天草海軍航空隊基地跡(あまくさかいぐんこうくうたいきちあと) 天草市
更新日:2009年12月16日
所在地
天草市佐伊津町金が丘
利用案内
駐車場・トイレ なし
解説
佐伊津町金が丘には、第二次世界大戦中に海軍航空隊の基地がありました。ここは、昭和19年(1944年)3月15日に博多海軍航空隊天草分遣隊として開隊されました。基地の土地を切り開いたり、兵舎を建てたりするために、農学校や女学校の生徒たちも駆り出されたといわれます。
隊門は、現在の国道324号線の金が丘交差点近くの隅田(すみだ)川沿いにあり、一般人は立ち入ることができませんでした。現在の佐伊津中学校の場所に練兵場(れんぺいじょう)という訓練施設があり、兵隊が宿泊する兵舎が、天草病院のところにありました。また、京マロン工場の場所に飛行機の格納庫、海岸沿いに飛行機を陸に揚げるためのスロ-プが設けてありました。航空隊本部と下士官の兵舎は、慰霊碑が建ててある丘(現在の金が丘団地)にありました。
天草海軍航空隊は、第十二航空隊に所属し、はじめは水上機の操縦(そうじゅう)教育をするための訓練機関でした。飛行機としては、九三式水上中間練習機や九五式水上偵察機(ていさつき)、零式(ぜろしき)水上観測機など、50機余りを所有していました。ようやく実用機の編隊飛行まで訓練が進みましたが、戦局の悪化により、訓練は打ち切られ、昭和20年(1945年)2月22日、突如、特攻隊を編成せよとの命令が下りました。
特攻とは、爆弾を抱いた愛機と一緒に敵の艦船に体当たり攻撃をする作戦で、国を守るために自分の命を犠牲にすることでした。3月1日に、天草海軍航空隊として独立したころは特攻訓練は、激しさを増し、訓練中にも3名の尊い命が失われました。
5月5日、練習航空隊を解除され、水上機特攻隊の発進基地として指定されました。5月24日、第一次攻撃隊の零式水上観測機2機が、沖縄沖の敵艦船に突入し、3名が戦死しました。また、6月24日には第二次攻撃隊として6機が突入し、13名の戦死者を出しました。飛行機に爆弾を装備するとき、また、特攻機を見送るときの司令、同僚らの心情は察するにあまりがあります。特攻機は、水上を飛び立った後、基地上空を旋回(せんかい)し、バンク(翼を振って別れを告げる)して、南の空に消えていったそうです。
現在、慰霊碑のある丘には、当時の楠が立っていますが、南の海に消えた17~23才の特攻隊員の紅顔の英姿と魂を今も見守っていることと思います。当時の防空壕(ぼうくうごう)やスロ-プの跡が一帯に残されています。
参考文献
ノーベル書房編集部 『わが海軍 旧海軍全教育機関の記録』 ノ-ベル書房 1995年
周辺情報
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