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[転載]「唐入り」(朝鮮出兵)とは、1592年から1598年にかけて行われた明がスペインの植民地にならないように、朝鮮に明への道を借りた遠征

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 文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)は1592年日本文禄元年、および朝鮮万暦20年)から1598年(日本: 慶長3年、明および朝鮮:万暦26年)にかけて行われた戦争。日本の豊臣秀吉が主導する遠征軍と明および李氏朝鮮の軍との間で交渉を交えながら朝鮮半島を戦場にして戦われた。日本と明・朝鮮連合軍との間で展開したこの国際戦争は16世紀における世界最大の戦争とされる。
 
 文禄の役は1592年(文禄元年)に始まって翌1593年(文禄2年)に休戦した。また、慶長の役1597年(慶長2年)講和交渉決裂によって始まり、1598年(慶長3年)の秀吉の死を受けた日本軍の撤退をもって終結した。
 

名称

 豊臣政権時から江戸時代後期に至るまでは、この戦役が日本が明への遠征を目指す途上の朝鮮半島で行われたものであることから唐入り唐御陣、あるいは高麗陣朝鮮陣などの呼称が用いられていた。秀吉自身は、「唐入り」と称していた(後述)。他、同時代のものとしては「大明へ御道座」という表現がある。
 

環シナ海地域の変化

 村井章介らの研究などを基にすれば、16世紀初頭の1501年から1525年頃には、明、李朝、日本、琉球、東南アジア諸国の環シナ海地域においては、それまでの勘合貿易などの朝貢形式の王朝主導の貿易ではなく、海禁政策に反する非合法な中国人倭寇商人の活動や、堺や博多の豪商などを中心にしたネットワークが構築され、また1510年には三浦の乱1511年にはポルトガルマラッカを滅ぼして東アジアでの交易を始め、1523年には寧波の乱が起きるなど、明王朝の海禁政策を逃れた貿易が広がっていった。
 
 嘉靖帝の時代に、武力による海禁政策の厳格な取締りが進むと倭寇や南蛮人の活動も過激化し、1554年6月には済州島で唐人と倭人の同乗する船が朝鮮水軍と衝突する事件が起き、1555年には倭冦が明の南京や朝鮮の全羅道を侵している(乙卯の倭変)。
 
 

秀吉の「唐国平定」構想

 秀吉が明を征服する事を計画した理由は、かつて仕えた織田信長の支那征服構想を継いだとも 、武士や足軽の人数が過剰になっており将来の内乱や反乱を誘発する可能性を憂慮したためとも、国内の統一戦争の延長として考えていたとも言われている。
 一方外交面においては、秀吉は明とは友好関係を築こうとしており、交易ルートを荒らしていた倭寇の取締りを援助した。

唐国征服構想の時系列

 秀吉は、日本を統一するよりもかなり前から大陸侵攻計画を抱いていたといわれる。秀吉がまだ信長の部将であった1578年ごろ、中国地方の覇権を争っていた毛利輝元に対し信長には明侵攻計画があると伝えている。
秀吉における海外進出の構想を如実に示す文書は、天正13年(1585年)以降である。
  • 天正13年(1585年関白就任直後の9月3日、子飼いの直臣一柳市介への書状で
    「日本国ことは申すにおよばず、唐国まで仰せつけられ候心に候か」
と秀吉は述べている。
  • 天正14年(1586年)3月には、イエズス会準管区長ガスパール・コエリョに対して、国内平定後は、日本を弟秀長に譲り、唐国の征服に移るつもりで、そのため新たに2000隻の船の建造を始めているとしたうえで、2隻の大型船(ガレオン船)のあっせんを依頼している。
  • 同4月、毛利輝元への朱印状14カ条のなかで「高麗御渡海事」と記している。6月には対馬宗氏への書状でも高麗への派遣を語る。
  • 天正15年(1587年)5月9日に秀吉夫妻に仕える「こほ」という女性への書状において
「かうらい国へ御人しゆつか(はし)かのくにもせひはい申つけ候まま」
と記し、九州平定の延長として高麗(朝鮮)平定の意向もある事を示している。
「我朝之覚候間高麗国王可参内候旨被仰遣候」
と記している。高麗(朝鮮)国王は諸大名と同じように朝廷(秀吉)への出仕義務があると考え、直後に李氏朝鮮に対馬の宗氏を介して服属入貢を要求した。
  • 天正16年(1588年)には島津氏を介して琉球へ服属入貢を行い、以後複数回要求を繰り返す。
  • 1590年に小田原城の北条氏を降伏させた秀吉は次の戦争の準備を開始した。
  • 天正19年(1591年)3月から、九州の大名に命じて侵攻軍の基地として名護屋城(現唐津市)の建設を始めた。
  • 同年7月25日にはポルトガルインド副王に宛ててイスパニア王の来日を要求した。
  • 同年9月15日、スペインフィリピン諸島(小琉球)に朝貢と服属を要求。既に朝鮮と琉球は日本に入貢していると述べている。書状は、海外情勢に詳しかった商人原田孫七郎を使者としてマニラスペイン領フィリピンの総督ゴメス・ペレス・ダスマリニャスのもとに届けられた。原田はダスマリニャス返書を持って帰国。翌年の天正20年(1592年)ダスマリニャスの使節としてドミニコ会フアン・コボ(Juan Cobo)が来日し秀吉に謁見した。フィリピン総督の書状を渡したコボは秀吉からの書簡を受け取って帰路についたが、台湾沖で遭難した。
  • 天正20年(1592年)5月18日付関白豊臣秀次宛朱印状では、高麗の留守に宮中を置き、3年後に天皇を北京に移し、その周辺に10カ国を進上し、秀次を大唐の関白に就け、北京周辺に100カ国を与えるとした。また秀吉自身は北京に入ったあと、天竺(インドの古称)や南蛮の征服のために寧波に移るとした。
  • 同年、毛利輝元宛書状では
    「処女のごとき大明国を誅伐すべきは、山の卵を圧するがごとくあるべきものなり。ただに大明のみにあらず、いわんやまた天竺・南蛮かくのごとくあるべし」
    と記している。
  • 文禄2年(1593年)には高山国へ服属入貢を要求した。「高山国」とは当時、台湾に存在すると考えられた国名。商人の原田孫七郎に台湾へ届けさせたが、「高山国」が存在しない国家だったため交渉先を見つけることができずその試みは失敗した。
 
 

軍事力と軍事情勢

 当時の各国の人口は、1600年の時点で、日本は2200万人、李氏朝鮮は500万人、明朝は1億5000万人であったと推測されている(歴史上の推定地域人口参照)。
 またイベリア帝国(スペイン・ポルトガル)は1050万人、オランダは150万人、ブリテン諸島全体で625万人であった。
 
 

文禄の役

東莱城の戦い
小西行長(黄線)及び加藤清正(青線)の進路
  • 文禄元年(1592年)4月12日(旧暦)、釜山に上陸した日本軍は最後通牒を朝鮮側に渡すが、返事はなかった。なお、小西行長宗義智の日本軍一番隊は無益な戦争を望んでいなかったため、「李氏朝鮮の服属と明遠征の先導(征明嚮導)」を「朝鮮に明への道を借りる(假途入明)」と言い換えて、朝鮮軍へ降伏勧告を行っている。
 
 

朝鮮首都・漢城制圧

 5月3日、首都・漢城が陥落し、朝鮮国王は逃亡する。なお、清正の秀吉への報告では「5月2日(当時の暦)に漢城に入った」とある。
 しかし朝鮮王朝実録と、一番隊松浦鎮信側の記録では、「清正・行長とも5月3日に入城した」とあり、清正は先陣の手柄を得るため、1日早めて報告したと考えられる。
 
 
 漢城は既に一部(例えば、奴婢の記録を保存していた掌隷院や、武器庫など)が略奪・放火されており、住民もおらず放棄されていた。漢江防衛の任に当たっていた金命元将軍は退却していたし、王の家臣たちは王室の畜舎にいた家畜を盗んで、王よりも先に逃亡した。
 村々で、王の一行は住民と出会ったが、住民たちは王が民を見捨てて逃げることを悲しみ、王を迎える礼法を守らなかった。
 
 「宣祖実録」によると、このとき朝鮮の民衆は朝鮮政府を見限り、日本軍に協力する者が続出した。ルイス・フロイスも、朝鮮の民は「恐怖も不安も感じずに、自ら進んで親切に誠意をもって兵士らに食物を配布し、手真似でなにか必要なものはないかと訊ねる有様で、日本人の方が面食らっていた」と記録している。
 また、明の朝鮮支援軍が駆けつけると、辺りに散らばる首の殆どが朝鮮の民であったと書かれてある。景福宮昌徳宮昌慶宮の三王宮は、日本軍の入城前にはすでに灰燼となっており、奴婢(奴隷の一種)は、日本軍を解放軍として迎え、奴婢の身分台帳を保管していた掌隷院に火を放った。
 
 
 
 
  
 
 

1/16 「朝鮮出兵の真意」 ~'10.02.27 黒田裕樹の歴史講座

 
 
 
 
 秀吉はポルトガルやスペインがキリスト教を布教させて住民を手なずけた後に日本を武力で侵略する意図を見抜いており、その流れを止めるために伴天連禁止令を出した。
 
 スペインは1571年にフィリピンを征服し、直ちに明国(中国)の征服計画に着手している。織田信長が本能寺の変で明智光秀に殺された翌年の1583年にマニラ司教のサラサールがスペイン国王に送った書簡(6月18日付)には
「…シナの統治者たちが福音の宣布を妨害しているので、これが陛下が武装して、シナに攻め入ることの正当な理由になる…。
 イエズス会日本準管区長のコエリョがスペインに軍隊派遣を要請した直後の1585年5月4日に、秀吉はコエリョと会っている。ムルドック「日本史」にはこう記されている。
 「秀吉はコエルホ(コエリョ)に語りて曰く、予が日本全国を平定するの日は近きにあり。この上は…親から(みずから)進んで、朝鮮、支那の征服に従事する筈ぢゃ。今や大兵輸送の為めに、戦艦二千艙を造る可く、樹木伐採の命を布かんとする所である。予は師父等に、何等の註文なし、但だ彼等の力によりて、葡萄牙(ポルトガル)より二個の巨大にして、武装したる船を獲来る丈の事のみだ。…若し成功して、支那人悉く皆予に恭順せんか、予は支那人より支那を奪うを欲せず、又た予自ら支那にあるを欲せず。予は唯だ支那人をして、予を其の君主と認めしむるを以て、足れりとするのみ。然る時には、其の全土に教会堂を建てしめ、総ての人民に令して、邪蘇教徒たらしめ、聖律に遵由せしむ可し。」(徳富蘇峰『近世日本国民史』)

 秀吉は、コエリョの計画を逆手に取って自らの手で明を征服すべく、中国でのキリスト教の布教を認める代わりに軍艦を手に入れて、逆に彼等を利用しようとしたのだ。
 さらに秀吉は朝鮮出兵の前年である天正19年(1591)に、ゴアのインド副王(ポルトガル)とマニラのフィリピン総督(スペイン)にも降伏勧告状を突き付けて、応じなければ明征服のついでに征服するから後で後悔するな、と恫喝している。

このような降伏勧告状を突き付けても、スペインは日本には攻めて来なかった。
 
 
 
4/16 「朝鮮出兵の真意」
 
 
 
 
14/16 「朝鮮出兵の真意」
 
 朝鮮出兵の朝鮮側の資料である「宣祖実録」には次のように書かれている。
「人心怨叛し、倭と同心」「斬る所の首級半ば皆朝鮮の民」
朝鮮の民衆は既に王や大臣を見限り、日本軍に加担する者が続出した。
 
また、明の朝鮮支援軍が駆けつけてみると、辺りに散らばる首の殆どが朝鮮の民であった。
と書かれているのだ。
 
実際、王が首都漢陽から逃げ延びるとき二人の王子は民衆によって捕らえられて日本軍に引き渡されている。
漢陽死守を願う民衆を見捨てて、王や大臣たちがとっと逃げだしたのだから、朝鮮民衆も彼らのために命を投げ出して日本軍と戦う気が起きるわけがない。
 
また、景福宮などの焼失に関し、
李恒福の「白沙集」によれば、秀吉軍の入城前にはすでに灰燼となっていた。
それは、民衆が兵乱と聞けばすぐに蜂起して、宮廷を襲い略奪したからだ。
ことに奴婢は、秀吉軍を解放軍として迎え、奴婢の身分台帳を保管していた掌隷院に火を放った。

転載元: アジア・太平洋貿易振興・環境保全・環境産業振興・歴史認識


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