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[転載]柿本人麻呂の生きた万葉の時代の韓半島情勢

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当時の韓半島情勢
 
しばらく韓半島を三分してきた、新羅・百済・高句麗のうち、新羅が唐との連合に成功し……
唐からの援軍を得て、宿年の怨敵であった百済を滅ばしたのは西暦660年のことである。
しかし、一方では、百済国を再興させようとする抵抗が各地で続いていた。
 
その百済を助けようとする日本の朝廷は、二万七千あまりの軍勢を百七十隻の兵船に乗せて韓半島に派遣した。
結果は、圧倒的多数の羅唐連合軍になすすべなく、日本側の惨敗として終わった。
その経緯は「白村江(はくすきのえ)の戦い」として、
『日本書紀』に明記されている。
 
百済再興の戦いは、この「白村江の戦い」をもって事実上終わった。
したがって百済の滅亡は、歴史上このとき、つまり663年8月となっているのである。
 
しかし実際には、百済再興の望みがこれで完全になくなったのではなかった。
そもそも唐が新羅を助けて百済を討つようになったのは、「新羅を攻撃しないで仲良くせよ」という二度にわたる唐帝の詔勅を、百済が無視したことに唐帝が激怒したからである。
 
すなわち、「大唐にさからうものがどのようなことになるか、見せしめにしてくれよう」という理由からであった。
したがって、百済を討ったあとの唐の本心は、自国に従順な百済を再建して、新羅に対する牽制勢力を維持することにあった。
そのために、唐は百済地域に暫定的駐屯軍政を敷いている。
そして665年には、百済王子で唐の大司稼正卿の位にあった「隆(りゅう)」を熊津(うんじん)都督に任命して、領民を按撫させようとした。
 
一方、新羅のほうにもその趣旨がよくわかるように、唐は新羅王文武と隆を熊津城(今の公州)に呼んで、両国間に不可侵条約を結ばせている(665年)。
ところが隆は、唐将「仁願(じんがん)」が本国に帰るや否や、身辺に危害が及ぶのを恐れて、長安に逃げてしまった。
そこで唐は、再度、隆を熊津都督帯方郡王(実質的には百済王)に任じて、百済の領民を鎮撫しようとした。
それにもかかわらず、隆はますます強大になる新羅を恐れ、新城(旧奉天)へ逃がれて遂に帰国せず、その地で死亡してしまった。
唐はそのあとも、「隆」の孫「敬」を熊津都督帯方郡王に任ずるなどして新羅を強大化しないように努力している。
 
このあたりの状況を、韓国の二大古代史の書のひとつである『三国史記』(245年、金富軾(きむぶしく)によって編纂された)の記録から取り出してみると、おおむね次のようになる。
 
664年2月唐は、新羅の将軍と百済の扶余隆(ぶよんぐ)(旧王子)を熊津(今の公州)で会合させ、和を結ぶことを誓わせた。
つまり、唐には百済を滅亡させる意思はなく、新羅を攻めるなという皇帝の勅命に従わなかったことに対する懲罰をしただけという考えであったから、これからは両国は仲良くせよとさとしたのである。
 
664年3月 百済の道民が扶余(ぶよ)の扶蘇(ぶそ)山城にたてこもって反乱を起こした。
旧百済地域の治安責任者に任じられていた王子扶余隆は、皮肉にも自分の手兵でこれを討伐せねばならなかった。
 
670年正月 唐の皇帝は新羅が旧百済の地をしきりに攻め取ることに激怒して、新羅の使節二人を抑留し、そのうちのひとりは獄死した。
この記録は新羅が唐の意志を無視して、旧百済の地を併合しょうとして絶えまなく侵攻をかさねていたことを裏づける。
 
670年7月 百済の遺民たちが反乱を起こしたので、新羅はこれを攻めて63の城を陥落させ、その地域の百姓を新羅の地に移住させた。
さらに、新羅の兵は7つの城を攻略して、百済側の兵二千人を斬った。新羅はそれにとどまらず、唐軍が守っていた12の城を占領すると同時に、そこにいた七千人を斬り、多くの戦馬と兵器を奪った。
 
671年正月 新羅は熊津の南に攻め入った。
唐は旧百済の遺民を助けるために、軍を増強した。
 
671年6月 新羅は兵を出動させて、百済の加林(かりむ)城(今の忠清南道林川)の田、畑を踏みにじらせ、唐軍の兵糧源を断つ作戦に成功した。
唐軍はこれを防ごうと兵を出したが、惨敗。五千三百人が斬られると同時に、百済の将軍二人と唐将六人が描虜になった。
 
671年7月 怒った唐の総司令官は、新羅王に親書を送って、「新羅は恩知らずで義理を忘れたのか」と詰問した。
新羅王はこれに答えて、
「唐皇帝の恩は忘れていない。その証拠に、唐が高句麗と戦って苦戦していたとき、新羅の百姓たちは自らの食料が不足していたのに、兵糧を輸送するために大軍を送って唐軍を助けたではないか。
百済と和を誓ったけれども、百済の賎民である福信が、百済の遺民たちを糾合して我が軍を攻め立てて城を包囲してしまった。
これにより、城内にいた万余の唐兵は軍糧を断たれて飢え死にする危機に追い込まれたのを、新羅の軍が出動してこれを助け出した。
しかしながら、福信の勢力は日増しにいよいよ強くなったので、唐軍の兵士千人が賊徒を討とうとしたが、かえって賊に破れ、ひとりも生きて帰ったものがいなかった。
(中略)
このように、新羅は和を守ろうとしても百済の賎民たちの反乱が絶えないので、そのまま続くと旧百済地域の百姓どもは農作に従事することができないどころか、祖先伝来の土を捨てて流浪するものが多くなり、その大部分は新羅の領内に入ってくることになる。
そうなると、新羅の百姓も困難に陥るばかりでなく、百済の地も荒廃してしまうことは火を見るより明らかである。
我が新羅が百済の地に出兵するのは、このような事態を未然に防ぐためであり、磨から怒りを蒙るのははなはだ心外で止のる」と抗弁した。
 
671年9月 唐は四万の兵をもって平壌に駐屯させ、今の黄海道を攻撃してきた。
 
671年10月 新羅は唐の輸送船七十余隻を襲撃して、将軍二人と兵卒百余人を捕虜にした。
 
672年正月 百済の古省(こそんぐ)城を陥落させたが、加林城の攻略には失敗した。
 
672年8月 唐軍四万が攻めて来たが、新羅はこれを迎え討って敵兵数千を斬った。
だが、逃げる唐兵を深追いした新羅の軍が逆襲にあい、良将数人が命を落としてしまった。
 
672年9月 新羅は捕虜にした唐の将軍たち全員と、同じく拭えられていた百済の将軍や兵士百七十人を唐に送りながら、唐皇帝の許しを乞うた。
 
以上の記録からも、新羅がどのようにして唐の怒りに立ち向かいながら、百済の旧地を完全に手中に収めたのかを知ることができる。
 
すなわち、人麻呂が日本に渡って来たのが673年8月のことだとすると、
この頃の韓半島では、新羅を懲罰しようとして派遣されてきた唐軍が新羅の反撃で敗退してしまい、
いずれ唐の皇帝も新羅からの詑びを受け入れることになるという情況が展開していたのである。
建国以来680年間、華麗な文化を誇っていた祖国が完全に歴史の舞台から姿を消していくのを、
あきらめざるを得なかった人麻呂の心中は、いかばかりであったろうか。
こうして、新羅が百済を併呑するのに成功した672年の6月に、日本では、大海皇子による壬申の乱が起きている。
 
すなわち、新羅が高句麗を滅し(668年)、百済の旧地をも併合した直後に、
日本史上もっとも親新羅的であった天武王朝がはじまっているのである。
私たちは、この事実をただの偶然として片づけることはできないのである。

転載元: 日本一の清流高津川や益田市の環境や歴史を勉強中


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