1830年代の東アジア2 アヘン戦争前の清国の政治状況2
陳舜臣の『阿片戦争』から、ストーリーに触れない範囲で1832-36年ごろの政治状況を振り返っておきたい。
地方の政治体制を振り返る。
巡撫とは各省の知事であった。1832年2月に林則徐(りんそくじょ)は江蘇巡撫に任命されたが、治水を理由にしばらく赴かなかった。上海に英国船アマースト号が不法入港したあとに任地に出発、アマースト号はすでに7月8日に上海を去ったので責任は問われなかった。
各省に一人ずつの巡撫であるが、その上に重ねて、一省または数省に一人の総督を置く。両江総督は江蘇、安徽(あんき)、江西を管轄する。当時は陶じゅ(三水に樹の右側)であった。両広総督は、廬坤(ろこん)であった。
外国貿易は広州に限定されており、外国公館があった。ただし、マカオはポルトガルが入手していた。
欧米の貿易業者達は家族をマカオに住まわせ、冬だけはマカオに戻り、その他は広州に出向いていた。
1832年に東インド会社のアマースト号が各地を偵察して回ったが、ここで貿易港を広州に限定せず、広げさせる価値を認識した。福州、廈門、上海などの価値を認識したのである。茶などの産品が安定供給でき、また、アヘンを高く売れる。また、上海の貿易港としての価値を観察していた。また、8月には琉球の那覇港に入港した。
また、英国の方針で、東インド会社の貿易独占は1833年に解除され、新進の貿易業者が自由に参入できた。この中には、デント商会、ジャーディン・マゼソン商会、メイズ商会などがあった。外国人は清国人を雇えなかったので、買弁(ばいべん)をやとっていた。通事(通訳)は公行(こんほん)が保証するが買弁は通事が保証した。 買弁は金銭出納、労働者の雇用、女中の雇用などから高利貸しまで行なっていた。
1834年、ネーピア商務監督は、初めてこれまで民間がやっていた仕事を行なうため、広州に赴任したのであるが、清国と対等の交渉を求めて失敗する。
このころの広州の英国スタッフは、書記官アステル、主席通訳官モリソン、個人秘書ジョンソン。マカオには、次席監督官デービス、三席監督官ロビンソン、武官チャールス・エリオットがいた。マカオには、英国人向けの学校まで出来ていた。
34年、ネーピアの指示でフリーゲート艦アンドロマキー号とイモウジェン号は広州に入るが、清国から砲撃を受け、英国商館は兵糧攻めにあった。
ネーピアが病死したあと、デービス、ロビンソン、そして36年にエリオットが引き継いだ。
北京の情勢を見よう。
1835年には曹振(そうしんよう)が亡くなり、文孚(ウェンフ)が引退した為、軍機大臣の後任には漢族の枠で趙盛奎(ちょうせいけい)、満族の枠で賽尚阿(サイシャンア)が入った。
このころ、アヘンの密輸が増加し、清国の銀は流出していった。銀の交換比率が高くなり、庶民は税金を銀で納めていた為苦境に陥った。役人はワイロを得ていたのでアヘンの禁止が守られなかった。また、外国船が広州でなく、北方にまで出没して、アヘン取引を行なうようになった。
このため、アヘンの弛禁論(しきんろん)が出された。つまり、軍人以外にはアヘンの輸入を認め、しっかり税金を取るという政策である。この意見には、既得権益を得ていた役人や広州の公行(こんほん)がバックにいた。公行は、正式な輸入になれば独占できたからである。
一方、厳禁論も逆に大きくなっていった。この代表が林則徐のグループである。
なお、両広総督の廷(とうていてい)は最初は弛禁論だったが、周りの助言でのちに林則徐と共同歩調を取る。
英国商人達は、弛禁論によってかなり期待を高めてしまった。これが逆に、厳禁論が優勢になり、密貿易の取り締まりを厳しくされることで、英国商人の反発を高めることになる。
期待をさせない方がよいということである。
陳舜臣の『阿片戦争』から、ストーリーに触れない範囲で1832-36年ごろの政治状況を振り返っておきたい。
地方の政治体制を振り返る。
巡撫とは各省の知事であった。1832年2月に林則徐(りんそくじょ)は江蘇巡撫に任命されたが、治水を理由にしばらく赴かなかった。上海に英国船アマースト号が不法入港したあとに任地に出発、アマースト号はすでに7月8日に上海を去ったので責任は問われなかった。
各省に一人ずつの巡撫であるが、その上に重ねて、一省または数省に一人の総督を置く。両江総督は江蘇、安徽(あんき)、江西を管轄する。当時は陶じゅ(三水に樹の右側)であった。両広総督は、廬坤(ろこん)であった。
外国貿易は広州に限定されており、外国公館があった。ただし、マカオはポルトガルが入手していた。
欧米の貿易業者達は家族をマカオに住まわせ、冬だけはマカオに戻り、その他は広州に出向いていた。
1832年に東インド会社のアマースト号が各地を偵察して回ったが、ここで貿易港を広州に限定せず、広げさせる価値を認識した。福州、廈門、上海などの価値を認識したのである。茶などの産品が安定供給でき、また、アヘンを高く売れる。また、上海の貿易港としての価値を観察していた。また、8月には琉球の那覇港に入港した。
また、英国の方針で、東インド会社の貿易独占は1833年に解除され、新進の貿易業者が自由に参入できた。この中には、デント商会、ジャーディン・マゼソン商会、メイズ商会などがあった。外国人は清国人を雇えなかったので、買弁(ばいべん)をやとっていた。通事(通訳)は公行(こんほん)が保証するが買弁は通事が保証した。 買弁は金銭出納、労働者の雇用、女中の雇用などから高利貸しまで行なっていた。
1834年、ネーピア商務監督は、初めてこれまで民間がやっていた仕事を行なうため、広州に赴任したのであるが、清国と対等の交渉を求めて失敗する。
このころの広州の英国スタッフは、書記官アステル、主席通訳官モリソン、個人秘書ジョンソン。マカオには、次席監督官デービス、三席監督官ロビンソン、武官チャールス・エリオットがいた。マカオには、英国人向けの学校まで出来ていた。
34年、ネーピアの指示でフリーゲート艦アンドロマキー号とイモウジェン号は広州に入るが、清国から砲撃を受け、英国商館は兵糧攻めにあった。
ネーピアが病死したあと、デービス、ロビンソン、そして36年にエリオットが引き継いだ。
北京の情勢を見よう。
1835年には曹振(そうしんよう)が亡くなり、文孚(ウェンフ)が引退した為、軍機大臣の後任には漢族の枠で趙盛奎(ちょうせいけい)、満族の枠で賽尚阿(サイシャンア)が入った。
このころ、アヘンの密輸が増加し、清国の銀は流出していった。銀の交換比率が高くなり、庶民は税金を銀で納めていた為苦境に陥った。役人はワイロを得ていたのでアヘンの禁止が守られなかった。また、外国船が広州でなく、北方にまで出没して、アヘン取引を行なうようになった。
このため、アヘンの弛禁論(しきんろん)が出された。つまり、軍人以外にはアヘンの輸入を認め、しっかり税金を取るという政策である。この意見には、既得権益を得ていた役人や広州の公行(こんほん)がバックにいた。公行は、正式な輸入になれば独占できたからである。
一方、厳禁論も逆に大きくなっていった。この代表が林則徐のグループである。
なお、両広総督の廷(とうていてい)は最初は弛禁論だったが、周りの助言でのちに林則徐と共同歩調を取る。
英国商人達は、弛禁論によってかなり期待を高めてしまった。これが逆に、厳禁論が優勢になり、密貿易の取り締まりを厳しくされることで、英国商人の反発を高めることになる。
期待をさせない方がよいということである。