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[転載]先島諸島は、日本の南西諸島南西部に位置する宮古列島・八重山列島・尖閣諸島。沖縄県に所属する。

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先島諸島

 
沖縄本島と先島諸島の位置
先島諸島(さきしましょとう)は、日本南西諸島に属する琉球諸島のうち、南西部に位置する宮古列島八重山列島尖閣諸島の総称である。沖縄県に所属する。
 
 
 
歴史

近代以前

 先史時代の先島諸島では縄文文化の影響は殆ど見られず、台湾との共通点が指摘される土器が多く見つかっている。
 約2500年前から無土器文化(料理には同様に無土器文化を持つポリネシアと同じく石焼を多く用いたと考えられている)に入るが、この時代もシャコガイ貝斧などがみられ、これもフィリピン方面との文化的関係が考えられている。
 
 約800年前ごろからカムイヤキや鍋形土器など、本島さらには北方との関係がみられるようになる。記録としては、『続日本紀』に、714年(和銅7年)に「信覚」などの人々が来朝したと記されており、「信覚」は石垣島を指すといわれる。
 
 14世紀から15世紀沖縄本島に興った琉球王国による海上交易の中継地として次第にその影響圏に置かれた。
 
 1500年石垣島の按司オヤケアカハチが反旗を翻すと、尚真王は征討軍を編成するが、宮古島の豪族・仲宗根豊見親が先鋒となって石垣島に上陸し、オヤケアカハチを討ち取った。これによって先島のほぼ全域が琉球王国の支配下に入ったが、与那国島では女首長サンアイイソバ(サカイイソバともいう)による独立状態がしばらく続いた。
 
 1609年薩摩国島津氏による琉球王国侵攻以降、琉球王府は先島諸島に対して人頭税を導入した。先島の各地には子供や妊婦を処分する遺構が残されている。

近代

 明治政府は、1872年(明治5年)、琉球王国を廃止して琉球藩を設置した。しかし、清はこの日本の政策に反発、琉球は古来中華帝国に服属していたものとして、琉球の領有権を主張した。
 
 日本は琉球領有の正当化のため、台湾先住民による琉球人殺害宮古島島民遭難事件の報復として1874年(明治7年)に台湾出兵を行なった。
 この事件は、1871年(明治4年)、首里王府に年貢を納めて帰途についた宮古、八重山の船4隻のうち宮古船の1隻が台湾近海で遭難し、漂着した69人のうち3人が溺死、山中をさまよった生存者のうち54名が台湾先住民によって殺害されたものである。
 
 1879年(明治12年)、明治政府は琉球藩を廃止し、沖縄県を設置(琉球処分)するが、との間に琉球の領有権問題が発生し、日本政府は日清修好条規への最恵国待遇条項の追加とひき替えに先島諸島の割譲を提案した。
 
 清も一度は応じ、仮調印したが、李鴻章の反対によって妥結にはいたらず、琉球帰属問題も棚上げ状態になった。
 日清戦争の結果、旧琉球王国領の全域が日本領であることを清は事実上認めざるを得なくなった。
 
 政府による近代化は本土や沖縄本島よりもかなり遅れ、人頭税を中心とした王国の制度は20世紀初頭まで温存された。
 
人頭税は、琉球王国により宮古島八重山諸島において「正頭(しょうず)」と呼ばれた15歳から50歳まで(数え年)の男女を対象に1637年から制度化され、年齢と住んでいる村の耕地の状況(村位)を組み合わせて算定された額によって賦課が行われ、そのその由来については古琉球時代である。
 
琉球本土でも類似の「夫遣」と呼ばれる賦課があったが、こちらの方が賦課が重く、加えて村役人の恣意的な徴収(中間搾取)が起こりやすい制度で貧民・病人に重い負担となった。
この制度は中村十作らの努力により帝国議会などでも取り上げられ、1903年(明治36年)に廃止された。

転載元: 日本の海が安全で美しくあれ(尖閣・竹島・対馬・水俣・徳山・福島)


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