大東亜戦争前の海外在住の日系人
日系人の強制収容
日系人の強制収容(にっけいじんのきょうせいしゅうよう, 英: Japanese Internment)とは、第二次世界大戦時においてアメリカ合衆国やアメリカの影響下にあったペルーやブラジルなどのラテンアメリカ諸国の連合国、またカナダやオーストラリアなどのイギリス連邦において行われた日系人や日本人移民に対する強制収容所への収監政策である。1942年から1946年に亘って実施された。
起源
日系人に対する監視
フランクリン・D・ルーズベルト大統領は、日系人人口が多いハワイにおける日本側の情報活動に危機感を抱き、1936年に作戦部長にあてられた覚書で「わたしに明確な考えが浮かんだ。日本の船舶と乗組員に接触するオアフ島の日系人の身元を極秘に洗い出し、有事に際して強制収容所に最初に送り込む特別リストに氏名を記載しておくべきだ」と提案している。
その後、1937年7月に行われた日本陸軍による中華民国への軍事行動に対する通商航海条約の継続停止措置。1940年9月に行われたフランス領インドシナ北部への進駐に対するアメリカ国内の日本人資産の凍結と貿易制限。さらに1941年7月に行われたフランス領インドシナ南部への進駐に対する8月1日の日本への石油の全面禁輸に踏み切るなど、日米間の関係が緊迫度を増した。
日米間における開戦が危惧される中、同年11月にアメリカ政府は国内に在住する日系アメリカ人および日本人名簿の作成を完了した。
その後アメリカが12月8日(アメリカ時間では12月7日)に日本海軍艦隊によって行われた真珠湾攻撃をきっかけに、日本や日本を追ってアメリカに対して宣戦布告を行ったドイツ、イタリアなどの枢軸国と戦争状態に入った後、アメリカ政府はアメリカ本土及び友好国がその大半を占める中南米諸国に住む、枢軸国の国家をルーツに持つ日系アメリカ人と日本人、ドイツ系アメリカ人とドイツ人、イタリア系アメリカ人とイタリア人に対して「敵性市民」としての監視の目を向けることになった。
なお、開戦前にフランクリン・D・ルーズベルト大統領の命により日系アメリカ人および日本人の忠誠度を調査したカーティス・B・マンソンは「90パーセント以上の日系二世は合衆国に対して忠誠であり、日系人より共産主義者の方が危険である」と報告していた。
強制収容の実施
日系アメリカ人と日本人移民
大統領令9066号が発令された後の1942年2月下旬から、カリフォルニア州やワシントン州、オレゴン州などのアメリカ西海岸沿岸州と準州のハワイからは一部の日系アメリカ人と日本人移民約120,000人が強制的に完全な立ち退きを命ぜられた。
最終的に同年3月29日をもって対象地域に住む日系人に対し移動禁止命令が下り、それ以前に自ら立ち退いた一部の人間を除く多くの日系人は、地元警察とFBI、そしてアメリカ陸軍による強制執行により住み慣れた家を追い立てられ、戦時転住局によって砂漠地帯や人里から離れた荒地に作られた「戦時転住所」と呼ばれる全米10ヶ所の強制収容所に順次入れられることになった。
しかし、強制収容所の建設工事が間に合わなかったため、一部の人は一時的に16ヶ所に設けられた「集結センター」に収容されたが、その内のいくつかは体育館や競馬場の馬舎(サンタアニタパーク競馬場もその一つ)であった。
議会ではアメリカ本土の議員(準州であるハワイからの議員はいなかった)から全てのハワイ諸島在住の日系人と日本人移民の強制収容を支持する声も挙がったが、ハワイでは約1000人以上の日系人と日本人移民と約100人のドイツ系アメリカ人とイタリア系アメリカ人がアメリカ本土もしくはハワイの8箇所に設置された強制収容所に送られるに留まった。
ハワイでは既に戒厳が宣告されており、スパイ行為や破壊行為の抑止は十分できると考えられた為、ハワイ諸島在住の日系人と日本人移民の大部分は強制収容を免れた。また、ハワイ諸島には、1940年米国国勢調査の時点で全住民の約37.3%に相当する15万7905人の日系人(うち「ネイティブ」即ちハワイもしくは米国内で生まれた者、もしくは米国以外で生まれたが親が米国国籍を持っていた者が12万552人と約76.3%を占めた)が住むなど、日系人があまりにも多く、社会が成り立たなくなると同時に膨大な経費と土地を必要とすることになるため、強制収容するには現実的に無理があった。
南米諸国の日系人と日本人移民
日米間における開戦当時、ペルーやブラジル、メキシコやコロンビアなどのラテンアメリカ諸国の殆どはアメリカの強い政治、経済、さらに軍事的影響下にあり(モンロー主義)、その殆どが1942年に入ると連合国として参戦するか、もしくは参戦はしないものの連合国よりの政策を取っていた。
強制収容所
大統領令9066号の発令以降、上記のように12万313人の日系アメリカ人、つまり日本人にそのルーツを持つアメリカ国民と日本人移民、そしてメキシコやペルーなどのアメリカの友好国である中南米諸国に在住する日系人と日本人移民が、アメリカ全土の11か所に設けられた強制収容所に強制収容された。
なお、最初に開設されたポストン強制収容所は1942年5月に開設された。その後相次いで強制収容所が開かれ、最後に開設されたクリスタル・シティ強制収容所は同年11月に開設された。
被害
財産放棄
準備期間すら満足に与えられなかった上、わずかな手荷物だけしか手にすることを許されず、着の身着のままで強制収容所に収容された日系アメリカ人及び日本人移民は、強制収容時に家や会社、土地や車などの資産を安値で買い叩かれただけではなく、中にはそのまま放棄せざるを得なかった者も沢山いた。しかもその後長年に亘り強制収容時に手放した財産や社会的地位に対する何の補償も得られず、その結果全ての財産をこの強制収容によって失ってしまった人もいた。
なお、大統領行政令9066号の発令に伴うこの様な措置に対してフランシス・ビドル司法長官は「西海岸の反日感情に迎合し日系人の所有する農地を手に入れようとする利益誘導が絡んでいる」[6]と強く批判している。
カナダ
太平洋戦争が始まるとアメリカやペルー、カナダをはじめとする南北アメリカの13カ国やオーストラリアなどの連合国は、日本人移民のみならず、それらの国の国籍を持つ日系の自国民までも、「敵性市民」として財産を没収されてアメリカや自国内の強制収容所に強制収容させた(この際同じように敵国だったドイツ系の住民やイタリア系の住民は収容所に送られることが無かったことから人種差別だとする意見も存在する)。
「日系カナダ人#抑留」も参照
アメリカの移民日本人1世はこの行為に対し憤慨し日の丸を掲げるなど遺憾の意を示した。その一方でアメリカ育ちの移民日本人2世の若者達の中には祖国への忠誠心を示すために志願、第442連隊戦闘団が組織され欧州戦線(米軍は日系日本人が離反し日本側に付くことを恐れたため、太平洋戦線ではなく欧州戦線へ投入された)の最前線に送られた。
戦線での日系部隊の活躍はすさまじく、半数以上の犠牲をはらいつつも任務を遂行し、活動期間と規模に比してアメリカ陸軍史上もっとも多くの勲章を受けた部隊となった。このことは2世が名実共にアメリカ人として認められた一方で1世と2世の激しい対立を生み出し禍根を残した。しかし、戦後のアメリカ白人の日系人への人種差別と偏見は長い間変わることはなかった。