占領政策の大成功(ヲーギルト。インフォメイション。プログラム)、そして、この尻馬に乗った左翼文化人たち・・・歴史は彼らと、中国共産党プロパガンダに振り回されている。政府は、慎重に、相手の嫌うことは言わないと紳士的態度に徹しているが・・歴史の事実を調査研究する日本人が少数派とされている姿に驚いている。少数派意見では決してない、真実なのだ!。必ず歴史はそれを証明するときがくるであろうと愚者は信じている
産経新聞H19.12.17(月)
旧日本軍が中国・南京を陥落させて、中支那方面軍司令官の入城式が行われた昭和12年T937)年12月17日から、70年がたつ。事実と虚構が入り乱れ「南京事件」の呼び名も定まらないなか、事実を語り継ぐことができる軍人や報道関係者の数は次第に少なくなりつつある。三重県伊勢市に住む旧日本陸軍兵、稲垣楕さん(97)は、平穏だった城内の様子を証言、いわゆる"大虐殺"とは大きな開きがあると話した。 (牛田久美)
旧日本軍が中国・南京を陥落させて、中支那方面軍司令官の入城式が行われた昭和12年T937)年12月17日から、70年がたつ。事実と虚構が入り乱れ「南京事件」の呼び名も定まらないなか、事実を語り継ぐことができる軍人や報道関係者の数は次第に少なくなりつつある。三重県伊勢市に住む旧日本陸軍兵、稲垣楕さん(97)は、平穏だった城内の様子を証言、いわゆる"大虐殺"とは大きな開きがあると話した。 (牛田久美)
稲垣さんは昭和12年夏、27歳で獣医官として召集。上海派遣軍第16師団(京都)で食料輸送を担当する輺重兵(しちょうへい)第16連隊に配属され、南京には12月16日から翌年1月30日まで滞在したとい。 自ら食料を運んだ体験から「食料は十分でしたから、農家から略奪、暴行という記述を戦後みるたび違和感を覚えました」と話す。稲垣さんは行軍を8瀬侫ルムなどで撮影している。「蒋介石の妻の名を冠した建物『美齢宮』が、日本軍の標的とならないよう黒塗りされたという南京国際委員長、ラーべの日記が知られていますが、のどかな風景に白い建物が移っています」。高い城壁に囲まれた南京に入ったときは「焼けた家もあるにはあったが、みじめな状態ではなかった。城内では、市民はみんな難民区(安全区)へ入っていて、入城式でも市民の姿は見かけませんでした」。 多数の犠牲者を出したとされる”掃討作戦”も稲垣さんは「当時、全く知りませんでした」と語る。当時、馬の伝染病が流行していて検疫や予防接種に奔走した。滞在した1カ月半、銃声は一度も聞かなかった。 入城後、10日もしないうちに中国人は安全区から出るようになり、城内に市も立った。その映像もある。「商魂たくましいというか、われわれを撮影しては、それを記念写真として売ろうとする中国人もいました」。このころの写真や合成写真が後に「残虐行為を働く日本兵」として広まっていく
次期アカデミー賞の有力作品に挙げられている米映画「南京」への出演依頼もあったという。「私の体験と、映画の方向性があまりにも異なるので断りました」という稲垣さんは、反日史観に基づく映画について「全くのウソです。虐殺の”ぎ”の字も、事件の”じ”の字も、従軍した私たちは聞いたことがなかった」と残念そうに語る。 虐殺30万人、婦女暴行8万人…などという極端な数字が定着しつつあることについても「死体をどうやって運搬したのか非常に疑問です。当時、トラックは貴重でした。中国軍が荷車で何十万という死体を運んだなど、考えにくいことです」。 虚構が独り歩きした背景については「南京郊外の紫金山での戦闘では日本兵949人が戦死した。中国側も多くが戦死したことでしょう。そうした域外の戦闘が誇張されているのでは。多数の死体を見たと証言する日本人は域外の陸軍戦車隊や揚子江の海軍兵です」と語る
福田首相世界遺産の孔子廟訪問
[曲阜〔中国山東省〕=野□東秀】福田康夫首相は福田首相は30日、千代子夫人とともに儒教の創始者.孔子生誕め地、山東省曲阜を訪れ、世界遣撞に登録されてい孔子廟を日本の首相として初めて参観した=写真(共同)。今回の訪中で日中が長い交流の歴史の中で文化・伝統の「共通の価値観」があると強調する狙いがある。廟は、孔子が没した翌年の紀元前478年に造られたと伝えられ、北京の紫禁城とともに中国三大宮殿建築の一つ。福田首相は本殿参観後、今回の訪中について記者団に対し、「大変内容のある訪間だった」と成果を強調。「中国の指導者といろいろ突っ込んだ話もしたが、日本と中国が協力すると、両国以上の力が発揮できるのではないか。両国が深くお互いに理解することが必用だ」と述べた。
福田首相は30日夕、政府専用機で羽田空港に到着した。(情報源:産経新聞H19.12.31(月)