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日韓会談と竹島の不法占拠

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日韓会談について
日韓会談とは

 今日の私のテーマは「日韓会談と竹島問題」です。まずは、日韓会談の説明からはじめましょう。日韓会談は日韓国交正常化交渉ともいいます。
 1951(昭和26)年10月から1965(昭和40)年6月までの13年8ヶ月の大変長きにわたって、日本と韓国の間で国交を結ぶために行われた交渉、これを日韓会談と呼んでおります。始まったときの日本はまだGHQ(連合国軍総司令部)の占領下で戦争の記憶も生々しいものがありましたが、終わったときには東京オリンピックの翌年で日本は高度経済成長の真只中であっ
たわけです。
 

 大変な難交渉でありまして、恐らく戦後日本が行った国交樹立交渉の中でもっともエネルギーを要したものと思われます。日韓会談の時期に日本の首相は6人、外務大臣は9人交代しています(韓国の大統領も3人、外務部長官も10人交代)。1910(明治43)年から35年間の日本の朝鮮統治に対する韓国の反発とそれに対する日本の反論があって激しい論争が行われました。
 それだけでなく、戦後日韓間でおこった様々な問題が交渉を難航させます。結局、1965年に日韓条約が結ばれて日韓会談は終わるのです。日韓条約は、日韓間の国交を成立させた日韓基本条約およびいくつかの協定からなっています。
 
 
 いくつかの協定とは、漁業、請求権および経済協力、在日韓国人の法的地位および待遇、文化財および文化協力の4協定です。その他に、竹島問題に関連した「紛争解決に関する交換公文」も日韓条約に含まれます。
 これらのうち日韓漁業協定は1999年に破棄されて新日韓漁業協定となっていますが、現在の日韓関係の枠組みを形成しているのが日韓条約なのです。竹島問題をはじめ、植民地支配への「補償」問題、旧条約無効問題、文化財「返還」問題など、現在の日韓間の対立点の多くは日韓会談で論議されましたし、また日韓条約をどう考えるかという議論と深く関連するのです。
 日韓会談と日韓条約を検討することは、現在の日韓関係を考えることに直接つながっています。
 
 日韓会談の概略を申し上げます。1951年10月に始まる予備会談から第3次会談までが第一段階ですね。この時期は二つの問題で日本と韓国が非常に対立し交渉がまったく進まないのです。一つは請求権問題です。
 日本が朝鮮を支配していたときの日本と朝鮮との間の経済的な貸し借りをどうする決着させるのかという問題です。太平洋戦争中の朝鮮人の「内地」への動員、いわゆる「強制連行」をどう定義し、どう「清算」するのかという、現在も噴出するあの問題とも関わっています。そしてもう一つの対立点は竹島問題とも関係する漁業問題です。
 
 結局、第3次会談は有名な「久保田発言」で1953(昭和28)年10月に決裂します。外務省参与の久保田貫一郎代表が、日本は36年間の支配の中で朝鮮半島の経済開発に貢献したところもあると本当のことを言ったのです。
 そうすると、韓国側がこれをけしからんとして日韓会談を続けること自体を拒否するわけです。産経新聞の黒田勝弘ソウル支局長がよく言われる「『も』問題」です。日本の支配によい面「も」あったのかという対立で、これは現在も続く問題ですね。
 
 第3次会談決裂後、1958(昭和33)年まで5年間日韓会談は行われません。その後、漁業問題で強硬な姿勢をとって日本漁船を拿捕して「人質外交」を繰り広げる韓国に対して日本が譲歩します。日本は「久保田発言」を取り消し、また、請求権問題で朝鮮半島に残した日本人の財産に対する請求権を放棄します。
 これ以後の日韓会談では、韓国の日本に対する請求権だけが論議の対象となるわけです。こうして日韓会談は1958年4月に再開しますが、第4次会談、再開第4次会談、第5次会談は政治の荒波に翻弄されて議論は進みません。
 これが第二段階です。例えば、日本政府が認めた在日朝鮮人の北朝鮮への「帰還」に対して韓国が反発したことによる1958年12月の第4次会談の中断。
 

 1960(昭和35)年4月の「4・19(韓国語では『サ・イルグ』)革命」-学生たちが立ち上がって李承晩政権を打倒した事件ですが-による再開第4次会談の終結。
 そして1961(昭和36)年5月に軍事クーデターが起きて朴正熙政権が登場する激動の中
での第5次会談の終結。このように第二段階の日韓会談も成果なく終わるのです。
 
 朴正熙政権は、李承晩政権とは対照的に、日韓会談の妥結に積極的な姿勢を見せた政権
でした。この政権のもとで何とか国交が樹立されていくのが1961年10月からの第6次会談、1964(昭和39)年3月からの再開第6次会談、そして1964年12月からの第7次会談で、これが第三段階です。とりわけ1962(昭和37)年の10月、11月に行われた「大平・金鐘泌会談」は画期的でした。日本が譲歩したものの具体的な金額でもめていた請求権問題について、大平正芳外務大臣と金鐘泌中央情報局長の間で何とかまとめるわけです。
 
 
 有名な「無償3億ドル・有償2億ドル」を日本が韓国に経済協力の形で支払うことでの請求権問題を基本的に解決させるわけです。その後漁業問題をめぐってきわめて紆余曲折はありましたけども、韓国の反対運動を押し切って1965年6月に国交が樹立される。これが大ざっぱな日韓会談の流れです。
 
 
日韓会談と竹島問題
 今日の私の話は、この日韓会談と竹島問題を重ね合わせてみようというものです。といいますのは、竹島問題と日韓会談はずいぶん関連するところがあるのです。
 まず、御存じのとおり、竹島問題が表面化するのは、1952(昭和27)年1月18日に韓国政府が行った李承晩ライン宣言です。これは、正式名称を「隣接海洋に対する主権に関する宣言」といいまして、李承晩ラインの中は韓国の主権が及ぶことになったので日本漁船は入るなというものでした。そしてそのラインの中に竹島が入っていたわけです。

 これが第1次会談のはじまる1ヵ月前なのです。竹島問題の表面化と日韓会談の開始が時
期的に一致するという点がまず1点目です。
 
 次に、1954(昭和29)年夏に韓国は竹島を不法占拠します。同じ1954年9月に日本は竹島問題を国際司法裁判所に付託して解決しようと提議したのに対して韓国は拒絶するのです。この1954年は第三次会談の決裂後日韓会談が中断されている時期です。
 そして翌1955(昭和30)年に、韓国政府は李承晩ライン内の日本漁船を砲撃するという宣言を出す。これに対して日本では、韓国に対して自衛隊を出したらどうかという議論が国会で行われるのです。戦後の日韓関係の最悪の時期がこの時だと思いますね。韓国が竹島を不法占拠する時期と、日韓会談が中断して漁業問題をめぐる対立が先鋭化する時期が一致するわけです。これが竹島問題と日韓会談の経緯が一致する2点目です。
 
 そして、竹島問題と日韓会談の経緯が一致する3点目が1965(昭和40)年の日韓条約です。日韓条約の中には、請求権問題や旧条約無効問題のように、あえて同床異夢的なあいまいな解釈で解決を先延ばしにした部分がいくつかあります。竹島問題もそうでした。
 日韓国交正常化にもかかわらず竹島問題は未解決のまま残されるわけです。
 
 このように、竹島問題は日韓会談の開始とともに発生し、日韓会談の難航とともに対立は先鋭化し、そして日韓条約で解決されるべきところを未解決のまま残された。竹島問題と日韓会談は相関性があるのですから、竹島問題を考える上で日韓会談を検討する価値は十分あると思っています。
 特に竹島問題はなぜ生まれたのか、日韓会談で日本は韓国に対して竹島問題についてどのような主張をしたのか、日韓条約で竹島問題はなぜ未解決に終わったのか、これらは皆さんも関心のあるところではないでしょうか。
 
2. 日韓会談の開始と竹島問題
李承晩ライン宣言と竹島問題
 最初に、李承晩ライン宣言に至るまでの過程を整理しておきたい。1946(昭和21)年1月29日にGHQが「若干の外郭地域を政治上行政上日本から分離すること」という指令(SCAPIN-677)を出します。こうして竹島は日本の行政区域から外されるのです。
 そして同じ年の6月22日にGHQは「日本の漁業及び捕鯨業許可区域」という指令(SCAPIN-1033)を出します。日本の船舶及び船員は竹島から12海里以内に近づいてはならない。またこの島との一切の接触を許さないというものです。
 つまり、竹島をマッカーサーラインの外側に置くわけです。冒頭で紹介しました「“李承晩ライン
から竹島問題まで、韓国の主張は正しい”と言われたら」の[図A]を見ていただくと位置関係がわかると思います。この図ではマッカーサーラインはマ・ラインと表記してあります。マッカーサーラインとは総司令部が定めた日本漁船の操業限界線のことです。
 戦前、外国の沿岸で操業して資源を枯渇させるという理由で日本漁船は非常に悪評判でした。そのためにマッカーサーラインが定められたのです。この2つの指令のために島根県をはじ
めとして日本の漁業者は竹島に近寄ることができませんでした。
 この間に朝鮮人-1948年8月15日の韓国建国後は韓国人と呼ぶことにします-が竹島で漁労する。ここから竹島問題が始まったのです。
 
 1951(昭和26)年、竹島問題にとってきわめて重要なことが起こります。GHQがなくなって日本が主権を回復し独立する時期が迫ってくるわけです。アメリカが日本と連合国との間の講和条約草案を作り、韓国も意見を求められました。7月19日に梁裕燦駐米韓国大使がダレス国務長官特別顧問に対して対日講和条約について2つのことを要請します。
 竹島は韓国領であることを書いてほしい、もう一つはマッカーサーラインの継続も書いてほしいということです。ダレスはマッカーサーラインの継続については即座に拒否します。そして、これは国立国会図書館の塚本孝先生の研究で明らかになったのですが、8月10日付のラスク国務次官補の梁裕燦駐米韓国大使宛の書簡で竹島を日本領とすることを韓国に伝えるわけですね
 これに対して、韓国政府は1951年9月7日に臨時国務会議を開いて「漁業保護水域」設定を可決するのです。実は、韓国政府はそれまでにマッカーサーライン消滅に備えて「漁業管轄水域」という李承晩ラインの原型を作って、日本漁船の進出を阻止しようとしていましたが、これには竹島は含まれていませんでした。
 ところが、「漁業保護水域」には竹島を含む日本海の広大な水域が加わるのです。9月7日の翌日が対日講和条約が調印される9月8日ですね。吉田茂首相がサンフランシスコで対日講和条約に調印して日本の独立が認められる。
 
 その前日に「漁業保護水域」を設定した点に韓国政府の危機感があらわれていると思います。米国に再三要請したにもかかわらず、韓国が対日講和条約の締約国になれずサンフランシスコ講和会議に出席できなかったこと、すなわち韓国は連合国として米国に認められなかったという焦燥感にも注意しておく必要があります。
 ただし、李承晩大統領はアメリカがマッカーサーラインを存続させる可能性もあると考えて、この「漁業保護水域」設定を許可しませんでした。
 
 その年1951年の10月に日韓会談予備会談がはじまります。11月22日の第8回本会議で韓国はマッカーサーライン継続を要求しますが、日本はこれに否定的な回答をします。翌1952(昭和27)年1月18日、韓国は、[図A]に示したように、李承晩ライン宣言を行うわけです。内容は2つです。
 一つは朝鮮半島を囲む形で非常に広い水域に主権を宣言するということ。この水域に「漁業保護水域」と同様に竹島が入っていました。
 もう一つはこの水域の漁業資源は韓国政府のみが監督する、要するに日本の漁船は操業できない、ということです。
 
 
 
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