アメリカの帝国主義時代 (1882年~1918年)
詳細は「帝国主義」を参照
スペインはかつて広大な植民地帝国を支配していたが、19世紀後半までにキューバ、プエルトリコ、フィリピンとアフリカに幾らかの植民地を残すだけになっていた。
キューバは1870年代以来反乱状態にあり、アメリカの新聞、特にウィリアム・ランドルフ・ハーストやジョーゼフ・ピューリッツァーの新聞は、キューバにおけるスペインの専政について激烈な記事を掲載していた。アメリカの干渉を求める声が上がっていた。
1890年、アメリカ合衆国本土のフロンティア消滅が公式に宣言され、その都市のウンデッドニーの虐殺事件でインディアン戦争も終わりを告げた。その結果マニフェスト・デスティニーの時代が終わり、当時のヨーロッパ列強はアフリカやアジアに植民地を設けていくことに汲々としていたので、アメリカも海外領土を獲得すべきと考える者が多かった。
カリフォルニア州など西部で激しい反中国人暴動が起こった後で、連邦政府は1882年に中国人排除法を成立させた。1907年の非公式合意により、紳士協定で日本人の移民も止められた。
西部開拓時代の終結によって、アメリカ人は更なるフロンティアを海外へ求め、「外に目を向けなければならない」という意識が起こった。
1889年にパン・アメリカ会議が開催され、この力がアメリカのラテンアメリカ進出を促した。とはいえ、モンロー主義に基づくアメリカ合衆国の伝統的な外交政策は引き続き重視されていたため、植民地獲得については消極的であり、もっぱら棍棒外交やドル外交に基づいた経済的進出を狙いとしていた。
アメリカ人はこぞって太平洋上の島々へ移住していった。
すなわち、米国民の反スペイン感情を煽動する報道を繰り返し行った。これは新聞によって煽動された大衆が戦争を要求した最初の例であり、米国政府はこの情報戦略を積極的に利用し、後の戦争のほとんどに活用された。
米西戦争とそれに続く米比戦争に勝利すると、中米の多くの国からスペイン勢力を駆逐して経済植民地(バナナ共和国)とし、プラット修正条項によってキューバを保護国に、プエルトリコやフィリピン、グアム島などを植民地化した。
一方、日露戦争に日本が勝利を収めたことから、西欧諸国はアジア人に対する恐怖を抱き、それまで大量の移民を輩出する中国人に向けられた黄禍論の矛先が日本に向けられたが、米国も同様であり、「オレンジ計画」と呼ばれる対日戦争計画を進めることになる。
また、日本は戦後にロシア帝国と和解、イギリスやフランスと関係強化に乗り出したことから、利権を侵されることを恐れた米国は日本と対立し、一時は西欧メディアが開戦必至と報じるほどに緊張が高まった。同時に、ドイツ、イギリス、メキシコとの戦争計画も持っており、周辺の大国を潜在的な敵国と判断して外交を行うようになった。
カリブ海地域を勢力圏にするために、カリブ海政策を推し進め、これらの地域で反乱などが起こるたびに武力干渉した(棍棒外交)。また、国内東西物流の安定を目的としたシーレーンの確保を目的に、パナマ運河建設権を買収し、2万人以上の死者と長期間の工事を経て、果ては工兵まで投入して完成させた。さらにコロンビアから分離独立させたパナマから運河地帯の永久租借権を獲得した。
またこのころ、石油や電力を中心とした第二次産業革命が起こり、豊富な石油資源を持ったアメリカの工業力は英国を追い抜いて世界一となった。そして強力な企業連合体や独占体が成長し、エクセル、カーネギー、モルガン、ロックフェラーは一代で巨大企業にのし上がり、巨万の富を得た。その後のアメリカ経済は彼ら財閥によって動かされることとなる。
19世紀後半からヨーロッパで人口が急増し、食糧難が頻発した。このため新天地アメリカを目指して多くの移民が発生した。
1880年代からは南欧や東欧からの移民が増加し、彼らは都市部で未熟練労働者として働いたため、低所得者として都市中心部でスラム街を形成した。彼ら新移民はカトリック・正教会やユダヤ教信者であったため、それ以前からの旧移民との間で偏見と摩擦が起こり、しばしば抗争に発展した。こういった新移民にフォード・モーターが技術・言語教育を施し、大量生産方式に組み入れていった。
第一次世界大戦 (1914年~1918年)
すぐに終わるといわれた戦争は長期化し、ヨーロッパはドイツ・オーストリアを挟んで東と西の戦線で非常に荒廃した。イギリスはアメリカの参戦を要望したが、孤立主義の看板を掲げたアメリカは応じることはできなかった。
アメリカは表向き中立政策を維持する一方で、連合国への物資支援のみを行っていた。しかし、1915年客船ルシタニア号がUボートに撃沈される事件が発生、米国民にも死傷者が出ると国内における反独感情は高まり、さらにツィンメルマン電報も要因となり、国民世論は派兵賛成へ転じた。
同盟軍は米国の参戦を前に決着をつけるべく、西部戦線において大攻勢を仕掛けるが、米国の参戦後は物量に押されるようになる。こうしたドイツへの軍事的圧力は、1918年のドイツ革命やドイツ敗戦を導いた一要因であると考えられる。これによって、アメリカは国際的な威信を高めることになった。
【細谷の世界史マンガ講義】第一次世界大戦 第1話 帝国主義の時代
欧州戦線ではドイツが1942年から1943年にわたるスターリングラードの戦いに敗れ、形勢が逆転した。ドイツが劣勢となる中で、米英両軍はフランスのノルマンディーへ上陸した。また、ドイツ軍が発展させた都市無差別爆撃の戦法を英米軍も採用し、ドイツの主要都市をことごとく破壊して国家機能を奪った。同盟国イタリアは政権転覆によって降伏、ドイツは東西両軍から挟み込まれる形となり、ついに自国領内への侵攻を許し、連合国の勝利は決定的となった。
日本は開戦と同時に東南アジア植民地を次々に占領、欧米の統治体制を一時的に崩壊させた。アメリカもフィリピンとグアム、アリューシャン列島の数島を奪われたが、ミッドウェー諸島の占領を阻止(ミッドウェー海戦)し、ガダルカナル島上陸によって戦況は逆転、太平洋の島々で両軍は世界戦史に残る壮絶な死闘を繰り広げた。
ユダヤ人「お前ら日本人は罠にかかったんだよ」
また、米国内の日系アメリカ人を敵性国民として、残らず砂漠地帯に建設した強制収容所に送った。このため、日系人の若者は信頼を回復する為に軍へ志願入隊し、欧州戦線の激戦区に送られた。日系人部隊の戦いぶりは他の部隊を凌駕し、大戦で最多の勲章を受章した。
この活躍により、米国での日系人の信用は徐々に回復して行った。日系人や在住日本人はカナダやペルーなどの国でも同様に収容所へ送られ、終戦まで過ごした。このような措置はイタリア系やドイツ系の国民に対しても、日系人ほどでないが実施され。