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南京条約(1842年)&虎門寨追加条約&黄埔条約1844&天津条約 1858年&アイグン条約1858&北京条約1860 列強の中国に対する経済進出が本格化していった。

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南京条約

 南京条約(なんきんじょうやく)は1842年アヘン戦争を終結させるためイギリスの間で結ばれた講和条約。江寧条約ともいう。

概要

 1842年8月29日道光22年7月24日)、南京近くの長江上に停泊したイギリス海軍戦列艦コーンウォリス艦上で、イギリス全権代表ポッティンジャーと清国全権代表で欽差大臣の職にあった耆英によって締結された。

条約の内容

  1.  香港島割譲
  2.  賠償金2100万$を四年分割で支払う
  3.  広州福州廈門寧波上海の5港開港
  4.  公行の廃止による貿易完全自由化
その後、南京条約の附属協定として「五口通商章程」と「虎門寨追加条約
(1)領事裁判権(治外法権)
(2)片務的最恵国待遇
(3)協定関税(関税自主権喪失)(不平等条約)が締結された。
 この条約により、それまで強い制限下ヨーロッパとの交易を広州1港で行っていた体制「広東システム」が終結した。
 
 

虎門寨追加条約

 虎門寨追加条約(こもんさいついかじょうやく、または虎門条約)とは、1840年から1842年に発生した阿片戦争において締結した南京条約の後に間で締結された不平等条約のことである。
 南京条約の不明確な内容を明確にするようにイギリスが清朝に求めた為、1843年10月耆英ポッティンジャーがそれぞれ清、英の代表となり香港で『中英五口通商章程』を締結し、また、10月18日に虎門で『南京条約続約』あるいは『虎門寨追加条約』とし締結した。内容は、以下の通りである。
  1. 清朝は、広州福州廈門寧波上海の五港を開港し、イギリス商船による通商を認める。
  2. イギリスの商人は内地旅行を禁止する。
  3. イギリス人は五港の定められた地域の中で、家屋または土地を租借し居住することが出来る。
  4. 双方の関税は、以後両国の共同の協定によって決める(関税自主権の喪失)。
  5. イギリス人が犯罪を犯した場合、イギリスの官憲が逮捕、清朝と協議の上にイギリス官憲が共同調査する。すなわち領事裁判権を認める。
  6. もし清朝が他国との条約で有利な条件を他国に与えた場合、イギリスにも同一条件を認める。すなわち清朝は片務的最恵国待遇を負う。
 

黄埔条約

 黄埔条約(こうほじょうやく)は、1844年フランスの間で結ばれた国際条約。
 
 アヘン戦争でイギリスに敗北した清は、南京条約虎門寨追加条約を締結したが、その内容は治外法権関税自主権の喪失などを含んだ不平等条約であった。そのあと、同様の内容を1844年の望厦条約でアメリカにも認めた。
 このことを踏まえ、1844年10月24日に広州郊外の黄埔において、フランスと清の間にも修好通商条約が結ばれた。これを黄埔条約と称する。特に、この条約ではフランスのカトリック宣教師の中国入国の自由が最初に規定された。こうして、列強の中国に対する経済進出が本格化していった。
 
 

望厦条約

 望厦条約(ぼうかじょうやく、Treaty of Wanghia)は、1844年アメリカ合衆国の間で結ばれた条約。
 アヘン戦争イギリス帝国に敗北した清は、イギリスと南京条約虎門寨追加条約を結んだが、その内容は関税自主権の喪失、治外法権などを定めた不平等条約であった。
 1844年7月3日にマカオ郊外の望厦村において、イギリスに南京条約で認めた内容とほぼ同様のことを定めた修好通商条約が結ばれた。これを望厦条約と称する。この後10月に、清はフランスとも黄埔条約を結び、中国への列強進出は本格化していった。
 

天津条約 (1858年)

条約の調印の様子
条約の締結
 
 天津条約(てんしんじょうやく, Treaty of Tianjin)は、中国天津において、清国と諸外国間に締結された17条約の通称。
 
 1857年に始まったアロー戦争で英仏連合軍が広州を占領し、さらに北上して天津を制圧したため、清朝が天津でロシア帝国アメリカ合衆国イギリスフランスの4国と結んだ。この条約は広範囲な外国の特権を規定しており、それ以後の不平等条約の根幹となった。

概要

 清朝側代表は大学士桂良であった。まず清朝はロシアと1858年6月13日に締結、その後6月18日にアメリカと、さらに6月26日にイギリス、6月27日にフランスと締結した。締結時には「天津条約」と言う名前ではなかったが、歴史的に便宜上そう呼ばれる。

条約の内容

  1.  軍事費の賠償(イギリスに対し400万両、フランスに対し200万両の
  2.  外交官の北京駐在
  3.  外国人の中国での旅行と貿易の自由、治外法権
  4.  外国艦船の揚子江通行の権利保障
  5.  キリスト教布教の自由と宣教師の保護
  6.  牛荘(満州)、登州(山東)、漢口長江沿岸)、九江(長江沿岸)、鎮江(長江沿岸)、台南(台湾)、淡水(台湾)、潮州(広東省東部、後に同地方の汕頭に変更)、瓊州海南島)、南京(長江沿岸)など10港の開港
  7.  公文書における西洋官吏に対して「夷」(蛮族を指す)の文字を使用しない
 を主な内容とするが、英仏軍が引き上げると清廷では条約に対する非難が高まり、条約の批准を拒んだ。このため英仏軍はさらに天津に上陸、北京を占領したため、ロシアの仲介で1860年北京条約が締結され、天津の開港や外国公使の北京駐在、九竜半島の英国への割譲が追加された。したがって1858年の天津条約は1860年まで履行されなかった。
 
 
 

北京条約

 
北京条約
 
 北京条約(ぺきんじょうやく、Convention of Peking)は、1860年咸豊10年)に清朝イギリス10月24日)・フランス10月25日)連合軍、および清朝とロシア帝国11月14日)が締結した条約。天津条約の批准交換と追加条約である。
 
 
 

経緯

北京条約の原因となる事件に巻き込まれることになったパークス。割譲された九竜には彼の名が冠せられた通り「パークス通り中国語版」がある。
 
 アロー戦争後に天津条約が結ばれ英仏軍が引き上げたが、この条約の結果では英仏は満足していなかった。また清の朝廷内部では条約に対する非難が高まり、清は条約に定められた1年以内の批准を拒んだ。このため英仏軍は再び天津に上陸、咸豊帝熱河へ撤退し、北京を任された恭親王も英仏連合軍の侵攻が始まると表に出てこなくなった。
 北京を占領した連合軍は円明園を略奪し焼き払い、恭親王に最後通牒を送った。結局、ロシアの仲介で北京にあった礼部衙門において清と英仏連合軍との交渉が行われ、清とイギリス、清とフランスとの間に新たな条約が結ばれた。また仲介したことを口実に清とロシアとの間でも新たな条約が結ばれた。いずれも不平等条約である。
 
 
1860年11月2日 条約を締結した直後の恭親王奕訢
イギリス側代表エルギン伯爵

内容

この条約で、清朝は
  1. 英仏への800万両の賠償金の支払い(天津条約で課せられた額600万両より増額)、
  2. 天津条約の実施(北京への外交官の駐留等)、
  3. 天津の開港
  4. 清朝による自国民の海外移住禁止政策の撤廃と移民公認
が定められた。また英仏個別の条項では、
  1. 清朝が没収したフランスの教会財産の返還、
および
  1. 英国へ九竜半島の南部九竜司地方(香港島に接する部分)を割譲
することが定められた。

ロシアとの条約

満洲

右側の薄い赤が外満洲:条約でロシア領と確定した部分。なお、ロシア帝国が設置した「沿海州」は「沿海地方」のほかオホーツク海沿岸全域に及んでいたことに注意すべきである。
 
 ロシアは、まず清が認めていない1858年アイグン条約の条文をだすことで、その効力を清に確認させた。これでアムール川左岸の領有権を確保する。さらに吉林将軍管轄区の一部である、図們江(以下「豆満江」)、ハンカ湖ウスリー川以東アムール川以南の地域(東韃靼)が割譲された。
 アイグン条約では清とロシアの共同管理地となった地域であったが、この条約によってロシア領と確定された(第一条)。この条約のもと興凱湖界約1861年)、琿春東界約1886年)がむすばれて国境線がほぼ定まった。
 
 ロシアはこの後すぐにウスリー川以東など広大な地域を沿海州に含め、すでに2年前から清に無断でそこに建設していたハバーロフカの領有を正当化するとともに、海參崴(ハイシェンワイ)にウラジオストクを建設した。そしてすでに設置していたアムール州などとあわせて1884年沿アムール総督府を設置することになる。
 
五千ルーブリ紙幣に「1858」の年号とともに描かれたハバーロフスク
 
 
 豆満江が清と朝鮮との国境であったことから、清は日本海への出口を奪われたことになるが、琿春議定書1886年)で豆満江の航行権(いわゆる「出海権」)が認められた。
 
 なお国境について20世紀に入ってから、曖昧な部分を巡って張鼓峰事件珍宝島事件が勃発している。張鼓峰事件では、その影響で中国にとって日本海への出口の豆満江が封鎖されてしまったが、1991年中ソ国境協定で再びそれが認められた。
 
 最終的に国境は、中華人民共和国ロシア連邦とによる中露国境協定2004年)で確定された。なお、豆満江左岸がロシア領となったことに関連して鹿屯島韓国語版問題が1883年朝鮮当局より提起されているが、現在でもロシアは反応を見せない。

トルキスタン

 第二条でトルキスタンの境界を劃定することになり、のちにタルバガタイ条約1864年9月)が結ばれ、国境線が天山山脈に東遷し、清はイシク・クルなどの広大な地域を割譲した。さらに付加条約として、1869年ホヴド界約オリアスタイ界約などがむすばれ、タンヌ・オリアンハイ西部をも割譲した。(外西北
 
 
外西北
 トルキスタンはさらにイリ事件を迎えることになる。

その他

 また、ロシアはキャフタのほかウランバートル(中国名:庫倫クーロン、ロシア名:ウルガー(ru))、張家口(ロシア名:カルガン)(第五条)、カシュガル(第六条)での商取引の自由を得た。ロシアはイリタルバガタイのほかカシュガルとウランバートルに領事館を設けた(第八条)。
 
 なお、ソ連、ロシア連邦はこの条約(とアイグン条約)が不平等条約ではないと主張し、中国の一部の民族主義者の旧領返還要求を無視している。中華人民共和国はこの条約が不平等条約であるとは言っているが、前述のとおり、国境線はおよそこの条約に沿っておりロシア領にはロシア名にしている。
 これに対して中華民国は不平等条約である以上、全部無効であると主張しているため、大陸における満洲の地図でロシア名で示されている地名が、台湾におけるそこの地図では一部漢語名(満洲語名)にさしかえられている。ただしその地図においても国境線はあまり違いがない。
 
 

アイグン条約

 アイグン(璦琿)条約(あいぐんじょうやく)は、ロシア帝国と中国のが、1858年5月28日中国北東部、アムール川中流のアイグン(現黒竜江省黒河市)において結んだ条約
 条約によって、1689年ネルチンスク条約以来、清国領とされてきたアムール川左岸をロシアが獲得し、ウスリー川以東の外満州(現在の沿海州)は両国の共同管理地とされた。また、清はロシアにアムール川の航行権を認めた。
 
 19世紀から20世紀初頭にかけて、清が列強と結ぶことを余儀なくされた不平等条約の一つである。太平天国の乱アロー戦争(第二次アヘン戦争)による清国内の混乱に乗じたロシア帝国東シベリア総督ニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキーが、停泊中のロシア軍艦から銃砲を乱射して、調印しなければ武力をもって黒竜江左岸の満洲人を追い払うと脅迫し、清国全権・奕山中国語版英語版に認めさせた。
 
 現在のロシア連邦と中国の極東部での国境線は、このアイグン(璦琿)条約と1860年北京条約で確定されたものが基本となっているが、その後の河川の流路の変化により、中ソ国境紛争など両国の対立の原因の一つとなっていた。しかし、2004年にようやく国境全部の画定が完了した。
 この条約により、実質的にネルチンスク条約の効果は完全に失われた。

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