シナ海文化圏に属している海外との交易も盛んでした。 戦国時代には明との貿易が盛んでした。また、当然ながら外国の文化 例えば、キリスト教にふれる機会もあり、異国の宗教にも慣れていたため、後年 受け入れる下地が出来あがり、西暦1558年から切支丹の布教が始まったとか、1566年島原半島を経由して長崎からキリスト教が伝わってきたとかいう様に、日本で早くから信者が他に比べて広まり易かったといえます。 1588年小西行長は国衆一揆鎮圧後、天草・宇土・八代・益城を豊臣秀吉から拝領し、1600年までの治世の間、熱心な推奨と庇護により、“隣人愛の思想“が受け入れられ、爆発的にが信者が増加したのではないかと思います。 加藤清正を含めた天草五人衆との戦いにより、昔から伝えられた古文書も戦火により失ってしまいました。このことが、神社に昔からの社伝が少ない理由ではないか。僅かな口伝と最近の文献に頼るしかないことは、非常に残念なことです。但し、加藤清正は戦後、天草だけでなく肥後国全体の神社を数多く復興・支援しています。 1603年~1637年間は肥前唐津城主 寺沢広高の所領となり、キリスト教禁止と検地による4万2千石という事実上無理な重税による収奪が続いました。 1637年~1638年の2年間において、歴史上有名な天草四郎を盟主にした島原・天草の乱が勃発し天草島民の過半数が戦死してしまいました。因みに原城に立て籠もり亡くなった人は女子供を含め2万8千人にも及ぶとい云います。 この乱が引き金となり、幕府は一層キリシタン禁制を強め鎖国への道を歩むこととなりました。乱後、天草は幕府の直轄地となり代官が65年統治時代となりました。この時の代官 鈴木重成は領内の重税と飢えに苦しむ人々を目の当たりにして幕府に石高半減を申し入れたが聞き入れられず切腹、2年後 養子の重辰時代にやっと2万1千石が認められた。 鈴木重成は ①天草を10組に編成し意思の伝達を図りました。 ②兄 重三を招き神仏の信仰を強くするため寺院(東向寺、国照寺、崇園寺、円性寺等)を創建し領民の心の安定を図りました。 ③他の藩から移民(薩摩155人、肥後170人)を移住させ産業を育成した。この移住計画は乱後50年も続き、1万人が20年後1万6千人になりました。 ④外敵から守るため遠見番所(富岡、大江、魚貫崎)を設置して海上を警戒した。等の良い治世をしました。 さらに、島原・天草の乱で亡くなりました1万人の首 約1/3を富岡の首塚にうめ供養した。これらの恩に報いるため本渡市に鈴木神社が創建され祀られています。因みに鈴木重成の先祖は和歌山県 熊野の関係らしい。 尚、「1642年 熊野三山で修行した天徳院梅雪を登用し飛龍権現宮(富岡)再建、1645年 諏訪人神社(湯舟原村)創建し天草郡祈願所とした。 さらに、1645年一町田八幡宮を再建した。江戸時代を通じて天草の神社には修験者が多かりました。現在、本渡市域でも、・・・十五社宮・・・八幡宮・・・諏訪宮・・・天満宮・・・若宮・・・熊野権現・・・大王宮など村々の氏神はじめ聚楽神、屋敷神など、我が国古来の天神地祀、やおろずの神々が復活のきざしを見せ始める。」(引用・参考資料⑩より一部引用) その後、島原藩あずかり78年→長崎代官兼任50年→明治維新では長崎県に編入→明治4年 白川県→明治9年にやっと熊本県に変遷を重ねた。 明治以降は出稼ぎが多いと聞く。歴史に翻弄されたといってよい。浜名志松さんが、天草には百姓一揆が頻発していますが、生活に窮したのではなく、強靱な精神風土があり、為政者に対する批判が噴出したと云うのもうなずける。 近代では、明治40年8月に新詩社同人5人(北原白秋、太田正雄、吉井勇、平野万里ら20才代と与謝野鉄幹35才)が九州旅行を試み、その時の紀行文が「五足の靴」という題名で残されています。 主に天草下島を島原半島から船で富岡の港に着き、海岸沿いを半時計方向に志岐→都呂々→下田北→下田南→高浜→大江天主堂や牛深を経由して大門港から宇土半島の三角へ向かい、その後、阿蘇に立ち寄っています。大江天主堂ではガルニエ神父と話しています。 3.天草の神社について 例1 阿村神社(あむらじんしゃ)は、熊本県天草郡松島町阿村1011(旧肥後国天草郡)に鎮座しています。祭神は、天照皇大神、神武天皇、八井耳命および阿蘇十二社の十五柱です。 このように十五柱が合祀されている神社を十五社神社といい天草に多い。十五社神社には幾つかの組み合わせパターンがあるので後日述べる予定です。 話を戻して、阿村神社の例祭は、10月秋季例祭 [通称]おくだり、[通称]おのぼりが執りおこなわれる。 重要なのは阿村神社の口碑伝説として、 「太古、景行・成務天皇の御代この天草島を統括し給いし皇族建島松命等の御守護神として天照皇太神・神武天皇・八井耳命の三神を同村古墳の所在地近傍に建立し祭られしに其の頃の土民も深く之の神を崇敬したりしが世の変遷とともに隔地なるを一同相議り村の中央に遷座せしといふ又肥後の国土を統括せしめ給いし阿蘇の国造健磐龍命外十二柱の神を同祭神に併合し十五社宮と称現今に祭られると言い伝え来れりこの口碑伝説を察すれば氏神と古墳とは大も密接の関係あると予想するにあり」 とあります。 ここで、建島松命とは誰なのか調べると、先代旧事本紀 巻第十 国造本紀には、 「志賀の高穴穂の朝の御世に、神祝命の十三世の孫 建嶋松命を国造に定賜ふ」 とあります。つまり、景行天皇の御子です第13代 成務天皇の御世 2世紀 弥生時代 卑弥呼の頃、天草国造に任命されたカミムスビの命の十三の孫ですと云います。 建嶋松命は天草の開拓神であったのでしょう。これは阿蘇の健磐龍命が開拓神で阿蘇神社の祭神として祀られたのに同様です。 天草の神社は創立年不詳が多い中で、 例2 引坂神社(ひきざかじんじゃ)は、熊本県天草郡五和町鬼池625に鎮座し、祭神は天照大神、神武天皇、健磐龍命および阿蘇十二神ですとしており、創立は不詳としながらも、前述の天草島神社誌によると「社家の系図によれば、本社創立は鬼池神社と同様、元暦(げんりゃく:1184~1185年 源義経が平氏を破った頃)以前にして今を去る凡そ770年前を想定することが出来る」とあります。 概ね1963-770=西暦1193年ということになり、12世紀といえば平清盛が肥後守(1137年)になり、平家 壇ノ浦で滅亡(1185年)し、鎌倉幕府成立(1192年)直後の頃と、創立年が推測される数少ない例です。 もう一つの推測できる例3として、天草地域ではないが、同じ熊本県上益城に鎮座する男成神社があります。ここの御由緒概記によると、 「神武天皇76年3月 健磐龍命 此の地に下向の際 皇祖の三神を創祀し給ふに 始り人皇第34代舒明天皇12年 更に阿蘇12座を勧請し 見立大明神と号す。途中略・・・以上の如く当宮は 皇祖の3 神を奉斎し相殿に2座 配祀として阿蘇12座を併せ祀り云々」とあります。 このように、最初に皇祖 の3神が祀られ その後、阿蘇12神が祀られる順序になっています。ここで、舒明天皇は、第34代目で7世紀(629~641年)飛鳥時代の遣唐使初めの頃に在位していました。 4.色々な意見
◇「天草独自の十五社宮は、海に生きた原住民、すなわち古代天草の海神族が信仰を寄せた環シナ海文化圏につながる龍宮が「ジュクサさま」「ジュウゴさま」と転訛していたものに「十五社の漢字をあて、いつしか天照大御神や阿蘇十二神をふくむ大和朝廷文化圏の神々十五柱をあて て併祀したものらしい。この十五社は、戦国時代まで天草郡に属していた薩摩の獅子島、長島、それに江戸時代まで天草と海 上交易が盛んだった肥後の高橋や松合にもあります。」
5.総括 結論は何かというと、阿村神社の口碑伝説より、成務天皇の御代(古墳時代~飛鳥/奈良時代の頃と思われます)に、天草島を統括した国造 建嶋松命の御守護神として天照皇太神・神武天皇・八井耳命の三神を祀りました。 その後、阿蘇の国造、健磐龍命外十二柱の神を同祭神に併合し十五社宮と称しました。十五社という名称は、古代天草の海神族が信仰を寄せた環シナ海文化圏につながる龍(神)宮が訛ったものに この字を当てました。併合の時期は阿蘇神社で12柱が祀られるようになった12世紀(平安時代末期~鎌倉時代初期)以降しかあり得ないと考えられます。 神社は小西行長や度々の戦火で破壊されたが、加藤清正により支援・復興され、さらに鈴木重成により一層 復興・発展された。 |