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豊臣秀吉の東アジア共栄圏構想

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東アジア共栄圏構想の時系列

 秀吉は、日本を統一するよりもかなり前から東アジア共栄圏計画を抱いていたといわれる。秀吉がまだ信長の部将であった1578年ごろ、中国地方の覇権を争っていた毛利輝元に対し信長には東アジア共栄圏計画があると伝えている。
 秀吉における海外進出の構想を如実に示す文書は、天正13年(1585年)以降である。
  • 天正13年(1585年関白就任直後の9月3日、子飼いの直臣一柳市介への書状で
    「日本国ことは申すにおよばず、唐国まで仰せつけられ候心に候か」
と秀吉は述べている。
  • 天正14年(1586年)3月には、イエズス会準管区長ガスパール・コエリョに対して、国内平定後は、日本を弟秀長に譲り、唐国の征服に移るつもりで、そのため新たに2000隻の船の建造を始めているとしたうえで、2隻の大型船(ガレオン船)のあっせんを依頼している。
スペインのガレオン船、デューラー
 
  • 同4月、毛利輝元への朱印状14カ条のなかで「高麗御渡海事」と記している。6月には対馬宗氏への書状でも高麗への派遣を語る。
  • 天正15年(1587年)5月9日に秀吉夫妻に仕える「こほ」という女性への書状において
「かうらい国へ御人しゆつか(はし)かのくにもせひはい申つけ候まま」
と記し、九州平定の延長として高麗(朝鮮)平定の意向もある事を示している。
「我朝之覚候間高麗国王可参内候旨被仰遣候」
と記している。高麗(朝鮮)国王は諸大名と同じように朝廷(秀吉)への出仕義務があると考え、直後に李氏朝鮮に対馬の宗氏を介して服属入貢を要求した。
  • 同年には諜報目的で、秀吉は26隻からなる人員を朝鮮南岸に派遣し、朝鮮軍は問題にならないと結論づけている。
  • 天正16年(1588年)には島津氏を介して琉球へ服属入貢を行い、以後複数回要求を繰り返す。
  • 1590年に小田原城の北条氏を降伏させた秀吉は次の戦争の準備を開始した。
  • 天正19年(1591年)3月から、九州の大名に命じて侵攻軍の基地として名護屋城(現唐津市)の建設を始めた。
  • 同年7月25日にはポルトガルインド副王に宛ててイスパニア王の来日を要求した。
  • 同年9月15日、スペインフィリピン諸島(小琉球)に朝貢と服属を要求。既に朝鮮と琉球は日本に入貢していると述べている。書状は、海外情勢に詳しかった商人原田孫七郎を使者としてマニラスペイン領フィリピンの総督ゴメス・ペレス・ダスマリニャスのもとに届けられた。原田はダスマリニャス返書を持って帰国。翌年の天正20年(1592年)ダスマリニャスの使節としてドミニコ会フアン・コボ (Juan Cobo) が来日し秀吉に謁見した。フィリピン総督の書状を渡したコボは秀吉からの書簡を受け取って帰路についたが、台湾沖で遭難した。
  • 天正20年(1592年)5月18日付関白豊臣秀次宛朱印状では高麗の留守に宮中を置き、3年後に天皇を北京に移し、その周辺に10カ国を進上し、秀次を大唐の関白に就け、北京周辺に100カ国を与えるとした[40]。また秀吉自身は北京に入ったあと、天竺(インドの古称)や南蛮(ヨーロッパや西アジアまでを射程にいれていたともいう[41])の征服のために寧波に移るとした[42]
  • 同年、毛利輝元宛書状では
    「処女のごとき大明国を誅伐すべきは、山の卵を圧するがごとくあるべきものなり。ただに大明のみにあらず、いわんやまた天竺・南蛮かくのごとくあるべし」
    と記している[30]
  • 文禄2年(1593年)には高山国へ服属入貢を要求した[43]。「高山国」とは当時、台湾に存在すると考えられた国名。商人の原田孫七郎に台湾へ届けさせたが、「高山国」が存在しない国家だったため交渉先を見つけることができずその試みは失敗した。その後の孫七郎の消息は不詳[44]

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