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[転載]少年の風景(164)-南京のアメリカ人

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 マイナー・ベイツというアメリカ人がいた。彼は南京大学の教授だった。南京という街はかつての南京

城の城下町で城壁が取り囲んでいた。そこに中華民国の国民党政府があった。上海と同じように外国人も

たくさん居住していた。上海に外国人の租界があったように南京にも外国人のための特別区があった。そ

の特別区は外国人による国際管理に委ねられていた安全区だった。外国人の中から国際委員を選んでその

委員会が管理をしていた。ベイツ教授もその国際委員の一人だった。

 日中戦争が勃発すると日本軍は華北で全面攻撃を開始するとともに上海の租界を護衛するために駐屯し

ていた海軍陸戦隊に攻撃を命じた。私が小学生のとき、学校の図書館に戦争の記録写真があった。赤いラ

ベルで「持出禁止」と書かれていた。その中の「日本軍最強の海軍陸戦隊の上海上陸作戦風景」という説

明書きのついた一枚の写真に目が留まった。今のアメリカの海兵隊に相当するが、軍装備が陸軍の兵隊と

違う。いかにも強そうに見えた。陸戦隊とは何だろう?そう思って飽かずに眺めていたことを今でも記憶

している。

 さて、この上海作戦は当然ながら敵の予測したことで彼らは圧倒的な兵力で待ち構えていた。日本軍は

各所で苦戦を強いられた。日本軍は増援に次ぐ増援で兵力を補いやっとのことで敵の防備を突破して南京

を目指した。蒋介石を初め南京政府は多くの市民とともに南京を脱出した。南京には南京防衛軍司令官の

唐生智の率いる中国軍以外は安全区に避難した二十万の市民だけがいた。

 南京が陥落する前に唐智生は敵前逃亡した。降伏を命令する指揮官がいなくなった。それで中国軍は城

外に逃げるか軍服を脱いで安全区に逃げ込むしかなかった。残敵掃討は正当な軍事行動である。日本軍は

第七連隊に残敵掃討の任務を与えて安全区の中国兵を摘発し抵抗の気配のあるものを処刑した。その他の

中国兵は捕虜として労役に従事させた。まずここで「日本軍が市民を殺した」という誤解が生じている。

捕虜の扱いは「戦時国際法」に基づくが、捕虜の特権とは「軍服を着用に上官の指揮下にある戦闘員」に

のみ当てはまる。上官が逃げたのに自ら投降しない兵士が処刑されても戦争では虐殺とは言わない。

 さらに日本軍が入城してわかったのは多くの中国兵の遺棄死体がすでにあったことだ。それは日本軍に

抵抗して死んだものもあっただろうが、逃亡しようとして「督戦隊」に射殺された兵士の死体も多かっ

た。さらに脱出路の一つに中国兵が殺到して圧死したものもあった。先の残敵掃討で日本軍に処刑された

死体も含めると大体この四つぐらいのパターンが考えられるのである。

 一般市民やぎりぎりまで南京に残っていた外国の特派員たちや宣教師たちはこれらの区別がわからな

い。彼らは安全区の外で目撃した死体をすべて日本軍の仕業だと勘違いしても無理はなかった。アメリカ

人特派員のスティールとダーディンは「虐殺を目撃した」と書いたが、それは日本軍の残敵掃討で中国兵

が処刑される場面だったことが後にわかった。

 では、安全区ではどうだったか?アメリカの新聞が「南京大虐殺」を報じてから日本の軍部は将校を南

京に派遣して調査をした。日本の大使館が受け取った国際委員会の報告書があった。これは安全区の被害

状況を調べて日本に提出した言わば被害届けのようなものだった。1938年2月に出された「市民重大被害

報告」と題されていた。その記録は後に『南京安全地帯の記録』という名前で本になった。そこでは「大

虐殺」が起こったとされる三日間で殺人26件、婦女暴行175件、略奪131件、放火5件が記録されている。

目撃者は明記されていない。日本軍が行ったものという証拠も明記されていない。これを記録したのはや

はり南京大学教授で国際委員でもあったスマイス教授だった。安全区の国際委員が記録した被害届けにし

てからがこの程度のものだったのだ。

 アメリカの特派員電で衝撃的なスクープとなった記事に対してアメリカ政府は何をしたか?何もしな

い。南京については何の抗議もしなかった。この新聞記事を取り上げて国民党の政府は国際連盟に訴えた

が黙殺された。

 その後、東京裁判まで「南京大虐殺」は虚報だという認識が常識であった。ところが、東京裁判でアメ

リカはこの事件を蒸し返した。彼らがそのときの手がかりにしたのがベイツ教授の証言であった。ベイツ

は後の『戦争とは何か』という題の本の筆者とされているが、その中で四万人が南京城内の城壁の近くで

日本軍によって虐殺されたと書いている。ベイツは国際委員として埋葬に立ち会ったと思われる。南京の

死体埋葬は紅卍字会という赤十字のような団体によって行われたが、そこで数えられた死体の数を言って

いるのだと思われる。ところがこの死体の数は先述したように日本軍の責任ではない死体がほとんどであ

った。

 それだけではない。このベイツという人物は国民党の中華民国政府の顧問であり、『戦争とは何か』は

国民党宣伝部が宣伝のために製作したものであることがわかった。それを証する文書として国民党中央宣

伝部の機密文書として『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』(1941年)というのがある。その中の五課三室

の「対敵課」の工作概要を見ると、日本軍の南京攻略をいかに戦争宣伝に利用すべきかがこと細かく記さ

れている。その上で『戦争とは何か』をうまく利用すべきことが計画されている。ところが「虐殺」とい

う言葉はまったくない。国民党は『戦争とは何か』の漢訳や英語版をばら撒いたが、英語版の『チャイニ

ーズ・イヤー・ブック1938-1939』ではベイツの四万人虐殺説の四万人という数字を自ら削除している。

外国の中国専門家が見るにはあまりにも見え透いた虚報だと思ったのだろう。

 もう一つは毛沢東の論文『持久戦について』が一つの証拠になる。これは毛沢東が南京事件の翌年の五

月に行った講演を記録したもので、たしか『毛沢東選集』に載っていたはずだ。この中で毛沢東は日本軍

の南京攻略について触れて、日本軍は南京で中国軍を皆殺しにしなかったのが戦略的失敗だという意味の

ことを言っている。「南京大虐殺」のことなど何も語ってない。そんなことがあればそういう言い方をす

るはずがない。その意味ではこれも「南京大虐殺」を否定する傍証にはなる。

 以上のようなわけで終戦までは「南京大虐殺」は誤報または虚報としてしか扱われなかった。それをア

メリカが東京裁判で持ち出した。そのときに「マニラ虐殺」もいっしょに持ち出した。そしてベイツを証

人にした。彼はまた虐殺説を法廷で述べた。しかし、不思議なことに『戦争とは何か』については何も言

わなかった。また四万人とも言わなかった。城内で一万二千人が殺されたと証言した。彼は南京虫だっ

た。キーナン検事はわざとぼかして数万人といった。ところがウェッブ裁判長は判決文の中で、南京とそ

の周辺で殺害された市民と捕虜の数は二十万人以上だと言った。彼らは数字をいじくり回し手品のような

ことをやった。彼らは南京雑技団だった。その後、中国共産党は三十万人と発表した。数字はどんどん膨

れた。ところが南京陥落前の市民の人口は二十万人だ。そして陥落後の人口も二十万人だという調査資料

がある。日本軍は幽霊まで殺したらしい。

 数をいじくりまわすのは空しい。虐殺があったとしても敗戦前は問題にされなかった。状況が虚報であ

ることを示していた。ところが東京裁判でマニラ虐殺とともにアメリカが再び取り上げた。そこに何があ

ったか?それこそ原爆隠しであった。原爆の非道さが世に知られ日本の世論がアメリカを非難し始めるこ

とを恐れたのだ。原爆を神の裁きのごとくに彼らは主張した。さながら戦争を終結させるための聖なる爆

弾であるかのように吹聴した。日本人は罪人でであった。かくして歴史は偽造され今日に至っている。

(この記事は「南京虐殺」の研究家である亜細亜大学教授東中野修道氏の著作に負うところが大きいい)

 私の塾 http://www.aka-semi.com

転載元: 考えるブタ


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