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ABCD包囲網は、1941年に東アジアに権益を持つ国々が日本に対して行った貿易の制限に当時の日本が付けた名称。「ABCD」とは、制限を行っていたアメリカ(America)、イギリス(Britain)、

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ABCD包囲網

 
昭和初期の日本(その5-終)
 松岡外相の独ソ訪問と日ソ中立条約(昭和16年)、日米交渉と野村大使の談話、南部仏 ­印進駐、ABCD包囲網、東条英機内閣成立、真珠湾攻撃
 
 
 
 
 ABCD包囲網(エービーシーディーほういもう、ABCD encirclement)は、1941年東アジアに権益を持つ国々が日本に対して行った貿易の制限に当時の日本が付けた名称。「ABCD」とは、制限を行っていたアメリカAmerica)、イギリスBritain)、オランダDutch)と、対戦国であった中華民国China)の頭文字を並べたものである。ABCD包囲陣ABCD経済包囲陣ABCDラインとも呼ばれる。
 
 
 日米戦争はなぜ起きたか。 ちょっと長いけど9分で分かる近代史
 
 何故日本だけに自虐史観があるのか?今でも不思議でならない。動機は何であれ、国を挙げて命を懸けて戦ったのは事実、戦争は喧嘩ではない、武士道・ ­騎士道のルールを持った決闘である。負けたからと言って卑屈になる事はないし、非難・ ­中傷される謂れもない。学習すればいいだけ。

 まして日本人なら賛美することはないが、非難するのは以ての外でしょう。しかしルール破りは犯罪である、しかし時効もある。
 日米戦争は大東亜戦争とか太平洋戦争と呼ばれます。戦争死者数ははっきりしませんが一 ­般的に言われている数字です。支那と中国は一緒です。事実は概ね事実ですが、真実は全 ­て推測です、真実は永久に闇の中です、水掛け論です。ただ推測と憶測は明確に違います ­。
 動物は概ね嘘をつきませんが、知能の高い人間は保身、攻撃、洗脳の為に平気で嘘も付き ­ます。日本人は嘘をつかないランクだけなら推測ですがトップクラスでしょう。
 

概要

 事実上の対日経済制裁の日本側からの別称である。また対日軍事同盟を含めたなんらかの秘密協定や合意・密約が存在したとの論であるが、こちらは真珠湾攻撃陰謀説の一部を構成している。
 
 戦時国際法においては中立国の権利義務が存在しており、ある国が交戦対象国に経済的圧力を及ぼす目的で中立国に協力を要請し、中立国がそれに協力することは中立義務違反として禁じられている。
 このため自国の港湾から輸出される貨物が自国の許可書をもたない場合や、自国の港湾や船舶を経由して敵性国に輸出される貨物が許可書をもたない場合、あるいは「経済封鎖」指定海域を航行する商船(船籍を問わず)に臨検したさい自国の許可書を所持しない場合、許可書のない貨物については敵国所有物として拿捕の対象にするといった手法が開発された。
 また金融資産凍結令は金本位制の時代にはイギリスあるいはアメリカにとって敵性国家の外国為替決裁用資産を没収する強力な外交手段であった。
 経済制裁そのものは強制外交手段のひとつであり、武力使用(交戦)による強制外交と同様に外交上の敵対行為と見なされる。
 
 

アメリカの対日経済「封鎖」

 アメリカは日露戦争以降、中国東北部およびロシアシベリア権益について日本と対立と協調を繰り返してきたが、アメリカが採用した「宣戦布告せず経済制裁する技術」が対日経済封鎖である。
 
 アメリカは日本と開戦しておらず、国際連盟が対日経済制裁を決定する(1938年9月30日)以前には公然と経済制裁によって対中協力をおこなうことはできない。また国際連盟に参加していないため国際連盟と協調行動をとり対日経済制裁に参加する国際法上の、あるいはアメリカ国内法上の根拠がない、とくに日米はともに不戦条約締約国でありアメリカ側からの対日宣戦と受け取られかねない国家実行はアメリカ上院の許容するところではなかった(宣戦布告はアメリカ上院の権限)。
 欧州で大戦が勃発(1939年9月3日英仏対独宣戦布告)して以降もアメリカは外交上中立を維持し9月5日に中立宣言を発布していた。
 
 アメリカは満州事変の発生、とくにルーズベルトが大統領に就任した1933年3月以降、対日貿易を制限する根拠となる法令を成立させてきた。
 これは直接的には1929年から発生した世界恐慌を乗り切るための経済ブロック政策としての面があり、関税・輸出品目統制・金融機関への窓口指導・制限品目への監視体制などである。貿易は原則自由から制限許可制となっており、戦略物資はアメリカからの輸出を原則禁止としたうえで除外国リストから日本(あるいはドイツなど)を慎重に除去するだけでよかった。
 ルーズベルトは1933年には修正対敵通商法を成立させており、この法律は国家が戦争状態にあるとき、議会の承認なく重要な法律や政令を実行に移すことを可能にしたものであるが、ルーズベルトは恐慌の発生を国家の戦争状態とし1933年 銀行法(大統領令6102 のちグラス=スティーガル法)の通達を発するなどすでに議会から(平和裏の)非常時権限を一部獲得していた。
 
 1940年の日米通商航海条約失効以降はアメリカ側が輸出入に関して制限をかけても日本に対抗手段がない状態となった。さらに対敵通商法の適用国となればアメリカの民間人がある国(日本人)と自由に、あるいは第三国を経由して交易をおこなうことを制限する完全許可制となり、対敵通商法の適用を匂わせることで日本に対する「紙上封鎖」圧力を加えることができた。
 当時は金本位制であり日本政府の為替決済用在外資産はニューヨークとロンドンにあり、ニューヨークの日本政府代理店(横浜正金銀行)には1億ドルの金融資産があった。対敵通商法は敵性資産の没収を規定しており返還はされない性質のものだった。
 
 1920年代後半、第二次北伐やそれにともなう山東出兵、済南事件などをうけ、中華民国蒋介石政権は大衆を動員した政治運動として日貨排斥運動を展開しており、1928年5月14日には上海反抗日軍暴行委員会が組織され対日経済絶交を宣言していた。
 アメリカ政府が、上院の許容する外交権限の範囲で、上院の前提とする国際条約と国際法の範囲内において、国内法を使用してイギリス・オランダを含め東アジアの欧米植民ブロックから日本を締め出すためには、議会や(アメリカ大統領には議会への法案提出権は無い)大衆への説得、慎重で精密な法の構成と運用が必要であった。

対日経済封鎖

アメリカによる対日封鎖と経済制裁のあらましを記す。
  • 1937年(昭和12年)10月5日 ルーズベルトによる「隔離演説
  • 1939年(昭和14年)7月 日米通商航海条約破棄を通告
  • 1939年(昭和14年)12月 モラル・エンバーゴ(道義的輸出禁止)として航空機ガソリン製造設備、製造技術の関する権利の輸出を停止するよう通知。
  • 1940年(昭和15年)1月 日米通商航海条約失効
  • 1940年(昭和15年)6月 特殊工作機械等の対日輸出の許可制
  • 1940年(昭和15年)7月 国防強化促進法成立(大統領の輸出品目選定権限)
  • 1940年(昭和15年)7月26日 鉄と日本鉄鋼輸出切削油輸出管理法成立
  • 1940年(昭和15年)8月 石油製品(主にオクタン価87以上の航空用燃料)、航空ガソリン添加用四エチル鉛、鉄・屑鉄の輸出許可制
  • 1940年(昭和15年)同8月 航空機用燃料の西半球以外への全面禁輸
  • 1940年(昭和15年)9月 屑鉄の全面禁輸
  • 1940年(昭和15年)12月 航空機潤滑油製造装置ほか15品目の輸出許可制
  • 1941年(昭和16年)6月 石油の輸出許可制
  • 1941年(昭和16年)7月 日本の在米資産凍結令
  • 1941年(昭和16年)8月 石油の対日全面禁輸
 

経過

 1930年代半ば、世界はヴェルサイユ体制の存続をめぐって枢軸国(伊独日)・自由主義国(英米仏)・共産主義国(ソ連)の3陣営が次第に対立を深める。
 日本は1937年から中華民国と日中戦争支那事変)を行っていた。日本軍が中華民国の占領を進め、また、パネー号事件などの日本軍によるアメリカの在中国権益侵害事件が発生するに従い、中華民国の権益に野心があったアメリカでは人種差別的意識もあって対日経済制裁論が台頭してきた。
 
 近衛内閣1938年に発表した東亜新秩序声明に以前から日本を敵視していたアメリカは態度を硬化させ、1939年日米通商航海条約の廃棄を通告した。
 1940年1月に条約は失効し、アメリカは屑鉄・航空機用燃料などの輸出に制限を加えた。アメリカの輸出制限措置により日本は航空機用燃料(主に高オクタン価ガソリンとエンジンオイル)や屑鉄など戦争に必要不可欠な物資が入らなくなった。アメリカの資源に頼って戦争を遂行していたため、その供給停止による経済的圧迫がなされ、地下資源に乏しい日本は苦境に陥った。
 
 1940年9月、イギリス・アメリカなどが中国国民党政権に物資を補給するルートを遮断するために、日本は親独のヴィシーフランスとの条約締結のもと、仏領インドシナ北部へ進駐した(北部仏印進駐)。さらに同月ドイツとの間で日独防共協定を引き継ぐ日独伊三国軍事同盟を締結した。この同盟によりアメリカは日本を敵国とみなし、北部仏印進駐に対する制裁と、中華民国領への進出など日本の拡大政策を牽制するという名目の元、アメリカは屑鉄と鋼鉄の対日輸出を禁止した。
 その一方で、日本は蘭印(オランダ領東インド)と石油などの資源買い付け交渉を行っており、交渉は一時成立したにもかかわらず、その後蘭印の供給量が日本の要求量に不足しているとして、日本は1941年6月に交渉を打ち切った。この交渉で鍵となったのが航空機用燃料の量で、アメリカの圧力によって蘭印側は、日本が求めた量の1/4に留められた。当時の日本では航空機用燃料の貯蔵量が底をつきかけていた(日蘭会商)。
 4月に、アメリカ・イギリス・オランダの三国は、軍事参謀会議を開き、アジアにおける対日政策について協議した。
 
 海軍などでは三井物産などの民間商社を通じ、ブラジルアフガニスタンなどで油田や鉱山の獲得を進めようとしたが、全てアメリカの圧力によって契約を結ぶことができず、1941年には、民間ルートでの開拓を断念した。
7月には、石油などの資源獲得を目的とした南方進出用の基地を設置するために、日本は仏領インドシナ南部にも進駐した(南部仏印進駐)。これに対する制裁という名目のもと、対日資産の凍結と石油輸出の全面禁止、イギリスは対日資産の凍結と日英通商航海条約等の廃棄、蘭印は対日資産の凍結と日蘭民間石油協定の停止をそれぞれ決定した。
 日本は石油の約8割をアメリカから輸入していたため、このうちのアメリカの石油輸出全面禁止が深刻となり、日本国内での石油貯蓄分も平時で3年弱、戦時で1年半といわれ、早期に開戦しないとこのままではジリ貧になると陸軍を中心に強硬論が台頭し始める事となった。これらの対日経済制裁の影響について、英国首相のウィンストン・チャーチルは、「日本は絶対に必要な石油供給を一気に断たれることになった。」と論評している。
 
 9月、日本は御前会議で戦争の準備をしつつ交渉を続けることを決定し、11月に、甲案・乙案と呼ばれる妥協案を示して経済制裁の解除を求め、アメリカと交渉を続けた。しかしアメリカは、イギリスや中国の要請(大西洋憲章)により、中国大陸からの日本軍の撤退や日独伊三国軍事同盟の破棄、(重慶に首都を移した)国民党政府以外の否認などを要求したハル・ノートを提出。
 これは、暫定かつ無拘束と前置きはしてあるものの、日本側が最終提案と考えていた乙案の受諾不可を通知するものであり、交渉の進展が期待できない内容であると考えた日本政府は、開戦も止むなしと判断した。なお、日本側が乙案を最終提案と考えており、交渉終了の目安を11月末程度と考えていたことは、暗号解読と交渉の経過により、米国側にも知られており、知った上で、穏健案は破棄され、厳しい内容のハルノートが提示された。

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