継体天皇はどこから? 高槻市 今城塚古代歴史館
- 古墳時代
- 推定生年:『古事記』には485年、『日本書紀』には允恭天皇39年(450年?)。
- 推定没年:『古事記』には丁未4月9日(527年5月26日?)、『日本書紀』には辛亥2月7日(531年3月10日?)または甲寅(534年?)とされる。
- 品太(ほむだ)王の五世(いつせ)の孫(みこ)、袁本杼(をほどの)命、伊波禮(いわれ)の玉穂宮に坐しまして、天の下治らしめしき(この後は、何人かの妻を娶って産ませた子供が19人でこれらの子から後の3人の天皇が出たことを書いている。即ち欽明、安閑、宣化 の3天皇である)。
- ※『日本書紀』に拠る。
- 507年2月?、樟葉宮(くすばのみや、大阪府枚方市楠葉丘の交野天神社付近が伝承地)で即位。
- 511年10月?、筒城宮(つつきのみや、現在の京都府京田辺市多々羅都谷か)に遷す。
- 518年3月?、弟国宮(おとくにのみや、現在の京都府長岡京市今里付近か)に遷す。
- 526年9月?、磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや、現在の奈良県桜井市池之内か)に遷す。
名称 郡家今城遺跡(ぐんげ いましろ いせき) 所在地 高槻市今城町・郡家新町・氷室町一丁目 時代・概要 旧石器時代、奈良時代~平安時代 集落跡 備考 出土した旧石器は平成10年2月、大阪府の有形文化財に指定
キャンプ地の想像図
郡家今城遺跡では、約2万年前の旧石器時代のキャンプ地―獲物を解体して調理し、次の狩りのために石器をつくり、道具の手入れをしたところ―が、何か所もみつかっています。折れた石器や焼石料理に用いた河原石、石器の素材や石器づくりで出る石くずなどが多数出土しました。
そのころ、この一帯は、動物や木の実が豊かな、ブナなどの樹林が広がっていました。狩人たちは小集団で食物を求めて移動しながら生活していたと考えられています。移動の途中には、他集団との出会いもあったようです。出土した掻器(皮なめしの道具)のなかには北陸地方産の石器もあり、広範囲にわたる交流の様子がうかがえます。
そのころ、この一帯は、動物や木の実が豊かな、ブナなどの樹林が広がっていました。狩人たちは小集団で食物を求めて移動しながら生活していたと考えられています。移動の途中には、他集団との出会いもあったようです。出土した掻器(皮なめしの道具)のなかには北陸地方産の石器もあり、広範囲にわたる交流の様子がうかがえます。
石器出土状況
出土したさまざまな石器
叩き石・剥片・石核・ナイフ形・掻器など、木柄は復元
叩き石・剥片・石核・ナイフ形・掻器など、木柄は復元
史跡今城塚古墳(しせき いましろづか こふん) |
高槻市郡家新町 |
古墳時代後期 |
昭和33年2月、国の史跡に指定 |
全景
史跡今城塚古墳は、三島平野のほぼ中央に位置し、淀川流域では最大級の前方後円墳です。西向きの墳丘の周囲には二重の濠がめぐり、総長約350m・総幅約340mをはかり、日本最大の家形埴輪や精緻な武人埴輪が発見されています。
今城塚古墳は、531年に没した第26代継体天皇の真の陵墓と考えられ、古墳時代の大王陵としては唯一、淀川流域に築かれた古墳です。
今後の整備・公開に向けて平成9年から確認調査を行っており、古墳の規模をはじめ、のちの城砦や地震による変形の様子など、貴重な成果が得られています。なかでも平成13・14年度の調査で北側内堤からみつかった埴輪祭祀区(はにわ さいし く)は、大王陵での埴輪祭祀の実態を示すものとして大きな注目を集めています。
なお今城塚という名称は、戦国時代に城砦として利用された江戸時代の絵図などにも今城陵(いまきのみささぎ)などと記されています。
今城塚古墳は、531年に没した第26代継体天皇の真の陵墓と考えられ、古墳時代の大王陵としては唯一、淀川流域に築かれた古墳です。
今後の整備・公開に向けて平成9年から確認調査を行っており、古墳の規模をはじめ、のちの城砦や地震による変形の様子など、貴重な成果が得られています。なかでも平成13・14年度の調査で北側内堤からみつかった埴輪祭祀区(はにわ さいし く)は、大王陵での埴輪祭祀の実態を示すものとして大きな注目を集めています。
なお今城塚という名称は、戦国時代に城砦として利用された江戸時代の絵図などにも今城陵(いまきのみささぎ)などと記されています。
ハニワの出土状況(埴輪祭祀区)
家形埴輪
神殿風に屋根を飾る高床式の家 高さ約170センチメートル
継体天皇
第26代天皇 | |
足羽山の継体天皇像(福井県福井市) | |
450年? 近江国高嶋郷三尾野 (現・滋賀県高島市) | |
531年3月10日? | |
三島藍野陵 | |
袁本杼命・男大迹王 彦太尊 雄大迹天皇 乎富等大公王 | |
彦主人王 | |
振媛 | |
手白香皇女 | |
尾張目子媛ほか | |
安閑天皇 宣化天皇 欽明天皇 他多数 | |
樟葉宮 筒城宮 弟国宮 磐余玉穂宮 | |
継体天皇(けいたいてんのう、允恭天皇39年(450年?) - 継体天皇25年2月7日(531年3月10日?))は、日本の第26代天皇。在位は継体天皇元年2月4日(507年3月3日?) - 同25年2月7日(531年3月10日?)。
戦後、現皇室は継体天皇を初代として樹立されたとする新王朝論が盛んになった。それ以前のヤマト王権との血縁関係については現在も議論が続いている。
生没年
生涯
『古事記』、『日本書紀』によると継体天皇は応神天皇5世の子孫であり、父は彦主人王である。近江国高嶋郷三尾野(現在の滋賀県高島市あたり)で誕生したが、幼い時に父を亡くしたため、母の故郷である越前国高向(たかむく、現在の福井県坂井市丸岡町高椋)で育てられて、男大迹王として5世紀末の越前地方(近江地方説もある)を統治していた。
『日本書紀』によれば、506年に武烈天皇が後嗣定めずして崩御したため、大連・大伴金村、物部麁鹿火、大臣巨勢男人らが協議した。まず丹波国にいた仲哀天皇の5世の孫である倭彦王(やまとひこおおきみ)を抜擢したが、迎えの兵士をみて恐れをなして、倭彦王は山の中に隠れて行方不明となってしまった。
そこで、次に越前にいた応神天皇の5世の孫の男大迹王にお迎えを出した。男大迹王は心の中で疑いを抱き、河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)に使いを出し、大連大臣らの本意を確かめて即位の決心をした。翌年58歳にして河内国樟葉宮(くすばのみや)において即位し、武烈天皇の姉(妹との説もある)にあたる手白香皇女を皇后とした。
継体は、ようやく即位19年後の526年、大倭(後の大和国)に都を定めることができたが、その直後に百済から請われて救援の軍を九州北部に送った。しかし新羅と結んだ磐井によって九州北部で磐井の乱が勃発して、その平定に苦心している(磐井の乱については諸説ある)。日本書紀の記述では継体が507年に即位してから大和に都をおくまで約20年もかかっており、皇室(実態はヤマト王権)内部もしくは地域国家間との大王位をめぐる混乱があったこと、また、継体(ヤマト王権)は九州北部の地域国家の豪族を掌握できていなかったことを示唆している。
531年に、皇子の勾大兄(安閑天皇)に譲位(記録上最初の譲位例)し、その即位と同日に崩御した。『日本書紀』では、『百済本記』(「百濟本記爲文 其文云 大歳辛亥三月 軍進至于安羅 營乞乇城 是月 高麗弑其王安 又聞 日本天皇及太子皇子 倶崩薨 由此而言 辛亥之歳 當廿五年矣」)を引用して、天皇及び太子と皇子が同時に亡くなったとし、政変で継体以下が殺害された可能性(辛亥の変説)を示唆している。
死去年に関しては、『古事記』では継体の没年を527年としており、そうであれば都を立てた翌年に死去したことになる。『古事記』では没年齢は約40歳だが、『日本書紀』に従うと約80歳の長寿であった。
この御世に竺紫君石井(いはい)、天皇の命(みこと)に従わずして、多くの禮無かりき。故、物部荒甲(もののべのあらかひ)の大連(おほむらじ)、大伴の金村(かなむら)の連二人を遣わして、石井を殺したまひき。天皇の御歳、四十三歳(よそじまりみとせ)。〔丁未の年の四月九日に崩りましき。〕御陵は三島の藍の御陵なり
(〔〕は分注)
皇居
上叙の遷都は政治上の重大な変革があったためとする説もあるが、憶測の域を出ない。ただし、この記録が事実とすると、継体が大和にいたのは最後の5年のみである。