「ヤミ物資摘発」事件
益田事件が起きた当時、益田町には約七〇〇人の朝鮮人が居住しており、島根県全体では約五五〇〇人がいた。益田事件といわれる出来事は、「ヤミ物資摘発」事件と「益田署」事件に分けられる。
「ヤミ物資摘発」事件とは、一九四九年一月二五日午前一〇時三〇分ごろ、島根県軍政チームのパレット少尉とフェリー伍長が島根地方経済調査庁の原田調査官他二名とともに、益田町大字高津の朝鮮人集落を令状なしに捜索しようとしたことに端を発した。
捜索の容疑は、「一月二五日夜半に高津川口からヤミ物資を積んだ船が出港する。積込物資は高津川浜寄りの朝鮮人集落に隠してある」という島根県軍政チームが得た情報にもとづいていた。
朝鮮人側は令状がない捜索は違法であると、捜索を拒否した。しかし、パレット少尉は原田調査官に捜索を強行するように命令したので、朝鮮人側数名と押し問答となったが、少尉は原田の仲介で納得した。フェリー伍長と原田は検察庁に令状発付を要請しに行くが、パレット少尉は武装警察官一〇名を派遣するように益田警察署に依頼することも原田に命令した。
原田が検察庁に行く途中、益田警察署に立寄り、「署長が不在であったが七名の警察官の応援」を得た。フェリー伍長は令状を待たずに警察官とともに現場に戻った。
パレット少尉は「軍政部将校が命令する。令状は到着しなくても良いから、容疑家屋を捜索して違反物資を押収せよ」と命令した。警察官は八戸の家屋を捜索し、柳行李やトランクなど七個、密造酒樽七個などを押収した。
原田調査官が令状を持って現場に戻ってきた時には、捜索は終わっていた。パレット少尉の命令で、押収物件をトラックに積込み、引揚げようとした時、朝鮮人七、八〇名が物件を取り返そうとした。数名の朝鮮人はトラックに飛び乗り、酒樽の容器を投げて破壊し、他の物資や容器を取り返した。
パレット少尉は拳銃二発を威嚇発射したところ、「一人の朝鮮人が胸を開いて『ここを射て』と居直ったため、発射をやめたところますます騒然となり、警察官や調査官が直接暴行を加えられるに及び、事態は険悪化した。このため空行李一個と紙包二個を押収して午後一時ごろ益田署に引き揚げた」。
これまでが「ヤミ物資摘発」事件の前段である。「空行李一個と紙包二個」の押収が、松江市からの軍政部員の出張の成果であったとは、いささかお粗末すぎる結果である。ことがこれで終わっていれば、その後の大事件にはならなかったのである。
事件の発端について、私は次のような疑問を持つ。つまり、従来の益田事件の記録には、事件の前における占領軍、および日本側の動きに関する情報がないことである。
事件を扱った代表的なものは、刊行の順にみれば、『益田町史 下巻』(一九五二)、『益田市史』(一九六三)、『益田市誌 下巻』(一九七八)、『島根県警察史 昭和編』(一九八四)があり、そのいずれにも事件の前の占領軍、日本側の動きは記述されていない。
さらに、島根県軍政チームがある松江市から、益田町まで約一五〇キロもある。それを軍政部員が、わざわざ益田町まで捜索に出向いたということが私には不思議である。当時、列車に乗っても、松江市から益田町まで五、六時間はかかったであろう。ずいぶんとご苦労なことだと思う。これだけの苦労をするのであるから、占領軍側にもたらされた情報は確実なものでなければならない。
益田警察署に引き揚げた後、パレット少尉は、署長に「警察官が事件を処理しないのなら自分は第二四師団の軍隊を出動させるつもりだ」と強硬に申し入れた。そしてモーサット島根県軍政チーム隊長に状況を電話で報告した。モーサットは、県警察隊長に対し「朝鮮人の行為は日本法規に反している。直ちに警察官を派遣して即時犯人を逮捕せよ」と命令した。
当時、日本側の警察機構は、一九四七年一二月に公布された警察法にもとづいて、自治体警察と国家地方警察に分かれていた。自治体警察は市および人口五〇〇〇人以上の市街的町村区域に設置され、市町村公安委員会がこれを管理した。一方、国家地方警察は自治体警察の管轄に属さない地域を管轄するために設置され、国家公安委員会がこれを管理した。
モーサット軍政チーム隊長から命令を受けた後、警察側は美濃地区以西の国家地方警察と自治体警察一〇署からなる、第一次応援部隊九〇名と第二次応援部隊八三名の警察官を動員した。一月二五日夜、美濃地区署長門脇憲次郎と益田署長安部藤一が、在日本朝鮮人連盟(朝連)美鹿支部委員長金泰斗ほか二名の幹部と会談し、朝鮮人側が自発的に暴行の責任者と奪還した物資を警察に提出することを条件に話し合い、一月二六日未明までに回答するように決めた。
しかし、朝連側は責任者の出頭のみについて回答したため、交渉は決裂した。警察側は益田町高津の朝鮮人集落を再度急襲した。その結果、午前一一時までに令状にもとづき、主要な被疑者九名を逮捕し、容疑物資の押収を終えた。この時の被疑者の逮捕は、貿易臨時措置令違反と公務執行妨害容疑であった。これまでが「ヤミ物資摘発」事件の後段である。
「益田署」事件
その後、朝連県本部の幹部ら一〇名が、交渉委員として益田警察署を訪れた。彼らは朝連美鹿支部の決議を基に逮捕された被疑者全員の釈放を署長に要求し、交渉した。なお、これらの交渉委員とは別に共産党員と称する一組も介入し交渉した。署長は「被拘束者中女四名は同日中に釈放するが、男五名についてはなおも取調中であり、同日中に釈放することは困難である」と回答した。一方、違法捜査の情報を聞いた在日朝鮮人たち八、九〇名が、益田駅前の朝連美鹿支部事務所に集合していた。
彼らは益田警察署長の回答と交渉委員の交渉に対して不満をいだき、皆で警察署に押しかけて交渉するほかないと、一月二六日午後九時頃、事務所を出発した。途中から参加した朝鮮人を含め、総勢百数十名(前掲、『島根県警察史 昭和編』では二〇〇名)が午後九時四〇分頃、警察署正門前に到着した。
益田警察署長は警察構内入口正門に益田警察署員と応援の警察官を配置して、朝鮮人の動きを阻止しようとした。双方が対峙した後、警官が警棒を使い始め、それに対して投石等が始まった。警官約一〇〇名(前掲『島根県警察史 昭和編』では六〇名)と乱闘が起こり、朝鮮人側と警察側に多数の負傷者が出る緊迫した事態となった。
其原氏は「事件当時、万福寺の前を通っていると境内の縁側にゲートルを巻いた警察官が休息しているのを見たことを覚えている」と私に語ってくれた。
この時の警察官は応援に来た警察官であった可能性がある。「益田警察署長は武器の使用も止むを得ないと判断しけん銃の威嚇発射をしたが、かえって事態を悪化させることとなった」。なお、当時の益田警察署では、拳銃を保持していたのは署長のみで、一般の警察官は保持していなかった。福原孝治氏の父親は、当時、益田警察署に勤務した警察官であったが、福原氏に聞いたところ「父も拳銃は持っていなかったという思い出がある」ということであった。
このような緊迫した状態の中、益田町の警察官が召集され、消防団約一五〇名と消防車三台が出動した。さらに益田警察署は那賀地区警察署、浜田警察署の応援を求めた。この時の状態を松江地方裁判所の判決は「非常サイレンを吹鳴して、その非常召集を行うのやむなきに至らしめて、同警察署及び附近一帯の静謐を攪乱する程の騒擾行為をしたもの」と認定した。
このような状態は午後一〇時頃まで続いたが、「時あたかも同町に出張中の軍政部員ニップ氏が突如来署」し「軍政部隊長の命令である、退去せよ、しからざれば厳重処罰する」と命令した。その結果、朝鮮人側と警察側は再び交渉を始めたが、朝鮮人側の全員釈放の態度はくずれず、警察は島根県軍政チームに連絡し、パレット少尉の意向をただした。
一月二七日午前零時に至り、「逮捕者のうち女四名は取調べが終わったので直ちに釈放、男六名は同日午後五時釈放、また連盟の責任において、警察署前に集合の朝鮮人は直ちに解散すると同時に、各地から集結中の朝鮮人も解散する」という条件で交渉が成立し、朝鮮人も零時半過ぎ解散した。
この事件の負傷者は、朝鮮人一九名、警察官二名、その他の日本人一名であった。さらに、動員された島根県の警察官は、国家地方警察(定員四六九名)と自治体警察(定員三七八名)の総定員八四七名の中の二七〇名に及んだ。
一月二七日午後五時までに、前記「ヤミ物資摘発事件」の朝鮮人被疑者五名は、全員釈放され、同事件の捜査は打ち切られた。この後、「ヤミ物資摘発事件」を意図的に切り離し、「益田署事件」の捜査が全力で行なわれた。国家警察県本部では、「断固検挙しなければその威信を失墜する」として、一月二八日未明、国家警察県本部刑事部長と松江地方検察庁次席検事などとの秘密会議に基づき、一月二六日夜半の集団行動は、騒擾罪、または建造物侵入罪で責任者の追及、徹底検挙の方針を決定した。
警察は美濃郡内で三二名、浜田市内で九名の逮捕状発付を受け、二五〇名の検挙隊を編成し、逮捕後の移送、警戒計画も立てた。町内に武装警官、消防団員、青年団員を動員して昼夜兼行の厳重な警戒体制を布いた。一月二八日午後二時半、二八日付島根県軍政チーム民間情報課発表による「第一軍団の命令により今後、公共建築物の前において公衆はいかなる種類の示威行為といえども行ってはならぬ」という京都にある第一軍団命令が警察の手で町内各所に掲示された。
一月二九日、朝鮮人三〇名が逮捕され、そのうち一八名に勾留状が執行された。同夜、一八名は松江と浜田の両刑務所に九名ずつ分散して収容され、残りの一二名は釈放された。一月三一日までに被疑者全員を逮捕し、被疑者は三次にわたり松江刑務所に移送収容された。
二月一日になって益田町の町内は平静になった。最終的に逮捕された被疑者は四一名であったが、八名は容疑薄弱のために即日釈放された。
一九四九年二月一一日、九名が起訴され、一九五〇年五月二九日、松江地裁は八名に騒擾並びに建造物侵入罪で有罪の判決を下した。姜示範(通名・白川玉基)は懲役一〇カ月執行猶予三年、他の七名は懲役六カ月執行猶予三年、一名は無罪であった。この事件は広島高裁松江支部に控訴されたが、一九五一年四月二三日、控訴は棄却され、刑が確定した。
『益田市誌』
一九七八年に発行された『益田市誌』(下巻)という本がある。この本では、益田事件は「騒乱罪適用不法事件」という見出しで記述されている。
『益田市誌』は下記の表現がある。
- 「これに先立ち集結した朝鮮人集団は、益田町内各地に放火を宣伝するなどし、町民の動揺も極めて色濃くなってきたため、益田市消防長は、二十六日午後十時五十分、消防団員三四名を出動させ警戒に当たった。
一月二十八日以降になっても平静に戻る気配もなく、朝鮮人側の町内官公署その他への放火説、暴力行為の徴候もあって」