朝鮮・韓国における公娼制と慰安婦
朝鮮の公娼制
李氏朝鮮時代には妓生(きしょう、기생、キーセン)制度という公娼制が存在した。もとは高麗時代(918年-1392年)に中国の妓女制度が伝わり朝鮮の妓生制度になった[235]とも、また李氏朝鮮後期の学者丁茶山(1762-1836)の説では妓生は百済遺民柳器匠末裔の楊水尺(賤民)らが流浪しているのを高麗人李義民が男を奴婢に女は妓籍に登録管理したことに由来するともいう[237]。
1410年には妓生廃止論がおこるが、反対論のなかには妓生制度を廃止すると官吏が一般家庭の女子を犯すことになるとの危惧が出された。李氏朝鮮政府は妓生庁を設置し、またソウルと平壌に妓生学校を設立し、15歳〜20歳の女子に妓生の育成を行った[237]。
性的奉仕を提供するものを房妓生・守廳妓生といったが、この奉仕を享受できるのは監察使や暗行御使などの中央政府派遣の特命官吏の両班階級に限られ、違反すると罰せられた。妓生は外交的にも使われることがあり、中国に貢ぎ物として「輸出」されたり、また明や清の外交官に対しても供与されたり、ほか国境守備兵士の慰安婦として、六ヶ所の「鎮」や、女真族の出没する白頭山付近の四ヶ所の邑に派遣されたりした[240]。
1876年に李氏朝鮮が日本の開国要求を受けて日朝修好条規を締結した開国して以降は、釜山と元山に日本人居留地が形成され、日本式の遊郭なども開業していった。1881年10月には釜山で「貸座敷並ニ芸娼妓営業規則」が定められ、元山でも「娼妓類似営業の取締」が行われた[235]。
翌1882年には釜山領事が「貸座敷及び芸娼妓に関する布達」が発布され、貸座敷業者と芸娼妓には課税され、芸娼妓には営業鑑札(営業許可証)の取得を義務づけた。1885年には京城領事館達「売淫取締規則」が出され、ソウルでの売春業は禁止された[239]。
しかし、日清戦争後には料理店での芸妓雇用が公認(営業許可制)され、1902年には釜山と仁川、1903年に元山、1904年にソウル、1905年に鎮南浦で遊郭が形成された。ソウル城内双林洞には新町遊廓が作られ、これは財源ともなった[239]。
1906年に統監府が置かれるとともに居留民団法も施行、営業取締規則も各地で出されて制度が整備されていった同1906年には龍山に桃山遊廓(のち弥生遊廓)が開設した。 ソウル警務庁は市内の娼婦営業を禁止した。1908年9月には警視庁は妓生取締令・娼妓取締令を出し、妓生を当局許可制にし、公娼制に組み込んだ[235]。
1908年10月1日には、取締理由として、売買人の詐術によって本意ではなく従事することを防ぐためと説明された。1910年の韓国併合以降は統監府時代よりも取締が強化され、1916年3月31日には朝鮮総督府警務総監部令第4号「貸座敷娼妓取締規則」(同年5月1日施行)が公布、朝鮮全土で公娼制が実施され、日本人・朝鮮人娼妓ともに年齢下限が日本内地より1歳低い17歳未満に設定された[239]。
他方、併合初期には日本式の性管理政策は徹底できずに、また1910年代前半の女性売買の形態としては騙した女性を妻として売りとばす事例が多く、のちの1930年代にみられるような誘拐して娼妓として売る事例はまだ少なかった[239]。当時、新町・桃山両遊廓は堂々たる貸座敷であるのに対して、「曖昧屋」とも呼ばれた私娼をおく小料理店はソウル市に130余軒が散在していた。第
1918年6月12日の『京城日報』は「京城にては昨今地方からポツト出て来た若い女や、或は花の都として京城を憧憬れてゐる朝鮮婦人の虚栄心を挑発して不良の徒が巧に婦女を誘惑して京城に誘ひ出し散々弄んだ揚句には例の曖昧屋に売飛して逃げるといふ謀計の罠に掛つて悲惨な境遇に陥つて居るものが著しく殖えた」と報道した[239]。
1910年代の戦争景気以前には、朝鮮人女性の人身売買・誘拐事件は「妻」と詐称して売るものが多かったが、1910年代後半には路上で甘言に騙され、誘拐される事例が増加している。1920年代には売春業者に売却された朝鮮人女性は年間3万人となり、値段は500円〜1200円であった[243]。
1930年代の植民地朝鮮における人身売買・誘拐
1930年代には10代の少女らが誘拐される事件が頻発し、中国などに養女などの名目で売却されていた。斡旋業者は恐喝を行ったり、また路上で誘拐して売却していた。朝鮮総督府警察はたびたびこうした業者を逮捕し、1939年には中国への養女供与を禁止している。当時の人身売買および少女誘拐事件については警察の発表などを受けて朝鮮の新聞東亜日報や毎日新報(毎日申報。現・ソウル新聞)、また時代日報]、中外日報で報道されている。
翌1933年5月5日の東亜日報には「民籍を偽造 醜業を強制 悪魔のような遊郭業者の所業 犯人逮捕へ」という見出しで、漢南楼の娼妓斡旋業者だった呉正渙が慶尚南道山清邑で16歳の少女を350円で買い、年齢詐称のため兄弟の戸籍で営業許可を取ろうとしていたこと警察の調べで発覚したと報道した。
同1933年6月30日の東亜日報では、少女を路上で誘拐し中国に売却していた男がソウル市鐘路警察によって逮捕され、さらに誘拐された少女が35歳の干濱海に20ウォンで売却された後に殺害されたと報道。
1934年4月14日の東亜日報は、災害地で処女が誘拐されたと報道[248]。同1934年7月17日には、養父から金弘植という業者に売却されたという11歳の少女が警察に保護されている。
1936年3月15日の東亜日報では「春窮を弄ぶ悪魔!農村に人肉商跳梁 就職を甘餌に処女等誘出 烏山でも一名が被捉。」との見出しで、ソウル近郊の農村烏山で「人肉商」(人身売買)業者が処女を誘拐していることが報道されている[246]。
日本軍陸軍省による注意命令
このような人身売買・誘拐の頻発に対して日本軍陸軍省は1938年3月4日に軍慰安所従業婦等募集に関する件を発令し、女性を「不統制に募集し社会問題を惹起する虞あるもの」「募集の方法誘拐に類し警察当局に検挙取調を受くる」などに注意をせよと命じている。
日本軍のこの指令書は、朝日新聞1992年1月11日の記事などでは、日本軍が朝鮮の少女を強制連行した証拠として報道したが、水間政憲によれば、この指令書は当時の朝鮮社会における誘拐事件や人身売買の実態をふまえれば、悪徳業者を取り締まれと解釈するべきで、日本軍の関与は良識的な関与であったと指摘している[246]。
1939年には河允明誘拐事件が発覚する。1939年3月5日の「毎日新報によれば、逮捕された売春斡旋業者の河允明夫婦は1932年頃から朝鮮の農地でいい仕事があるとして約150人の貧農を満州や中国に700円〜1000円で人身売買し、また京城の遊郭には約50人の女性を売却したところ、警察が捜査をはじめたので、それら女性を牡丹江や山東省に転売したことが発覚した[253]。
また、河允明に続いて逮捕されたペ・シャンオンは1935年から1939年にかけて約100人の農村女性を北支と満州に、150余人を北支に売却していた。また下級役人が戸籍偽造に協力していた汚職も発覚した[256]。
- 朝鮮総督府警察による中国への養育取引禁止
その後も同様の事件は頻発し、同1939年8月5日の東亜日報で「処女貿易」を行なっていた「誘引魔」が逮捕されたと報道、さらに同1939年8月31日の東亜日報では釜山の斡旋業者(特招会業者)による誘拐被害者の女性が100名を超えていたと報道された[258][246]。
なお、2007年時点で、植民地時代の朝鮮総督府警察の記録などは国立公文書館に移管されておらず、元自民党議員戸井田徹は情報公開法に基づいて移管し公開すべきと2007年4月25日の衆議院内閣委員会で政府に要請した[259]。
大韓民国軍慰安婦
第二次世界大戦後、朝鮮半島は1945年9月2日より連合軍の軍政下におかれた。1948年8月15日に大韓民国が、同年9月9日に朝鮮民主主義人民共和国が独立する。1950年より南北朝鮮の間で朝鮮戦争が勃発、1953年7月27日に休戦する。この朝鮮戦争中に韓国軍は慰安婦として「特殊慰安隊」を募集している。
また韓国はアメリカ合衆国との関係を緊密にし、朝鮮戦争やベトナム戦争では連合軍を形成した。そのため、韓国で設置された慰安所および慰安婦(特殊慰安隊)は韓国軍だけでなく米軍をはじめとする国連軍(UN軍)も利用した。本節では韓国軍慰安婦と韓国における米軍慰安婦についても扱う。