イギリスのアジア進出
イギリスは1600年に東インド会社を設立してアジアに進出し、ジャワ島東部のバンテンに拠点を置いて香辛料貿易への食い込みを図った。またマレー半島のパタニ王国やタイのアユタヤ、日本の平戸にも商館を置いて交易を行ったが、いずれもオランダ東インド会社との競合に敗れて敗退した。
このためイギリス東インド会社はインドに注力し、1612年にスラトに商館を設置したのを初め1639年チェンナイ(マドラス)、1668年ムンバイ(ボンベイ)、コルカタ(カルカッタ)にも商館を設置した。インド貿易は成功を収め、これらの商館は次第に要塞化して周辺のインド諸侯を影響下におくようになった。
この頃フランスもインド東海岸のポンディシェリを拠点にインドに支配を拡大させており、英仏はインドで対立を深める。欧州で七年戦争(1756年-1763年)が起こるとインドでも英仏間の戦争が始まり、ロバート・クライブはプラッシーの戦いでフランス側のベンガル太守軍を破り、ベンガルの領域支配に乗り出した。七年戦争の結果、フランスはポンディシェリなどに非武装の商館を置くことは認められたが、政治的にはインドから敗退した。
こうした中、東インド会社はそれまでの貿易商社から植民地の領域支配を中心とする行政機関へと変質していった。東インド会社が持っていたインド貿易の独占権は1813年に失効し、残された中国貿易独占権も1833年に失われると、東インド会社は商事会社としての機能を喪失し、完全に政治組織へと変貌した。
イギリスはさらにインド諸侯に対する支配を拡大し、1818年にはムガル帝国に代わってインドの最大勢力となっていたマラーター同盟を解体。1848年にはパンジャーブに勢力を張っていたシク教国を滅亡させ、ムガル皇帝まで傀儡化するようになった。1857年に起こったインド大反乱を契機に名目的な存在になっていたムガル帝国を1858年廃し、ヴィクトリア女王を皇帝とするインド帝国を成立させた。
19世紀初頭のナポレオン戦争はイギリスの覇権を樹立する契機となった。オランダが革命フランスの勢力下に置かれたため、イギリスは南アフリカのケープ植民地やセイロン、東インド(インドネシア)などオランダ植民地を続々に占領した。イギリス船はオランダ商館が置かれた長崎にまで来航し、フェートン号事件を起こしている。
ウィーン議定書によって東インドはオランダに返還されたが、セイロンやケープ植民地は返還されず、イギリスは1815年セイロン内陸部のキャンディ王国を征服してセイロン植民地を成立させた。オランダの影響力が弱体化した東南アジアにも再び進出、1819年には東インド会社社員のトーマス・ラッフルズがジョホール王国からシンガポール島を獲得し、シンガポール港を創設した。シンガポール港はマラッカ海峡を扼する要地にあり、自由貿易港として急速に発展してイギリスの東南アジア支配の拠点となった。
1826年にはペナン、マラッカを含む海峡植民地を成立させた。イギリスはさらにマレー半島のスルタン諸国を保護領化して19世紀末には英領マラヤを成立させた。また三次に及ぶ英緬戦争によってコンバウン王朝を破り、1886年にはビルマをインド帝国に併合した。
イギリスは中国の広東開港によって1711年には広州に商館を設立し、中国茶を輸入する広東貿易に従事しているが、本国での紅茶ブームにより貿易赤字が急増したためインドのアヘンを中国に売り込み清朝とアヘン戦争(1839年-1860年)を引き起こした。かつての大清帝国もイギリスの軍事力には勝てず、南京条約によって香港島を割譲したほか、上海・アモイなどの沿海5港を開港させられた。さらにアロー戦争(1856年~1860年)でイギリスは九龍半島に支配を拡大させ、さらに多くの中国諸港を開港させた。
こうして中国までにいたる航路すべてに拠点を確保することで、イギリスはアジア交易において優位を保つことができるようになった。19世紀後半に帆船から蒸気船へと海路の主役が交代すると、石炭を大量に消費する汽船には補給港が不可欠であったため、イギリスの優位はさらに拡大した。
19世紀前半にはアラビア半島東南部のオマーン王国がインド洋西部の交易の覇権を握っていたが、奴隷貿易の禁止と帆船交易の衰退によって急速に衰え、1891年には本国オマーンはイギリスの保護国に、もうひとつの後継国家である東アフリカ沿岸のザンジバル・スルタン国も1890年にイギリスの保護国となった。
イギリス東インド会社
合本会社 | |
国際貿易 | |
解散 | |
1600年 | |
1874年6月1日 | |
イングランド・、ロンドン |
イギリス東インド会社(英: East India Company(EIC))は、アジア貿易を目的に設立された、イギリスの勅許会社である。アジア貿易の独占権を認められ、17世紀から19世紀半ばにかけてアジア各地の植民地経営や交易に従事した。
当初は香辛料貿易を主業務としたが、のちには植民地で独自に徴税や通貨発行を行い、法律を施行し、軍隊を保有して反乱鎮圧や他国との戦争を行う、植民地の統治機関へと次第に変貌していった。
初期には東インド(インドネシア)の香辛料貿易をめざしてジャワ島のバンテンやインドのスラトに拠点を置き、マレー半島のパタニ王国やタイのアユタヤ、日本の平戸、台湾の安平にも商館を設けた。アジアの海域の覇権をめぐるスペイン、オランダ、イギリス3国の争いの中で、アンボイナ事件後、活動の重心を東南アジアからインドに移した。
インドにおける会社の大拠点はベンガルのカルカッタ、東海岸のマドラス、西海岸のボンベイである。フランス東インド会社と抗争し、1757年、プラッシーの戦いで、同社の軍隊がフランス東インド会社軍を撃破し、インドの覇権を確立した。以後単なる商事会社のみならず、インド全域における行政機構としての性格をも帯びるようになった。
主要年表
- 1600年 東インド会社創設
- 1602年 ジャワ島バンテンに商館設立
- 1613年
- インド西海岸スラトに商館設立
- 日本の平戸に商館設立
- 1623年
- アンボイナ事件
- 日本から撤退
- 1640年 マドラスにセント・ジョージ要塞完成
- 1650年 東インド会社の商船が初めて香港に停泊
- 1661年 ポルトガル領ボンベイ、英領に贈与
- 1696年 カルカッタにウィリアム要塞完成
- 1708年 連合東インド会社創設
- 1711年 広東に商館設立
- 1746年 フランス軍マドラス占領
- 1757年 プラッシーの戦い、ベンガルにおける会社の覇権確立
- 1761年 仏領ポンディシェリ占領
- 1765年 ロバート・クライブ、初代ベンガル知事に就任
- 1773年 ウォーレン・ヘースティングズ、初代ベンガル総督に就任
- 1773年 茶法制定。イギリスは北米13植民地での紅茶の販売力強化による会社救済を目指したが、植民地住民の反発に遭いボストン茶会事件が起こる。その10年後の1783年には、アメリカ合衆国が独立することになる。
- 1808年 長崎フェートン号事件
- 1811年 インド軍、オランダ領ジャワ侵攻
- 1813年 インド貿易の独占権喪失
- 1818年 マラータ同盟を解体
- 1820年 マラータ帝国を直接支配地とする
- 1826年 海峡植民地創設
- 1833年 中国貿易の独占権喪失に伴い商業活動停止
- 1841年 アヘン戦争( - 1842年)
- 1858年 セポイの乱によりインド管轄権を失う
インド大反乱の背景
イギリスは、1623年のアンボイナ事件以降(インドネシアを断念して)インドへの進出を開始し、イギリス東インド会社を通じて本格的にインドの植民地化をすすめ(その過程についてはイギリス東インド会社を参照のこと)、ムガル帝国を形骸化させていった。このときイギリスは、インドを本国で製品を生産するための原料供給地並びに、自国の綿製品を売り込む市場と位置づけたため、インドの資源はイギリスに吸い取られ、産業革命を成功させた大量の良質な綿製品がインドに流入したため、極端なインフレ状態になり国内は混乱し土着の綿工業は急激に衰退した。
この過程で権力や財産を失ったかつての支配階層から、木綿工業の衰退による失業者まで、階層を問わず、また市民・農民の区別なく多くのインド人がイギリスへの反感を持つに至り、反乱への参加者の増加につながった。
A 1912 map of 'Northern India The Revolt of 1857–59' showing the centres of rebellion including the principal ones: en:Meerut, en:Delhi, en:Cawnpore (en:Kanpur), en:Lucknow, en:Jhansi, and en:Gwalior. |
インドは多民族が居住しているためもともと国内に多くの不和があり、ムガル帝国の衰退によって藩王国やマラーター同盟などの国内勢力が半ば独立していた状態であったため、これまで組織だったイギリスへの反抗は起きて来なかった。そのため、この大反乱はインドで初めての民族的反乱とされている。
大反乱発生の背景には、いくつかの点が指摘されている。
- イギリス東インド会社が近代的土地所有制度を導入したことによる、農村の変容と従来の地主層の没落。
- インドの物価騰貴にもかかわらず、シパーヒーの給料が据え置かれたことや昇進の遅さ等によって、シパーヒーの不満が蓄積していた。
- シパーヒー側が宗教上の理由から海外出征を拒否するケースが続出し、シパーヒー側とイギリス東インド会社側の対立が生じていた。
- イギリス・インド総督によるアワド藩王国の取りつぶしが、その地の出身者が多いシパーヒー達の反感を買った。
などである。
反乱の失敗によって、形骸化しつつも多少残っていたムガル帝国の権威は完全に消滅し、反英勢力も衰退した。イギリス政府は、一会社に広大なインドの領土を託すことの限界であるとして、この反乱の全責任を負わせる形でイギリス東インド会社を解散させ、ムガル皇帝をビルマに流刑し、インドを直接統治することにした(1858年インド統治法)。