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日本軍による南京虐殺事件は全くなかった(0件)。

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日本軍による南京虐殺事件は全くなかった(0件)。

この温情 朝日新聞、上野記者撮影 南京にて松島部隊の兵隊さんに可愛がられている支那人の子供 昭和12(1937)年12月19日撮影.
この温情 朝日新聞、上野記者撮影 
南京にて松島部隊の兵隊さんに可愛がられている支那人の子供 
昭和12(1937)年12月19日撮影

12月20日dec20-1 南京の街頭にて 南京住宅街にて撮影 「支那事変写真全集(中)」と朝日新聞昭和12年12月25日より 撮影者、朝日新聞林カメラマン 支那事変写真全集(中)上海戦線南京陥落後旬日(じゅんじつ)
1937年12月20日dec20-1 南京の街頭にて 南京住宅街にて撮影 
「支那事変写真全集(中)」と朝日新聞昭和12年12月25日より
撮影者、朝日新聞林カメラマン 支那事変写真全集(中)
上海戦線南京陥落後旬日(じゅんじつ)にして、早くも平和の曙光に恵まれた市中では、皇軍将士と共に玩具をもてあそんでたわむれる支那の子供達


12月20か23日gaho01 南京避難民の治療の様子 「支那事変画報」大阪毎日・東京日日特派員撮影、第15集より 撮影者、毎日新聞新聞カメラマン 南京避難民の病者治療にあたるわが衛生隊
1937年12月20か23日、南京避難民の治療の様子
「支那事変画報」大阪毎日・東京日日特派員撮影、第15集より 
撮影者、毎日新聞新聞カメラマン 
南京避難民の病者治療にあたるわが衛生隊

http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/folder/815016.html?m=lc&p=3
 
 

人口推移

 日本軍による南京陥落の観測が強まる中、南京城内の安全区を管理していた南京安全区国際委員会が食料配給の試算のため、南京城内の人口調査を行った(この調査は食料問題という厳密性が要求される調査であり、当時安全区に居た民間人に加え、区外の民間人も全て安全区に避難してくることを想定していた)。
 
 調査では、委員会が南京人口を約20万人と認識していた事から「陥落時の南京の人口は20万人しかなく、30万人を虐殺することは不可能だ」とし、安全区外の住民については、「日本軍による南京攻略前に中国軍による堅壁清野作戦が行われたため、ほとんど存在しなかったはずだ」と主張している。
 
 南京安全区国際委員会の事務局長であったルイス・S・C・スマイスが南京陥落の3ヶ月後に実施した戦争被害調査(スマイス報告)では南京の人口が25万人とされており、
「仮に大規模な虐殺が行われていれば、20万を超える市民が、南京にとどまっていたり、周辺地域から流入することはありえないこと」
として
「陥落時20万人だった人口が、その後すぐに増加していることから、市民が虐殺の存在を認識していなかった」としている。
 
 
 
 
 
 
捏造 (ねつぞう)だった
南京の日本軍がなした多くの人道的活動
日本兵による犯罪は少数あったものの、日本軍による「大虐殺」はなかった
非道行為を行なったのはむしろ中国兵たちだった
 
 
 193712月、日本軍は支那事変を終結させるため、南京へ侵攻。1213日にそこを占領しました。いわゆる「南京大虐殺」とは、その占領から約6週間の間に数十万人単位の人間(市民や捕虜)が日本軍によって南京で虐殺されたとする説です。中国共産党が公式に述べてきたものとしては、その数30万人。
 中国にある南京大虐殺記念館の外壁には、大きな文字で「300,000」の数が、犠牲者数として掲げられており、中国の子どもたちは、反日感情を植え付けられるために毎年そこへ行かされています。

 この「南京大虐殺」は、日本でも戦後、共産党員や共産主義シンパなどを中心に広められ、そののち多くの人々を巻き込み、教科書にまで書かれ、日本人の「自虐史観」の根底に置かれてきました。しかし今日では、このような30万人もの大虐殺、日本軍による大規模の虐殺、また小規模の虐殺さえも、実際にはなかったことが多くの証拠によって明らかになっています。

 日本兵たちによるある程度の犯罪はありました。しかし、それはどこの国の軍隊にもある程度のものであり、むしろ南京での日本軍の活動をみてみると、非常に人道的なもののほうが多く目につきます。

 南京戦の最中、南京市内にいた民間人は全員、南京市内に設けられた「安全区」に集まっていました。日本軍はそこを攻撃しなかったので、安全区の民間人らは誰一人死にませんでした。
 
 日本軍による南京占領が間近に迫ると、中国兵の多くは軍服を脱ぎ捨て、中国人市民を殺して服を奪い、民間人に化けて南京の安全区に逃げ込みました。安全区に逃げ込んだ中国兵の中には、武器を隠し持ち市街戦を準備する者、また安全区内で強姦や、略奪、殺人などを行ない、それを日本兵のしわざに見せかけたり、被害者を脅迫して「日本兵が犯人」と言わせる反日工作の者たちもいました。
 日本軍は彼らを見つけ出すと、彼らのうち特に反抗的な不法戦闘員数千名を処刑しました。国際法では、こうした不法戦闘員は「捕虜」としての扱いを受けることができず、処刑されても致し方ないとされているからです。こうした不法戦闘員の処刑が、誤って「捕虜の虐殺」と伝えられた面もあります。

 しかし日本軍は、一方で、市民や捕虜に対し多くの人道的援助活動を行なっています。その結果、日本軍占領下で飢えのために死ぬ南京市民は一人もいなかったのです。また日本軍の活動に感激して、そののち汪兆銘の親日政府軍に入った中国人捕虜たちも多くいました。

 南京において非道行為を行なったのは、むしろ中国兵たちでした。軍服を脱ぎ捨てて民間人の中にまぎれこんだ中国兵たちは、裸でまぎれこむわけにはいきませんから、民間人の服を奪うために民間人を殺しました。そうしたことをエスピーというアメリカ副領事その他の人々が目撃しています。虐殺を行なったのは日本軍ではなく、中国兵たちだったのです。
 
 

中国兵たちの悪行に辟易していた南京市民たちは、日本軍の入城を歓声をもって迎えた。これは日本軍の入城式の日19371217日)に、食糧やタバコの配給を受け、歓声をもって迎える南京市民ら。
市民がつけている日の丸の腕章は、民間人に化けた中国兵ではないことを証明するために、日本軍が南京市民全員に配ったものである(毎日版支那事変画報 1938.1.11発行)
 
 
 

南京市民に食糧等を配る日本兵たち
イギリス系新聞「ノース・チャイナ・デイリー・ニュース1937.12.24付 南京占領の11日後)
 
 

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