アボリジニ
"aborigine"とは、英語において日本語の原住民(ab「から」+origin「源」)に当たる言葉であったが、先住民という概念が広がるにつれオーストラリア先住民という意味合いで使われることが多くなった。本稿でもその意味で用いる。
ただし「アボリジニ」に差別的な響きが強いため、現在では「アボリジナル」または「オーストラリア先住民」という表現も一般化しつつある。
概要
起源
アボリジニの先祖がオーストラリア大陸に上陸した時期は、遺物などの分析から5万年ないし12万年以上前とされているが、それ以降にも段階的に人的流入があったとされている。外部地域と隔絶されたのは、遺伝子の研究によりそれほど古くないことが明らかになってきているほか、その祖先の系譜が解明されつつある。
かつては形質人類学的にも不明確な部分が多く、骨格的特長から南インド系とする説や、スンダランド経由で渡来したとする説、またはアフリカから等々、諸説入り乱れていた時代があったが、現在では南インド系とする説が有力である。2014年時点で発見されているオーストラリア最古の人類の化石は、約4万年前のムンゴマンと呼ばれる男性である。
なおオーストラリア大陸は1万8千年前の最も近年の氷期においてユーラシア大陸と飛び石のように連なる島々により、現在よりもはるかに渡りやすい地域(これをサフル大陸とも呼ぶ)だったとも考えられている(国家としてのオーストラリア参照)。
オーストラリア大陸が現在のような状況になって以降は、ヨーロッパ人の到来まで、オーストラリアは外界から隔絶された場所だったという認識が強い。しかし、近年はこれを覆す研究結果がいくつかある。約4000年前には豪州大陸へと渡った古代のインド人とアボリジニとが混血していたという研究結果がある。
オーストラリアは、農耕に適した種類の食物となる植物がユーラシア、南北アメリカ、アフリカと比べ遥かに少なく、家畜に適した固有の動物も一切存在せず(アボリジニはユーラシア大陸から原始的なイヌのみを導入し、家畜としていた。この原始的なイヌの子孫が現在のディンゴである)、また極度の乾燥地帯で、気候の変動も一年周期とは限らず不規則であるなど、他に類をみない過酷な条件が揃う大陸でもあり、文化的に孤立を余儀なくされた。 その地理的条件から、人種的に他の大陸と隔絶され、それらが混血を繰り返しながらオーストラリア全土に広まる過程で、様々な固有文化が派生したとされる。
一括りにアボリジニといっても、多数の部族から成立っており、言語的な調査から26~28程の系統に分類されているが、相互の文化的差異は多い。主な部族に、アナング族(エアーズ・ロック近辺に先住)やジャプカイ族(ケアンズ・キュランダ地域に先住)がある。
白豪主義とアボリジニの悲劇
西洋人がオーストラリアを「発見」した段階では、50万人から100万人ほどのアボリジニがオーストラリア内に生活していた。
しかし、1788年よりイギリスによる植民地化によって、初期イギリス移民の多くを占めた流刑囚はスポーツハンティングとして多くのアボリジニを殺害した。「今日はアボリジニ狩りにいって17匹をやった」と記された日記がサウスウエールズ州の図書館に残されている。
1803年にはタスマニアへの植民が始まる。入植当時3000~7000人の人口であったが、1830年までには約300にまで減少した。虐殺の手段は、同じくスポーツハンティングや毒殺、組織的なアボリジニー襲撃隊も編成されたという。数千の集団を離島に置き去りにして餓死させたり、水場に毒を流したりするといったことなども行われた。
また、1828年には開拓地に入り込むアボリジニを、イギリス人兵士が自由に捕獲・殺害する権利を与える法律が施行された。捕らえられたアボリジニ達は、ブルーニー島のキャンプに収容され、食糧事情が悪かった事や病気が流行した事から、多くの死者が出た。
これによりアボリジニ人口は90%以上減少し、ヴィクトリアとニューサウスウェールズのアボリジナルの人口は、10分の1以下になった。
特に東海岸沿岸部等の植物相の豊かな地域に居住していたアボリジニは、当初はイギリス移民との平和関係を保っていたものの、後の保護政策に名を借りた強制的な移住もあり、この入植者達によるハンティングという惨劇を語り継ぐ者をも残さず姿を消している。
20世紀前半には、アボリジナルは絶滅寸前の人種(死にゆく人種、死にゆく民族)として分類されるようになる。この死に行く民族という規定は、1937年まで続く。死に行く民族という規定が廃止されると、今度は積極的に白人社会に同化させる方針が強化される。
1920年頃には、入植当初50-100万人いたアボリジナル人口は約7万人にまで減少していた。同1920年、時のオーストラリア政府は先住民族の保護政策を始め、彼等を白人の影響の濃い地域から外れた保護区域に移住させたが、これはむしろ人種隔離政策的な性質があったようである。元々オーストラリアに移住した白人は、犯罪者が大半を占めていた。そして、徹底的な人種差別政策、いわゆる白豪主義をもって、移民の制限及びアボリジニへの弾圧政策を続けた。
当時のオーストラリア白人には、世界の他の地域に居住する白人に較べて犯罪率が高く、勤勉性に欠ける傾向がみられる、という報告も存在する。
また、1869年から公式的には1969年までの間、アボリジニの子供や混血児(ハーフ・カーストと呼ばれ売春婦として利用される事があった)を親元から引き離し白人家庭や寄宿舎で養育するという政策が行なわれた。
様々な州法などにより、アボリジニの親権は悉く否定され、アボリジニの子供も「進んだ文化」の元で立派に育てられるべきという考え方に基づくものと建前上は定義されていたが、実際はアボリジニの文化を絶やしアボリジニの存在自体を消滅させるのが目的であった。
政府や教会が主導して行なわれたこの政策で子供のおよそ1割が連れ去られ、彼らの行き先は実際には白人家庭でも寄宿舎でもなく、強制収容所や孤児院などの隔離施設であった。そして、隔離施設から保護を放棄されたり、虐待を受けたり、遺棄された者も少なくはなかった。
結果として彼らからアボリジニとしてのアイデンティティを喪失させることとなった。彼らは"Stolen Generation"(盗まれた世代)、または"Stolen Children" (盗まれた子供達)と呼ばれている。1920年から1930年の間だけで、混血も含む10万人のアボリジニの児童が親元から引き離されて、故郷から数百キロ、時に千キロ以上も離れた、監獄とも言える劣悪な強制収容所に送り込まれた。
無論、アボリジニも全くの無抵抗だったわけではなかった。これらの政策に対してのデモや暴動を起こすものも少なくなかったが、結果としては白人たちの敵愾心を煽るにとどまった。逮捕者の中には、まともな裁判を受けることなく、そのまま死刑に処せられた者もいた。
一方、不毛な乾燥地域である内陸部のアボリジニは周辺の厳しい自然環境に守られながらどうにか固有文化を維持し続けた。今日でもアボリジニ文化の史跡は沿岸部都市より隔絶された内陸地に多く残る。近代のアボリジニ激減と、文字文化を持たなかった事から文化的痕跡を残さず消滅した部族も多く、彼等の言語や文化の系統を調査する試みは進んでいない。音声的に完全に失われた言語も多く、それらの民俗学的調査は「既に大半のピースが失われたパズル」に准えられている。
その後、アボリジナル人口は徐々に回復し、1996年には約35万人になった。これはオーストラリア総人口の約2%である。
アボリジニの市民権は、1967年にようやく認められた。