東アジア
地理 世界の諸地域 アジア州 5.人口・民族・宗教 基本
概要
東アジアは太平洋に接するユーラシア大陸東岸に位置し、約1176万キロ平方メートルの面積を占める地域である。地理的な区分として北は天山山脈からモンゴル高原、アムール川(黒竜江)まで、南は雲貴高原の地域であり、東は日本列島や台湾、西はチベット高原やヒマラヤ山脈までを含む地域である。東アジアの東端は日本海、黄海、東シナ海、南シナ海を経て西太平洋に繋がっている。北にロシアのシベリア、南に東南アジアのインドシナ半島、西に中央アジアと南アジア、そして東に太平洋を経て北アメリカと隣接する地域である。
中緯度地帯に位置する広大な陸地でモンスーン(季節風)の影響が大きい特徴がある。西から東にかけて徐々に低い地形であり東西で環境が異なっている。西部の内陸では乾燥気候であるためにゴビ砂漠やタクラマカン砂漠があり、またクンルン山脈とヒマラヤ山脈に囲まれたチベット高原や天山山脈に並ぶモンゴル高原がある。東部の沿岸では南は亜熱帯気候で長江が流れ、北は温帯気候で黄河が流れており、それぞれの河川領域では平地が開けている。東アジア沿岸部を囲むように位置する日本列島や朝鮮半島は山岳地帯が多く沿岸部にわずかな平野が広がっている。
生活する民族には日本民族、漢民族、朝鮮民族などがあり、現在では日本や中国、韓国などの国家が成立している。温暖な気候と河川流域、モンスーンの影響に適した豊かな米作農業地域であることと住める土地が大きい事、太平洋や東シナ海から豊富に採れる事から人口の規模も大きい。工業化が始まったのは19世紀からであるが、日本、中国、韓国に工業地帯が形成されており、他の地域との貿易取引も活発である。東アジアでは古来より儒教や仏教の思想が各地に広まっており、それに伴って漢字や建築様式などの文化において類似性が認められる。軍事情勢においては台湾海峡を挟んだ中華人民共和国と中華民国、朝鮮半島における北朝鮮と韓国の緊張がある。
地理
「アジアの地理」も参照
地形
東アジアの地形は概ね西高東低の地勢であり、それは二つの造山帯によって形成される内陸部の高原や盆地と、西太平洋の沿岸部に位置する平地、半島、島々に分けて説明することができる。
まず内陸では新期造山帯と古期造山帯があり、新期造山帯によってパミール高原を起点としながらアルプス・ヒマラヤ造山帯に属するヒマラヤ山脈、カラコルム山脈、クンルン山脈、チベット高原、雲貴高原が形成され、これは南アジアや東南アジアとの自然境界ともなっている。
さらに古期造山帯は西部から天山山脈、アルタイ山脈、モンゴル高原、大興安嶺山脈が古い山脈として形成されている。これはロシア地域との境界線の一部ともなっている。さらにクンルン山脈と天山山脈を南北に挟まれてタリム盆地、そしてタクラマカン砂漠があり、クンルン山脈の東北のふもとにはツァイダム盆地、モンゴル高原の南方にはゴビ砂漠がある。
歴史的に知られるシルクロードはこの地域のオアシスや登山道を接続して開発された通商路である。
沿岸部の地体構造としては、中国陸塊と呼ばれる安定陸塊の上に卓状地が形成されている。そのため広大な平原が広がっており、海に流れ込む黄河、長江、珠江の流域または河口で平原が開けている。北から遼河流域の東北平原、黄河流域の華北平原、長江下流の平原が広がっている。
また陸地から離れて東シナ海、南シナ海は中国大陸の大陸棚となり、その大陸棚に沿って日本列島や台湾などが環太平洋造山帯上に列島を構成している。そこはプレートテクトニクスの観点からはユーラシアプレートと太平洋プレート・フィリピン海プレートの境界であり、比較的火山や地震の危険性が大きい特徴がある。
気候
東アジアの気候も地形的区分で示した内陸部と沿岸部で異なっている。山脈や高原で囲まれた内陸部は一般に乾燥しやすく、砂漠やステップが広がっている。一方で東の沿岸部では北緯20度から55度にわたってモンスーンの影響から夏の降雨量が増大する地域である。特に中国大陸の秦嶺山脈・淮河以南、台湾、朝鮮半島南端、日本列島は亜熱帯気候であり、夏は高温多湿で冬は逆の条件となるような変化に激しい地域である。
歴史
詳細は「東アジア史」を参照
近代までの東アジア
古代のユーラシア各地では河川流域を中心に灌漑農業が発達し、東アジアでは黄河流域で中華文明が成立した。鉄製農具の開発や農法の改善、それに伴う社会の複雑化により前17世紀には殷王朝が成立することで国家が形成される。
この頃に長江流域にも勢力が及ぶようになる。前4世紀から3世紀にかけての戦国時代では様々な思想家が活躍し、前3世紀で始皇帝の秦王朝により統合された。紀元前1世紀までに漢王朝により再統一され、日本では弥生時代に入る。
3世紀から6世紀にかけて日本列島に大和王権が成立し、朝鮮半島に高句麗、新羅、百済、またモンゴルでも匈奴、柔然といった遊牧民族が盛んに活動した。一方、中国大陸では晋による短期間の統一を除いて、400年近くに渡って国家の分裂が続いた(魏晋南北朝時代)。
6世紀ごろからモンゴル系やトルコ系の遊牧民族がモンゴル高原から中国大陸へと南下を繰り返すようになるが、7世紀の唐の時代になると唐はその勢力範囲を朝鮮半島から中央アジアのパミールにまで伸ばした。
8世紀から9世紀になると日本では律令国家の制度を整えるに至り、さらに唐は北方のアルタイ山脈やモンゴル高原を拠点とするウイグル、西方のチベット高原やタリム盆地を支配する吐番からの侵攻を受けるようになった。
そして10世紀に唐が滅んでから政治勢力は分裂し、東北平原ではモンゴル系の遊牧民がキタイ帝国を建国して中国に対抗し、また朝鮮半島では新羅から高麗へと王朝が代わった。キタイ帝国は11世紀にモンゴル高原にも進出し、その地域では天山ウイグルや西夏の勢力もあった。
13世紀にチンギス・ハンがモンゴルを統一するとヨーロッパや中東にも及ぶ遠征を行い、東アジアでは金と南宋を滅ぼし、朝鮮半島を支配下に入れ、日本以外のほとんどの地域を支配するに至った。統一された地域は元の下で支配されたが、15世紀に元が崩壊してからはモンゴル高原に拠点を戻し(北元、タタル)、中国大陸では明が成立した。
17世紀に明が滅んで清が成立すると支配地域を東北地方、モンゴル高原、チベット高原にまで拡大していた。
近代の東アジア
18世紀に東アジアの情勢に変化をもたらした要因の一つは16世紀から17世紀にかけて行われたロシア帝国の勢力の拡大であり、18世紀には清と国境を接することになっていた。また18世紀にはイギリスの貿易活動が東アジアにも及ぶようになっており、清は華南の広州に限定した上で通商を開始し、また日本でも従来の鎖国から開国へと転換するなど経済的、政治的な影響をもたらした。
19世紀において清がアヘン戦争、日清戦争に敗北してからは、清は急速に欧米列強の植民地化の対象とされる。日本では政治改革や軍制改革、産業転換によって近代化に成功し、日露戦争に勝利してからは朝鮮半島と重要港湾の支配権を確保する。中国では各地で軍閥に別れ、欧米列強を排斥する運動が進められた。その運動から中華民国が新しく成立する。
20世紀に入り、第一次世界大戦後に中国での排斥運動と日本の大陸政策は衝突し、満州事変によって満州を掌握した日本は満州国を建国した。中国では共産党と国民党が連合してこの日本の大陸進出を排除するように呼びかけられ、第二次世界大戦(太平洋戦争)で日本は敗北して中国大陸、台湾、朝鮮半島の支配権を失った。その直後、中国大陸では国民党が共産党に敗れて台湾に渡り、共産党は中華人民共和国を建てて東北地方からチベット地方までの地域を領有することとなり、国民党は台湾で中華民国を再始動させた。