丙子胡乱
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丙子胡乱(へいしこらん)とは、1636年 - 1637年に清が李氏朝鮮に侵入し、李氏朝鮮を制圧した戦いの朝鮮での呼び名である。中国では丙子之役と呼ばれている。朝鮮の呼称にある胡の字は、漢族が北部や西部の異民族への蔑称として用いていたものである。胡乱は、北西部の蛮族(女真)が乱を起こしたという意味になる。
概要
仁祖は南漢山城に篭城をしたが、翌1637年降伏をし、三田渡で皇太極に対し三跪九叩頭の礼による清皇帝を公認する誓いをさせられるという降伏の儀式が行われた。三田渡の地には後にこれを記念した石碑(大清皇帝功徳碑)が建てられた。
清軍は50万の朝鮮人を捕虜として強制連行し、当時の盛京(瀋陽)の奴隷市場で売買した。朝鮮人奴隷は清が他国とした戦争に兵隊として動員され、農業と工事に不足した労動力を補充した。暴行されることは常で、婦女子たちは随時にレイプされた。この戦争によって朝鮮が受けた損害は計り知れない。
戦後
この戦いの和議では、明との断交、清の冊封を受け、王子を人質として清へ差し出すことなどが取り決められた。これにより、李氏朝鮮は清の冊封国[1]となり、清の冊封体制に組み込まれた。朝鮮は清からの勅使派遣を迎え入れるために迎恩門を建て、清からの勅使は1637年から1881年までの244年間に161回におよび、そのたびごとに朝鮮国王は迎恩門に至り、「三跪九叩頭の礼」により迎えた後、慕華館での接待を余儀なくされた。
逆に朝鮮から清への朝貢使(朝鮮燕行使)は500回以上にも及んでおり(当初は毎年4回、1644年以降は年1回)、これは当時の清の冊封を受けていた琉球(2年に1回)、タイ(3年に1回)、ベトナム(4年に1回)などと比べても突出して多いものであった。このような清と朝鮮の冊封関係は、日本と清による日清戦争で日本が勝利し、下関条約で日本が清に李氏朝鮮の独立を認めさせる1895年まで、約250年間続いた。
李氏朝鮮は、この和議により初年度に黄金100両、白銀1000両の他、牛3000頭、馬3000頭など20項目余りの物品を献上したが毎年朝貢品目は減った。
『仁祖実録』によれば和議の10ヵ月後には8歳から12歳の6人の女を送ったり、その翌年には10人の侍女を送った記録がある。
朝鮮がこの戦いに敗れるまで、歴代の朝鮮王が明朝皇帝に対する臣節を全うしたことを清側も高く評価し、後の康熙帝がこれを賞賛する勅諭を出している。
和議の内容
- 朝鮮は清国に対し、臣としての礼を尽くすこと。
- 朝鮮は明の元号を廃し、明との交易を禁じ、明から送られた誥命と明から与えられた朝鮮王の印璽を清国へ引き渡すこと。
- 王の長子と次男、および大臣の子女を人質として送ること。
- 清国が明を征服する時には、求められた期日までに、遅滞なく援軍を派遣すること。
- 内外(清国)の諸臣と婚姻を結び、誼を固くすること。
- 城郭の増築や修理については、清国に事前に承諾を得ること。
- 清国皇帝の誕生日である聖節・正朔である正月一日・冬至と慶弔の使者は、明との旧例に従って送ること。
- 清国が鴨緑江の河口にある島を攻撃する時に、兵船五十隻を送ること。
- 清国からの逃亡者を隠してはいけない。
- 日本との交流を許すこと。
- 清国に対して黄金100両・白銀1000両と20余種の物品を毎年上納すること。(20余種の物品の具体的には、清国に毎年美女3000名、牛馬各々3000を献上等々)