藤圭子 KEIKO FUJI - 圭子の夢は夜ひらく 新宿の女
来歴
幼い頃から浪曲歌手の父・阿部壮(つよし)、三味線瞽女の母・竹山澄子(2010年に死去。享年80)の門付に同行。旅回りの生活を送り、自らも歌った。勉強好きで成績優秀だったが、貧しい生活を支えるために、高校進学を断念[2]。17歳の時に『さっぽろ雪まつり』のステージで歌う姿がレコード会社の関係者の目に留まり、上京。歌手デビューする。1969年9月25日、RCAレコードより「新宿の女」でデビュー。
さすらい ★藤 圭子 オリジナル
怨み節 藤 圭子 KEIKO FUJI
以後、作詞家の石坂まさをと組んでヒット曲を連発。女性ハスキーヴォイスの先駆者青江三奈をも凌ぐドスの効いた声は、当時の社会に衝撃を与えた。ファーストアルバム「新宿の女」は20週連続1位、間を置かずリリースされたセカンドアルバム「女のブルース」は17週連続1位を記録。計37週連続1位という空前絶後の記録を残す。そのヒットから、テレビアニメ『さすらいの太陽』のヒロインのモデルにもなった。1974年、喉のポリープの手術を受け、かつてよりやさしい声となる。引退と復帰を繰り返すうちに人気を失っていく。
2013年8月22日午前7時頃、東京都新宿区のマンションの前で倒れているのが発見され、搬送先の病院で死亡が確認された。遺書など見つかっていないが、衣服の乱れや争ったような跡がないことから、新宿警察署は飛び降り自殺を図ったとみて調べている。
故郷の人★藤 圭子
年譜
聞いて下さい私の人生 /藤圭子
- 1951年7月5日 - 岩手県一関市に生まれる。
- 1969年9月25日 - 「新宿の女」でデビュー。
- 1970年 - 「圭子の夢は夜ひらく」が10週連続1位を獲得77万枚売上げる大ヒット。第1回日本歌謡大賞大賞を受賞。第12回日本レコード大賞大衆賞を受賞。『第21回NHK紅白歌合戦』に初出場。
"怨歌" 藤 圭子/女のブルース (1970年)
- 1971年 - 前川清と結婚。
- 1972年 - 前川と離婚。
- 1979年 - 引退を突然表明し、アメリカ合衆国に渡る。
- 1981年 - 藤圭似子の名で芸能界に復帰。
- 1982年 - 宇多田照實と結婚(再婚)。
- 1983年 - 長女・光(宇多田ヒカル)を出産。
- 1984年 - 芸名を藤圭子に戻す。
- 1993年 - 夫・照實とともに有限会社ユースリー・ミュージックを資本金300万円で東京都杉並区に設立し、自らも取締役になる。
- 1995年 - 夫・照實と娘・光の3人でユニット「U3」を結成し、インディーズでレコードを発売。
- 2000年 - 娘・ヒカルの全国ツアー札幌公演でステージに飛び入り参加し、「圭子の夢は夜ひらく」を歌う。
- 2006年3月 - ニューヨークのジョン・F・ケネディ国際空港にて大金を没収される。
- 2007年 - 宇多田と離婚。
- 2009年 - 前述のケネディ国際空港で没収された現金42万ドルの全額返還が決定。
- 2013年8月22日 - 死去。
今日でお別れ 藤 圭子 KEIKO FUJI
藤圭子 冷たい月 -泣かないで- コーラスは宇多田ヒカル
みだれ髪 藤圭子 Fuji Keiko
藤圭子ほど己の美しさに無頓着な歌い手さんは、稀ではないだろう か? デビュー当時から見る者をハッとさせる美しさでありながら、そう いう自意識を微塵も窺わせない挙措は、むしろ見ている私たちがも どかしく感じたほどです。この動画でも、場違いなところに押し出 されたかのように所在なげにステージに歩み出る様はほとんど素人 のようですが、イントロの8小節をやり過ごしたあとに始まる振り に、私は一気に引き込まれました。
決して派手な動きのない静かな 振りですが、曲想を内面から捉えたにじみ出るセンスと、圭子さん 自身の隠しきれない彫刻のような美の融合は、息を呑むほどに美し い。歌唱もすばらしい。デビュー当時のようなドスの利いた声は影 を潜め、代わりに燻し銀のような渋みを具えた声質は、失った恋に 深く傷ついた女心を余すところなく歌い上げ、私はいつしか物語の 世界に囚われています。この方が早くに引退されたのは、返す返す も惜しまれます。
カスバの女-藤圭子-
別れの旅 藤圭子 KEIKO FUJI
藤圭子 - 花と蝶 ・ 命かれても
北の港町★藤 圭子