5日夜全米日系人博物館は、強制収容所当時の教師200人以上の栄誉を称える催しをロスアンゼルスのCentury Plaza Hotelで行い、生存者53名のうち半数の元教師が出席する。日系人11万人が収容された10ヶ所の収容所で教えていた元教師たちは多くが白人で、現在は80~90歳代。ほとんどが老人ホームなどで静かに余生を過ごしている。
1942年~45年連邦戦時移転機関によって運営されていたK‐12学校には約3万人の生徒が通っており、教師たちは博愛的な、あるいは経済的な理由から雇用に応じた。学校は不充分な施設、必需品の欠如、たびたび行われる人事異動などに悩まされつつ、多くは1945年の収容所の閉鎖とともにその使命を終えた。
http://www.latimes.com/news/local/valley/la-me-teachers5feb05,1,7960032.story?coll=la-editions-valley (LA Times)
ご存知のように日本軍の真珠湾攻撃の後、アメリカ、カナダ、オーストラリアの日系人は”戦時移転施設”という名の強制収容所に送られます。今までの生活を捨て、家や店を買い叩かれて強制収容所に移動させられた日系人たちの苦労は、小説にもなっています。(山崎豊子著「二つの祖国」)
ここで称えられている教師たちの多くはこの措置に疑問を抱いて反対し、収容所に送られる子供たちのために食事の用意を行ったり、実際に収容所で子供たちを勇気づけた人々です。
記事にも色々なエピソードがしるされています。ユタ州のTopazキャンプに送られた元大学教師Glenn Kumekawa氏は、「彼らは私たちが知っていたアメリカとのつながりを与えてくれた、つまりアメリカ人みんなが人種的偏見を持っているわけでも私たちを脅威と感じているいるわけでもない、そして可能性がある個人として見てくれる、ということです」。氏は14歳のとき、サンフランシスコの中学校で"アメリカ市民賞"を受けた直後にキャンプに送られた。「キャンプ内であらゆる表立った兆候が、"お前らに未来はない"となっているときに先生たちは、『あなたたちは大事ですよ』と言ってくれました」と語る。
この強制収容所もアメリカの汚点のひとつですね。ドイツ系やイタリア系米人は収容されていないのですから、人種的偏見による措置といわれても仕方がありません。戦争を早期に終了させ、人的被害を防ぐためという理由で日本に原爆を落としましたが、同じ人種だったら落としたか?と提起する人もいるようです。
アメリカは時々こうした極端なことをしてしまいます。禁酒法などというのもそうかもしれません。1920年~33年まで「酒の製造、販売、運搬、輸出入」を禁止したこの法律は、結局裏経済を繁盛させる役目しか果たさなかったようです。
禁酒法はさておき、こういう時代でも世間一般に逆らって、自分の信念を通す人が出て来るのがアメリカらしい、と思うのは私だけでしょうか。アメリカのいいところと悪いところが同時に現れているニュースでした。
(写真はHeart Mountain Concentration Camp)
日系人強制収容所の詳細などは、
http://likeachild94568.hp.infoseek.co.jp/shuyo.html