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[転載]2.「人口は当時100万超で、犠牲者数は30万人だ。これは誰にも反論できない数字だ」・鳩山由紀夫絶句・南京大虐殺記念館の館長の鳩山への説明は大ウソ!反論できる・人口は当時20万人で、犠牲者数は0人だ

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(つづき)
 
 
 
1.「人口は当時100万超で、犠牲者数は30万人だ。これは誰にも反論できない数字だ」
鳩山由紀夫絶句
南京大虐殺記念館の館長の鳩山への説明は大ウソ!
反論できる
人口は当時20万人で、犠牲者数は0人だ
のつづき
 
 

>また、鳩山元首相は「当時の南京市の人口と南京事件の犠牲者数は?」とも問いかけた。館長が、東京裁判や南京軍事法廷の判決で示された数字として「人口は当時100万超で、犠牲者数は30万人だ。これは誰にも反論できない数字だ」と回答する場面も見られた。


「人口は当時100万超で、犠牲者数は30万人だ。これは誰にも反論できない数字だ」は、大ウソであり、簡単に反論できる。

確かに1937年当時、南京には100万人超が住んでいたが、8月から上海で戦争が始まり、10月になって大量の支那軍が南京に逃げ込むと、南京市民の多数は日本軍が占領した上海などに避難して出て行った。

そして、南京で戦闘が始まった1937年12月12日の夜には南京の人口は20万人で、しかも、善良な市民は全員が安全区に避難していた。


まずは、南京の人口推移から。


▽1937年11月~12月の南京の人口推移▽

1937年前半「100万人超」
(支那事変勃発前)

1937/11/23日「50万」
「調査によれば本市(南京城区)の現在の人口は約50余万である。将来は、およそ20万と予想される難民のための食料送付が必要である」
南京市政府書簡(南京事件P220 笠原十九司)

11/27「30~40万」
在留外国人に対して「避難勧告」が出された。
「市民の脱出は続いているが、市長の話では30万から40万の市民がまだ南京に残っているとのこと」
米大使館報告 (アメリカ資料編P90)

12月1日、南京市長が全市民に安全地区に移るように命令

12/6「約20万」
なぜ。金持ちを、約80万という恵まれた市民を逃がしたんだ?
(ラーベの日記P96)

12月8日、支那軍司令長官唐生智が非戦闘員は全て安全地区に移るように命令

12月10日「約20万」
なにしろ、この街の運命と20万人の命がかかっているのだ。安全区の道路は、避難する人たちでごったがえしている。(略)残念ながら軍人がまだ大勢、安全区に留まっている。
(ラーベの日記P107)

12月13日「約20万」
言いかえれば、13日に貴軍が入城したときに我々は安全区内に一般市民のほとんど全体を集めていましたが、同区内には流れ弾による極めてわずかの破壊しかなく、中国兵が全面的退却を行った際にもなんら略奪は見られませんでした。(略)もし市内の日本兵の間でただちに秩序が回復されないならば、20万の中国市民の多数に餓死者が出ることは避けられないでしょう。
(安全委員会公文書T-6)


▽陥落直前の南京の人口に関する資料▽
――――――――――
安全委員会公文書【20万人の市民】
スティール【10万人の市民】
アベンド【10万人以上】
ダーディン【10万を越す非戦闘員たち+民間人は5万以上】
ラーベ【20万人】
リリー・アベック【15万人】
米ライフ紙【15万人の南京市民】
張群思少佐【非戦闘員10万】
劉啓雄少将【20万】
松井大将【12万余】
――――――――――


以上の資料を総合してみると、12月13日、南京陥落時点の南京の人口は、【10万人から最高20万人】の間とみて間違いなく、陥落後の生存人口が約25万人(安全委員会公文書)だから人口は増えた。

■日本軍が南京を占領してからは、減るどころか逆に増えている。

そして、南京で戦闘が始まる前に、多くの市民が南京を脱出したが、そのうちの多くは日本軍が開放した上海に行っていた。

もう一度、南京の人口推移を長い期間で見てみる。


▽1937年前半(支那事変以前)~1938年9月の南京の人口推移▽
1937年前半  「100万人」
 ↓
11月初旬~11月23日 「50万人」(支那軍が南京に来て減少)
 ↓
11月27日  「30~40万」
 ↓
12月13日  「20万」
 ↓
1938年1月14日 「25万人」(日本軍が南京を占領し支那軍が南京を去ったため南京の人口が増加に転じる)
 ↓
1938年9月23日 「40~50万人」


▽1938年9月23日「40~50万人」の資料▽
『文藝春秋』P193 第十六巻 第十九號 昭和十三年十一月特別號 (1938年)
 従軍通信/上海より廬州まで/瀧井孝作
 九月二十三日。晴。南京にて。
 午前九時、特務機関に行く。大西大佐より南京施政状況の説明あり。人口は戦前は百萬そのうち二十五萬漢口に行き、二十五萬は上海に在り、五萬は香港に行き、現在は四五十萬どまりなり。


しばらく南京に戻って来なかった人々のうち、漢口に行っていた25万人は支那の政府関係者が多く、上海に行っていた25万人は一般市民だから、やはり市民は日本軍の居る上海に行っていたのだ。


以上、南京戦前に多くの南京市民が日本軍の居る上海などに脱出し、日本軍の南京占領1ヶ月後には南京の人口が増加に転じていたことを述べた。

そもそも日本軍占領後に南京の人口が増えたのだから、虐殺があった筈がないと分かる。

(参考)
人口問題
http://www5b.biglobe.ne.jp/~nankin/page012.html
▽上海などに避難せずに南京に残った南京市民の全員が安全区に避難していたことを証明する資料▽
南京虐殺は嘘2 人口からの考察2(全員避難)
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-3365.html
 
 
 
 
 
 
 

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転載元: 正しい歴史認識、国益重視の外交、核武装の実現


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