1596年、貨物を満載したサン・フェリーペ号という船が、逆風を受けて土佐の浦戸に漂着するという事件が起きており、このときにスペイン大帝国が宣教師を送り込んで侵略を行う手口が秀吉に報告されています。
サン・フェリーペ号の水先案内人が秀吉の五奉行の一人増田長盛に世界地図を見せて、「スペイン国王は、まず宣教師を派遣し、キリシタンが増えると、次は軍隊を送り、信者に内応させて、その伝道地の国土を征服するから、世界中にわたって領土を占領できたのだ」と述べています。
サン=フェリペ号事件(サン=フェリペごうじけん)は、1596年に起こった日本の土佐国でのスペインのガレオン船、サン=フェリペ号漂着事件。豊臣秀吉の唯一のキリスト教徒への直接的迫害(日本二十六聖人殉教)のきっかけとなったとされる。
資料
スペイン側の資料については、サン=フェリペ号船長マティアス・デ・ランデーチョの当初の航海日誌は日本で没収されたため現存しないが、後にランデーチョが『サン=フェリペ号遭難報告書』を記し、現在、セビリアのインディアス古文書館に残されている。
ほか、フィリピン総督府記録はじめ、宣教師による記録など、多数存在する。日欧関係史の研究者松田毅一の『秀吉の南蛮外交』(新人物往来社、昭和47年、のち文庫化)を参照。
経緯
豊臣秀吉は1587年にすでにバテレン追放令を発布していたが、南蛮貿易の実利を重視した秀吉の政策上からもあくまで限定的なものであったため、黙認という形ではあったが宣教師たちは日本で活動を続けることができた。
また、この時に禁止されたのは布教活動であり、キリスト教の信仰は禁止されなかったため、各地のキリシタンも公に迫害されたり、その信仰を制限されたりすることはなかった。サン=フェリペ号事件はそのような状況下で起こった。
1596年(文禄5年)7月、フィリピンのマニラを出航したスペインのガレオン船サン=フェリペ号がメキシコを目指して太平洋横断の途についた。同船の船長はマティアス・デ・ランデーチョであり、船員以外に当時の航海の通例として七名の司祭(フランシスコ会員フェリペ・デ・ヘスースとファン・ポーブレ、四名のアウグスティノ会員、一名のドミニコ会員)が乗り組んでいた。
しかし、船はあまりに損傷がひどく、船員たちも満身創痍であったため、船長は日本に流れ着くことだけが唯一の希望であった。
参考1―ガレオン船
ガレオン船(Galleon)とは、16世紀半ば~18世紀ごろの帆船の一種である。単にガレオン・ガリオン・ガリアンなどとも表記される。戦列艦の原型にもなった。 吃水が浅いため速度が出るが同時に転覆もしやすくなった。小さめの船首楼と大きい1~2層の船尾楼を持ち、4~5本の帆柱を備え、1列か2列の砲列があった。 速度も出て積載量も多く、また砲撃戦にも適したガレオン船は西欧各国でこぞって軍艦・大型商船として運用され、スペインはこれを大型化して新大陸の植民地の富を本国に護送するために使った。 フランシス・ドレイクが世界一周に使用したゴールデン・ハインド号などは有名なガレオン船である。 |
10月19日(文禄5年9月28日)、船は四国土佐沖に漂着し、知らせを聞いた長宗我部元親の指示で船が浦戸湾内へ曳航されたが、湾内の砂州に座礁してしまった。船員たちは長浜(現高知市長浜)の町に宿を与えられたため、一同で協議の上、船の修繕許可と身柄の保全を求める使者に贈り物を持たせて秀吉の元に差し向け、船長のランデーチョは長浜に待機した。
しかし使者は秀吉に会うことを許されず、代わりに奉行の一人増田長盛が浦戸に派遣されてきた。使者の一人ファン・ポーブレが前もって戻ってきて、積荷が没収されることと自分たちも処刑される可能性があることを伝えると船員一同は驚愕した。
増田らは、同伴の黒人男女にいたるまで船員全員の名簿を作成し、積荷の一覧を作ってすべてに太閤の印を押した。船員たちは町内に幽閉された上、所持する金品をすべて提出するよう命じられた。
さらに増田らは「スペイン人たちは海賊であり、ペルー、メキシコ(ノビスパニア)、フィリピンを武力制圧したように日本でもそれを行うため、測量に来たに違いない。このことは都にいる三名のポルトガル人ほか数名に聞いた」という秀吉の書状を告げた。
増田らの一行は積荷と船員の所持品をすべて没収し、航海日誌などの書類をすべて取り上げて破棄すると、都に戻っていった。
無一文となったランデーチョはすぐに都に上って秀吉に直接抗議しようと決めたが、長宗我部元親の許可がなかなか得られず、12月になってようやく都に上った。しかし、都では交渉の仲介を頼もうとしたフランシスコ会などスペイン系の宣教師たちが捕らえられていた。彼ら宣教師はやがて処刑されることになる。
キリシタンら26人は逮捕され、長崎に送致された。長崎のイエズス会は好機到来と悦び、イエスの十字架になぞらえて見せ物にしようと企み、奉行に願い出て、長崎で処刑するよう画策しました。間違いなく天国往きできるという磔刑にして栄光に輝く姿を印象づけようとしたのです。
その後、船員たちの度重なる申し出を受けて、サン=フェリペ号の修繕が許され、一同は1597年4月に浦戸を出航し、5月にマニラに到着した。マニラではスペイン政府によって本事件の詳細な調査が行われ、船長のランデーチョらは証人として喚問された。
1597年9月にスペイン使節としてマニラからドン・ルイス・ナバレテらが秀吉の元へ送られ、サン=フェリペ号の積荷の返還と二十六聖人殉教での宣教師らの遺体の引渡しを求めたが、果たせなかった。
太平洋の覇権(2)
スペイン/ポルトガル
日本は、イエズス会の創設以来、布教区という最下位の地位にあったが、1550年以降準管区となり、初代の準管区長はガスパル・コエリヨである。その後1611年に日本は管区に昇格し、管区長にはヴァレンチア・ヴァリアーノ(既に1579年に来日)が就任した。 イエズス会の基本的な財源は①ポルトガル人や現地住民信者からの喜捨、②ポルトガル国王からの給付金、③ローマ教皇からの給付金、④インド国内に所有する不動産の賃貸収入、⑤インド副王からの贈答金品⑥各種の貿易収入から成り立っていたといわれている。 | |||||
〔図1〕ポルトガルとスペインによる領有 | |||||
マニラはスペイン、他はポルトガルの根拠地 |
当時の海事法との関連
当時日本にいた宣教師ルイス・フロイスもこの事件の顛末を述べているが、そこでは「漂着した船舶は、その土地の領主の所有に帰するという古来の習慣が日本にあったため」積荷が没収されたと述べている。
二十六聖人殉教との関係
サン=フェリペ号事件に関してしばしば「積荷を没収された腹いせに、スペイン人船員(時には航海長のデ・オランディアの言葉とされる)が、『スペインは領土征服の第一歩として宣教師を送り込む』といったことが秀吉を激怒させ、二十六聖人殉教を引き起こした」といわれることがあるが、このような「発言」は1598年に長崎でイエズス会員たちが行った「サン=フェリペ号事件」の顛末および「二十六聖人殉教」の原因調査のための査問会で、証人の言葉として出たとされるもので、日本側の記録には一切残されておらず、その真偽は定かではない。
二十六聖人殉教は、サン=フェリペ号事件が直接的に引き起こしたという単純なものではなく、都周辺での活動を自粛していたイエズス会に対して、新進のスペイン系修道会フランシスコ会やアウグスティノ会が活発に活動をしていたことが秀吉の目についたこと、イエズス会とそれらの托鉢修道会の間にも意見の相違や相克があったこと、事件当時の秀吉が明の冊封使の対応に忙殺されていたこと、呂宋国(フィリピン)との外交関係に関して秀吉に明確なビジョンがなかったことなど多くの原因が複合して起こったものと考えられている。
26人のうち、日本人は20名、スペイン人が4名、メキシコ人、ポルトゥガル人がそれぞれ1名であり、すべて男性であった。
長崎市にある日本26聖人記念館