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黄禍論は日清戦争に勝利した日本に対して、ロシア・ドイツ・フランスが自らの三国干渉を正当化するために浴びせた人種差別政策で、続く日露戦争の日本勝利で欧州全体に広まった。

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黄禍論

 「黄色人種は白色人種に災いをもたらす?!」
-みんなで学ぼう!反日プロパガンダ-
 
 
 
 
黄禍」(: gelbe Gefahr)の名を世界に知らしめた寓意画"Völker Europas, wahrt eure heiligsten Güter"(「ヨーロッパの各民族よ、諸君らの神聖な富を守れ」)。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の図案をもとに、歴史画家ヘルマン・クナックフースが描いたこの絵は、当時のヨーロッパ日本中国清朝)に対する警戒心を端的に表した有名なイラストであり、後に様々なパロディも作られるほどであった。またこの絵はヴィルヘルム2世からロシア皇帝ニコライ2世への贈りものともなった。右手の田園で燃え盛る炎の中に仏陀がおり、左手の十字架が頭上に輝く高台には、ブリタニアイギリス)、ゲルマニアドイツ)、マリアンヌフランス)などヨーロッパ諸国を擬人化した女神たちの前でキリスト教大天使ミカエルが戦いを呼び掛けている。
 
 
 黄禍論(おうかろん / こうかろん、: gelbe Gefahr英語: Yellow peril)とは、19世紀半ばから20世紀前半にかけてヨーロッパ北アメリカオーストラリアなどの白人国家において現れた、黄色人種脅威論。人種差別の一種。フランスでは1896年の時点でこの言葉の使用が確認されており、ドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム2世が広めた寓意画「ヨーロッパの諸国民よ、汝らの最も神聖な宝を守れ!ドイツ語版」によって世界に流布した[日清戦争に勝利した日本に対して、ロシア・ドイツ・フランスが自らの三国干渉を正当化するために浴びせた人種差別政策で、続く日露戦争の日本勝利で欧州全体に広まった。
 

概要

 主な論者にというスローガンを掲げたドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム2世が挙げられる。
 
  近代の黄禍論で対象とされる民族は、主に中国人日本人である。とくにアメリカ合衆国では1882年に制定された排華移民法1924年に制定された排日移民法など露骨に反中反日的な立法に顕われ、影響が論じられる。

歴史

"The Yellow Terror In All His Glory"(1899年)と題された、黄禍に関する諷刺画。辮髪中国人が女性を踏みつけにしている。
The Yellow Menace (1916年9月)
 
 
黄禍という言葉こそ使っていないものの、中国人の脅威を説いたミハイル・バクーニンの例が見られる。
 
 フランスのアナトール・フランスは、黄禍論の横行する世相の中、1904年に発表した小説白い試金石フランス語版』の中で、ヨーロッパの「白禍」こそが「黄禍」を生み出したのだと主張し、反植民地主義を唱えた。
 
 
 
【戦前】欧米の日本叩き
 
 
 我が日本国は明治維新以来、開国進取の国是の下に鋭意西洋文物の摂取に努めその間多少の波 ­瀾があつたとはいへ、よくこれ等の長を採つて国運進展の根基に培い、営々として国力充 ­実に邁進して来たのである。
 殊に明治二十七八年並びに三十七八年戦役に於いて国威を海 ­外に宣揚し、更に世界大戦を経て世界の強大国に躍進した。
 かかる我が国運の隆々たる発 ­展伸張は、東亜の天地を併呑せんとする欧米諸国をして深く嫉視せしめ、その対策として ­彼等は、我が国に対して或ひは経済的圧迫を加へ、或ひは思想的撹乱を企て、或ひは外交 ­的孤立を策し、以つて我が国力の伸張を挫かんとした。
 このことは同時に東亜をしてその ­自主性を喪失せしめ、永遠に彼等の傀儡たらしめんとするものに外ならない。

 世界大戦の帰結たる所謂ベルサイユ体制は、敗戦国ドイツに徹底的重圧を加へると共に、 ­英仏米による世界支配を強化せんとするものであつたといふことが出来る。
 而してベルサ ­イユ条約成立後、国際連盟を中心とする彼等の対日攻勢はいよいよ執拗となり、大正十年 ­より翌十一年に亘るワシントン会議においては、国運の進展に必須の推進力たる軍備の削 ­減を意図して、主力艦の屯数における比率を定めることによつて、我が海軍力に対する彼 ­等の優位を確保せんとした。それのみならず、四国条約によつて太平洋上の島嶼の安全保 ­障に名をかりて我が国防を脅かし、また九国条約によつて支那に対する彼等の権益を擁護 ­し、かつ我が大陸への発展を妨げんと企てた。
 彼らはこれに飽くことなく、更に昭和五年 ­のロンドン会議に於いては補助艦艇の比率をも制限し、我が海軍力を英米に対して絶対的 ­劣位に釘付けせんとした。これ我が国が東亜勃興の推進力としての地位に躍進するを阻ま ­んとせるものに外ならない。
 またこれに前後してアメリカは、我が海外移民の入国を制限 ­または禁止する等の処置に出でた。かく諸方面において、我が国の発展を阻止せんとする ­策謀が続けられたのである。
(文部省編纂『臣民の道』 第一章 二、新秩序の建設 より抜粋)
http://binder.gozaru.jp/shinmin0.htm

◆1904(明治37)年
 2月8日 日露戦争開戦

◆1905(明治38)年
 5月7日 サンフランシスコで日本人排斥大会が開かれ「日本人排斥同盟」が結成される
◆1906(明治39)年
 3月7日 カリフォルニア州が日本人移民の制限を決議
 4月1日 サンフランシスコ市学務局が、市内小学校に通う日本人学童を退学させ隔離学校へ収容す ­ることを決議
◆1907(明治40)年
 1月22日 日本人労働者200人が米国サンフランシスコで上陸を拒否される
 3月14日 学童隔離命令の廃止と引き換えにハワイ、メキシコ、カナダからの日本人移民の米国本土 ­入国が禁止
◆1908(明治41)年
 2月18日 「日米紳士協定」により日本人移民の米国入国が禁止(すでに移民した日本人の家族は入 ­国可)
◆1911(明治44)年
 3月23日 カリフォルニア州上院が日本人の土地所有禁止法案を可決(日本人の土地所有及び3年以 ­上の賃借禁止)
 5月18日 アリゾナ州で日本人の土地所有禁止法案が制定される
◆1913(大正2)年
 1月12日 ワシントン州で外国人土地法案の提出
 1月17日 ワシントン州上院で白色人種と有色人種の結婚禁止法案が提出される
◆1919(大正8)年
 1月18日 パリ講和会議で日本代表団が国連規約に『人種差別撤廃条項』を加えるよう提議 → 賛成11反対5であったが議長ウィルソン米大統領が否決
◆1920(大正9)年
 3月1日 日本人移民による写真や手紙での見合い結婚が禁止される
 11月2日 米国カリフォルニア州議会が排日土地法を改正(日本人移民の借地及び子供名義の土地購 ­入禁止)
◆1922(大正11)年
 11月13日 米国最高裁判所が日本人の帰化権を否認
◆1923(大正12)年
 9月1日 関東大震災
◆1924(大正13)年
 7月1日 米国連邦議会において「排日移民法」が成立(あらゆる日本人の米国入国が完全禁止)

■保次郎一家の移民生活
http://abetomo.net/yasujiro/hainichi....

■強制収容された日系人が砂漠の真ん中で生み出した驚異の芸術作品展『The Art of Gaman』
http://americanart.si.edu/exhibitions...
 
 

アメリカ合衆国

1911年に刊行されたアメリカ合衆国キリスト教ディスペンセーション主義者G・G・ルパート英語版の著書"The Yellow Peril"(『黄禍』)の第三版。
 
 19世紀半ば、清朝が衰退し、イギリスをはじめとする西洋諸国によって半植民地の状態におかれた中国では、安定した生活を求め海外に移住する者(華僑)が出始めた。
 
 ちょうどこの頃、1848年1月24日に当時はまだメキシコの一部であったカリフォルニア州鉱山が発見されゴールドラッシュに沸きかえっていた(カリフォルニア・ゴールドラッシュ)。ゴールドラッシュによる好景気の影響もあって西部開拓が推し進められ、大陸横断鉄道の敷設が進められた。金鉱の鉱夫や鉄道工事の工夫として多くの中国人労働者が受け入れられた(苦力)。1860年代よりカリフォルニアの白人労働者の間で反中国人苦力感情が高まっており、1869年には中国人を雇用する企業に対して「アングロサクソン保護委員会」と称する組織が脅迫状を送っている。
 
 低賃金労働を厭わずに白人労働者と競争していた中国人労働者への反発から、1882年中国人排斥法が制定された。この1882年の中国人排斥法の成立はドイツとオーストリア反ユダヤ主義者に思想的影響を与え、『新ドイツ民族新聞(Neue Deutsche Volkszeitung)』やオーストリアの政治家、カール・ボイルレドイツ語版ユダヤ人を「ヨーロッパ中国人」と呼んで攻撃する立場からこの法律に賛同する声明を発表している。
 同じ差別を受ける者として中国人に擁護的であったユダヤ人作家であるマーク・トゥエインですら、1905年には『黄色い恐怖の物語』を執筆している[23]
 
 少し遅れて19世紀後半に日本人ハワイに移住を始める。1898年ハワイが米国に併合され、また、カリフォルニア開発の進展などにより農場労働者が必要になると、日系移民のアメリカ合衆国本土への移転が増加する。
 祖国では困窮しきっていた彼らは新天地での仕事に低賃金でも文句を言わず良く働いた。そのためイタリア系アイルランド系(いずれも熱心なカトリック教徒)などの白人社会では、下層を占めていた人々の雇用を中国人移民や日本人移民などの黄色人種が奪うようになった。それが社会問題化し、黄禍論が唱えられるようになった。
 
 1880年代より北アメリカ本土のカリフォルニアに移住した日本人移民は1900年代初頭に急増し、急増に伴って中国人が排斥されたのと同様の理由で現地社会から排斥されるようになり、1905年5月には日本人・韓国人排斥連盟英語版が結成された。
 1906年4月のサンフランシスコ地震の後に悪化したカリフォルニアの対日感情のもつれは、1907年に日米当局による日本人移民の制限という形で政治決着した。この事件を契機に、アメリカ合衆国では「黄禍」は「日禍」として捉えられるようになった。その後もアメリカ合衆国の対日感情は強硬であり、第一次世界大戦後の1924年7月1日排日移民法が制定された。
 
 

オーストラリア

オーストラリアでは1860年代より白人労働者によって反中キャンペーンが繰り広げられていた。オーストラリアでは労働組合が先頭に立って黄色人種排斥運動が展開され、オーストラリア植民地政府は黄禍論を出発点に外交政策を立てたため、日英同盟を結んでいたイギリス本国の外交政策とは大きな隔たりがあった。ランビング・フラット暴動英語: Lambing Flat riots)(オーストラリアにおける中国人虐殺事件)も参照。

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