歴史
戦国時代の1566年、修道士ルイス・デ・アルメイダが天草五人衆の1人志岐鎮経(麟泉)(下島・志岐城主)に招かれ、キリスト教がもたらされた。志岐には教会が建てられ、トルレス、ヴィレラ、オルガンチノらの宣教師も来島し、1568年、1570年には宗教会議も行われた。信仰は広まり、信者は1万5000人、教会堂は30あまりにも達したという。豊臣政権の下で天草はキリシタン大名小西行長の領地となり、キリシタンはその保護を受けることになった。
このころまでは天草諸島と肥後国天草郡は一致していた。しかし、薩摩の島津忠兼が天草に侵攻し、肥後の相良氏に追われていた長島の長島氏を庇護下においた。これにより1581年、長島・獅子島などが薩摩国出水郡に編入された。このときの国境が現在の県境ともなっている。
1591年、宣教師養成のための天草コレジオ(学林)が羊角湾岸の河浦に設置され、全寮制の集団教育がなされた。天正遣欧少年使節の4人もここで学んでいる。少年使節は日本にグーテンベルク式活版印刷機を持ち帰ったが、天草ではこれを用いて「伊曽保物語」「平家物語」「羅葡日対訳辞典」などの「天草本」と呼ばれる印刷物が刊行された。
関ヶ原の戦いの後、敗れた小西行長は斬首され、天草は唐津藩の飛び地となる。領主寺沢広高は現在の苓北町に富岡城を築いて城代を置き、検地を行い天草の石高を4万2千石とした。しかしこれは実際の生産高の倍にあたり、そのため過酷な税の取り立てとキリシタンの弾圧が行われた。さらに飢饉が続いたことも要因となって、1637年、島原・天草の乱が勃発した。
乱後、山崎家治が富岡藩4万2千石で入封し、富岡城の再建、離散した領民の呼び戻し、新田開発などに当たった。1641年、家治はその功績により讃岐丸亀藩5万3千石に加増移封され、天草は天領となった。代官鈴木重成は天草の復興に努める一方、再検地の結果に基づき石高を実収に見合うよう半減すべきと幕府に訴えた。しかし、再三の訴えも聞き入れられなかったため、重成は上表文を残して自刃したという。この主張は1659年になって認められ、天草の表高は2万1千石となった。天草の本渡には重成を祀る鈴木神社が建立され、名代官として今も人々に慕われている。
上天草市史大矢野町編1 原始・古代「上天草いにしえの暮らしと古墳」のご案内
「上天草いにしえの暮らしと古墳」は、上天草市大矢野町の旧石器時代から古代に至るまでの歴史をまとめた本です。考古学研究において著名な甲元眞之先生(熊本大学文学部教授)と杉井健先生(熊本大学文学部准教授)に編集していただきました。「上天草市大矢野町古墳分布図」や大矢野に所在する古墳の現状を可能な限り調査し記載しており、本書を手に古墳めぐりができるように記述しています。
上天草市大矢野町には、数多くの古墳が存在しています。本書を読むことによって、上天草にはこんなにも古墳が残っているということを知っていただき、海に囲まれた上天草の古(いにしえ)の時代を思い起こす機会となればと思います。
矢嶽巨石群(やだけきょせきぐん) 上天草市
更新日:2009年12月14日
所在地
上天草市姫戸町姫浦
利用案内
駐車場・トイレ なし
解説
古代のロマン漂う巨石群
■森林の中から忽然と姿を現す謎の巨石の群れ
別名「観海アルプス」と呼ばれる天草の九州自然歩道を歩いていくと、矢嶽の中腹に忽然と姿を現す巨大な石の数々…。砂岩の自然石が地表に露出しているだけとも見えますが、一方では、古代の人々が何かの祈りのためにつくった遺跡ではないかという人もいます。それが、この「矢嶽巨石群(やたけきょせきぐん)」です。
■古代神殿を思わせる巨石群
宇宙船のような形をした矢嶽の頂上石とその頂上石を山の神とする矢嶽神社を結んだ線上のちょうど中間地点に、まるで古代神殿を思わせる巨大な巨石群があります。巨石は、長さ13m、幅6m、厚さ1.5mの1枚の巨石で、その岩を5つの小さな岩が支えています。一見すると人間が造ったように見えるため、ヨーロッパ西北部にも点在しているドルメン(注1)ではないかという人もいます。
巨石群は山の斜面に沿ってありますが、その内部が空洞になっている部分があり、人工的な空間のようにも見えます。中は祭壇(さいだん)と思われるような部分があり、その下部に空間が広がっています。この空間には東側からしか入れませんが、入口のところには約1m大のサイコロの形をした石が重なっており、人が積み上げたようにも見えます。
■古代のロマンを楽しもう
ここ矢嶽巨石群には、「境石」と呼ばれている岩や「環状列石」(ストーンサークル)ではと言われているものもあります。人工物であるとはなかなかいえませんが、正式な学術調査が実施されていないため、人工物ではないともいえません。ヨーロッパのドルメンが造られた時期は、日本列島では縄文時代にあたります。
ひょっとしたら縄文時代の日本列島に古代オリエント(注2)の人々がたどり着いていたのではというロマンを楽しんで見学するのもいいのではないでしょうか。
注1)天井石を石柱が支えるように組み立てられた石造物で、ヨーロッパ西北部に点在する。年代ははっきりと確認されてはいないが、ギリシャ・ローマ 文明以前にケルト人が造ったと考えられている。
注2)メソポタミヤ文明やエジプト文明が栄えた地域で、エジプト・メソポタミア・シリア・小アジア・イラン・アラビアなどを指す。オリエントはギリシャ・ローマ文明のヨーロッパからみて太陽の昇る方向(東)をオリエンスが語源。